「!?」
男は、自分の手から黒い塊が弾かれるのを見た。
銃が部屋の隅に転がっていくのを認め、初めて手元に武器がなくなったことに気付かされる。
次の瞬間男が目にしたのは冷たい床で、腕は背中に回されていた。
「確保」
低く、無感情な男の声が頭上から振る。
「……隊長」
子供が小さく呟く。
先ほどまで足の下にあった子供の、あっけに取られたような顔がそばにあった。
場違いな着信メロディが、静寂を破った。
髭の男が上着のポケットからスマホを取り出し、耳に当てる。
「ふむ。了解」
短い報告を聞いて、電話はすぐ切られた。
髭の男の口から、にわかに信じがたい事実が告げられる。
「君たちの組織が、たった今、制圧されたよ」
「……は?」
「土地の不正取引、及び恐喝、殺人未遂の現行犯で逮捕する」
バラバラと足音を立て、数人の警察官が現れ、黒服たちに手錠をかけていく。
ポカンと口を開けるドゥラカたちの前で、黒服たちは連れて行かれてゆく。
教会の中に静けさが戻った。
嗅ぎ慣れない硝煙と血の匂いは、まだ消えずに残っている。
救急隊がオクジーの処置を始め、バデーニはそばで無言で立ち尽くしていた。
女性警察官に声をかけられて、ドゥラカの意識は現実に引き戻される。
そして警察官の向こうに見慣れた姿を見て、息を呑む。
しかし、表情の消え去った顔は、今まで見たことがなかった。
「ドゥラカさん」
声をかけられ、ドゥラカはびくりと肩を震わせた。
ヨレンタ。服装はいつものものだったが、背筋に一切隙がない。
その視線は、湖面のように静かだった。
「……はい」
「怪我は?」
「……ありません」
ヨレンタは、周囲を一度見回した。床に落ちた血。蒼白な顔の子供たち。
緊張の糸が切れたアルベルトが、泣き出した。
「全員、生きているわね」
それだけを確認してから、ドゥラカに視線を戻す。
「質問する。あなたは、ここで、何が起きる可能性があったと思う?」
突然の問いに、ドゥラカは戸惑う。
「……撃たれて、殺される……とか」
「他にもある」
否定も叱責もない。
「証拠隠滅のために建物ごと焼かれる。その場合、死亡確認すらされない可能性もあった」
ドゥラカの指先が、冷たくなる。
「あなたたちが今、運良く助かったのは、あなたの計画が優れていたからではない」
瞬きほどの沈黙。
ヨレンタは言葉を続ける。
「ただの偶然。介入が数秒遅れていれば、結果は違っていた」
ヨレンタは一歩、ドゥラカに近づく。
声は低く、いつもの穏やかさは影を潜めていた。
「あなたは賢い。状況を読む力もある」
ドゥラカが服の裾を握りしめた。
「――だからこそ、始末が悪い」
視線が、真正面から突き刺さる。
「ここは、大人の世界。踏み込んだ時点で、もう子供だからで守られる場所ではない」
ドゥラカは目頭にツンとした痛みが走るのを感じた。
「あなたのしたことは、ただの無責任」
沈黙。
アルベルトが、隣で小さく鼻をすする。
ヨレンタは一度、目を伏せた。
睫毛がわずかに揺れる。
「今回は、私たちが後始末をしたけれど。
……次はない。今度はあなたが誰かの死を背負うことになるかもしれない」
ドゥラカの喉が、ごくりと鳴る。
「覚えておきなさい」
ヨレンタは、静かに言い切った。
「……はい。……ごめんなさい」
ドゥラカはそれ以上何も言えず、ただ自分の手を見下ろした。
「いやー、危機一髪でしたね」
間延びしたラファウの声が場の緊張を緩めた。
「お前、今までどこにいたんだよ!」
レヴァンドロフスキが食ってかかる。
「機転を効かせて助けを呼びに行った僕に、その言い草?」
「ありがとうラファウ君命の恩人!」
「手のひら返しがすごい」
ラファウのしたり顔は、しかし一瞬で目の前に現れた人物によって瓦解する。
「な……兄さん」
ラファウそっくりの青年が、薄い笑みを浮かべて立っていた。
「なんでここに」
「連絡をいただいてね。急いで駆けつけたと言うわけさ」
「よりにもよって……」
「愚弟が迷惑をおかけして申し訳ない。いつも仲良くしてもらって、ありがとう」
人当たりの良い笑みは子供たちの警戒の糸を解く。
「ラファウの兄、まともじゃね?」
「やはりやばい奴の言うやばいは一周回ってまともでは」
そう言っているうちに、レヴァンドロフスキやフライの家族が到着したらしい。
周りへの謝罪やら、叱りつけやらで、忙しない。
「……アルベルト」
「父さん」
アルベルトは父親に抱きしめられている。
「……すみません。私たちがアルベルトを巻き込んでしまって、危険な目に」
「違います、元はと言えば僕が!」
再びベソをかきながらアルベルトが言葉を遮る。
「……大切なものなのに、こんなところに隠したから」
アルベルトの父は、辛抱強くアルベルトの言葉を聞いている。
