ブラックとラテのあいだで   作:霜月AT

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九時四分の自販機

夜の自販機の前で、俺はコーヒーを買うふりをして立っていた。

 

買うふり、というのは正確ではない。実際にボタンは押すのだが、目的はコーヒーではない。彼女がこの時間に通るかどうか、それを確かめるために、ほぼ毎晩ここに立っている。

 

こんなことをしていると知れたら、友人には笑われるだろう。三十を過ぎた男が、駅前の自販機の光に照らされて、誰かを待っているなど。

 

だが、待つという行為は、恋のいちばん正直な形だ。

 

ガタン、と缶が落ちる音がした。俺はそれを取り出し、開けずに持ったまま、駅へ続く歩道を見る。九時四分。彼女は、九時前後に仕事を終えるはずだ。

 

はず、という言葉に、俺は何度も裏切られてきた。

 

そのとき、改札のほうから人影が現れた。肩までの髪。ネイビーのコート。歩き方が、少しだけ内股。俺は目を細める。

 

彼女だ。

 

心臓が、ばかみたいに跳ねる。三十を過ぎた男の心臓が、二十歳の頃みたいに暴れる。年齢は心臓には関係ないらしい。

 

「こんばんは」

 

俺は、なるべく自然に声をかけた。自然、というのは難しい。意識した瞬間に、自然ではなくなる。

 

彼女は少し驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。

 

「あ、こんばんは。今日もここですか」

 

今日も、という言葉に、胸の奥が少し熱くなる。気づかれていたのか。俺がここに立っていることを。

 

「たまたまですよ。仕事帰りに、甘いのが欲しくなって」

 

言い訳が下手だと自覚している。彼女はクスッと笑った。

 

「ブラック持ってますけど」

 

俺は缶を見下ろした。確かにブラックだ。甘いのが欲しい男の選択ではない。

 

「……気分です」

 

「変な人」

 

そう言いながら、彼女は俺の隣に立った。距離が近い。肩が触れそうで触れない。触れない距離が、いちばん危険だ。

 

俺たちは同じ会社の、別の部署にいる。話すきっかけは、半年前の社内プロジェクトだった。打ち合わせの帰り、たまたま同じ電車に乗った。それ以来、駅で会えば少し話すようになった。

 

ただ、それだけだ。

 

それだけなのに、俺は毎晩ここに立っている。

 

「今日は遅かったんですね」

 

俺が言うと、彼女はため息をついた。

 

「月末はいつもバタバタで。ちょっと疲れました」

 

疲れました、と言う声が少しだけ低い。俺は、その声を聞くだけで、自分が何かしてやりたくなる。

 

「大丈夫ですか」

 

「大丈夫じゃないけど、大丈夫です」

 

その曖昧な答えが、彼女らしい。弱音を吐かない。甘えない。だからこそ、俺は勝手に守りたくなる。

 

守る、なんて言葉は傲慢だ。彼女は俺がいなくても生きていける。それを分かっているから、余計に怖い。

 

「じゃあ、送りますよ」

 

口に出してから、少し後悔した。重いかもしれない。余計かもしれない。

 

彼女は少し考えてから、頷いた。

 

「じゃあ、駅まで」

 

駅まで。家までじゃない。境界線は、きちんと引かれている。

 

歩き出すと、夜風が少し冷たかった。街灯の下で、彼女の横顔が白く見える。俺は横顔を見るたびに、言葉を失う。

 

言いたいことは山ほどあるのに、口から出るのは無難な話題ばかりだ。

 

「この前の資料、助かりました」

 

「いえいえ。あれ、佐藤さんがまとめてくれたからですよ」

 

仕事の話。安全地帯。そこにいれば、傷つかない。

 

でも、傷つかない場所には、進展もない。

 

駅が近づいてきた。改札の明かりが見える。時間はいつも、残酷なほど早い。

 

「ねえ」

 

彼女が、ふいに立ち止まった。

 

「はい?」

 

「佐藤さんって、なんでいつも自販機のところにいるんですか」

 

心臓が止まった気がした。

 

笑ってごまかすこともできる。仕事帰りだとか、ただの偶然だとか。

 

でも、彼女の目は、逃げ道を塞ぐようにまっすぐだった。

 

俺は、深く息を吸った。

 

「……あなたに会いたいからです」

 

言ってしまった。

 

言った瞬間、後悔と安堵が同時に押し寄せる。終わるかもしれない。始まるかもしれない。

 

彼女は、しばらく黙っていた。沈黙が長い。長い沈黙は、男を不安にする。

 

「そうなんですね」

 

それだけ言って、彼女は目を伏せた。

 

「迷惑でしたか」

 

俺の声は、思ったより低かった。怖かったのだ。

 

彼女は首を横に振った。

 

「迷惑じゃないです。ただ……」

 

「ただ?」

 

「私、誰かに待たれるの、久しぶりで。ちょっと、どうしていいか分からなくて」

 

胸の奥が、静かにほどける。

 

「じゃあ、慣れてください」

 

俺は笑った。強がり半分、本音半分だ。

 

「俺は、しばらく待つつもりなんで」

 

彼女は、困ったように、でも嬉しそうに笑った。

 

「ずるいですね」

 

「なにが」

 

「そんなふうに言われたら、帰り道、少し早く歩いちゃうじゃないですか」

 

その言葉で、ようやく分かった。

 

俺だけが待っていたわけじゃない。

 

彼女も、もしかしたら、ほんの少しだけ、俺を探していたのかもしれない。

 

改札の前で、彼女は立ち止まった。

 

「また、明日も自販機ですか」

 

試すような声だった。

 

俺は頷いた。

 

「ブラックで」

 

「甘いのじゃないんですね」

 

「気分です」

 

彼女は笑って、改札を抜けていった。

 

背中が遠ざかる。けれど今夜は、不思議と寂しくなかった。

 

待つことは、もう一方通行じゃない。

 

俺は缶コーヒーを開け、一口飲んだ。苦い。

 

でも、その苦さが、少しだけ甘く感じた。

 

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