「大切なものとは、これのことか?」
バデーニが現れた。背後にはいつものようにオクジーがついている。足を引きずっていたが、もう血は止まっているようだった。
「書庫に見慣れぬものがあった」
「バデーニさんは、書庫にある全ての書籍を把握しているんですよ」
バデーニは満更でもなさそうに薄く笑った。
「ふん。貴重な資料を失うわけにはいかないからな。資料を保管し、次の時代に引き継ぐことこそ私の使命だと思い、ここに志願して聖職者になった」
オクジーは慌ててフォローする。
「あ!でもちゃんと司祭としての仕事もされてますから」
しかし、目が泳いでいた。
「じゃあ、結婚式とかもしてるの?」
「ああ」
バデーニの手に握られた、水色の表紙の冊子。アルベルトはそれを見て声を上げた。
「神父様!それ!」
「……それ」
ラファウが呟いた。顔が真っ青だった。
「おや。アルベルト君の大切なものって、これのことだったのかい」
ラファウ兄が、ひょこりと顔を出す。
「はい。先生から預かってた、大切なものです」
アルベルトはバデーニから渡された冊子を、大切そうに抱きしめた。
「……どういうこと、兄さん」
「ラファウがいけないんだよ。君の可愛い幼少時代の写真が詰まったアルバムを、捨てるなんて言い出すから」
ラファウ兄がアルベルトの頭を優しく撫でる。その微笑みは、どこか計算され尽くしたものに見えた。
「だから、信頼できる僕の生徒のところに預けてたってわけさ」
ははは、と笑うラファウ兄の胸ぐらを、ラファウが掴んだ。
「すべての元凶は、兄さんじゃないか!」
静かな教会に、ラファウの声がやけに大きく響いた。
静寂で満ちた夕方の教会。
ステンドグラスから差し込む光が、床に幻想的な陰影を落としていた。
ドゥラカは、仕事終わりのシュミットとヨレンタを、行き先を告げずにここに連れて来た。
バデーニがいつもより厳かな聖職者の服に身を包み、二人を誘う。
戸惑い、躊躇する二人。
バデーニの「私、忙しいんで」と言う圧のかかった言葉に、渋々従うしかなかった。
シュミットは仕事服のまま立っていた。
背筋をいつもよりまっすぐ伸ばし、心なしか緊張した面持ちでその時を待つ。
ヨレンタは同じく普段着の上に、白いヴェールだけを被っている。
飾り気はない。しかしその薄布一枚が、彼女をいつもより少しだけ特別な存在に見せた。
祭壇前の席には、子供たちが並んでいる。
ドゥラカ、レヴァンドロフスキ、フライ、ラファウ、そしてアルベルト。
少し離れた場所に、落ち着かない顔で座るオクジー。
「では」
バデーニ神父が、静かに声を上げた。
「シュミットさん、あなたはこの女性を妻とし、神の掟に従って結婚の契約を守り、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛し、敬い、慈しみ、死がふたりを分かつまで、この絆を守り続けることを誓いますか?」
シュミットが一歩前に出る。
少し言葉を探し、それから続けた。
「はい。喜びも、危険も、日常も。全てを共にすることを誓います」
ヨレンタは一度、目を伏せてから顔を上げた。
「ヨレンタさん、あなたはこの男性を夫とし、神の掟に従って結婚の契約を守り、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛し、敬い、慈しみ、死がふたりを分かつまで、この絆を守り続けることを誓いますか?」
「はい。……私は、あなたの前では、自然体でいられる。あなたとずっと、共に歩むことを誓います」
ヴェールの下で、微かに笑う。
シュミットが指輪を取り出す。
銀色の、飾り気のないリングが薬指に通される。
次に、ヨレンタが同じように指輪を受け取り、シュミットの指にはめた。
「……これにて」
神父が小さく頷く。
「あなた方は、夫婦です」
静寂。
次の瞬間。
「……で?」
ラファウが、首を傾げた。
「そこで抱きしめてあげたらいいんじゃないかな」
レヴァンドロフスキが前のめりになる。
「そうそう、ギューとかチューとかしちゃえよ隊長!」
アルベルトが顔を真っ赤にして目を覆う。
「ちょっとお前ら、声が大きいよ」
フライが小声で注意するも、誰の耳にも届いていなかった。
ヨレンタが一瞬、困ったように瞬きをし、ふっと力を抜いた。シュミットの胸に、そっと手を伸ばす。
シュミットは一拍遅れてから、ぎこちなく、ヨレンタを抱きしめた。
「おおー!」
「やった!」
子供たちが騒ぐ。
オクジーは目を逸らし、咳払いをした。
教会に、小さな笑い声が満ちる。
その騒がしさの中で、ドゥラカは初めて、自分が越えてはいけない一線を踏みかけていたことを理解した。
おしまい