四月が終わるころ、東京は急に暖かくなった。
夜でもコートがいらない日が増え、自販機の前に立っても寒くない。
寒くないのに、なぜか落ち着かない。
相沢は相変わらず、何も言わない。
でも、何も言わないことが、少しずつ積み重なっていく。
「佐藤さん、今週末、大阪行くんですか?」
昼休み、相沢が聞いた。
「行かない。向こうが忙しい」
「そっか」
短い返事。
でも、そのあとすぐに、
「じゃあ、土曜日、資料整理手伝ってもらえます?」
と続けた。
「休日出勤?」
「ちょっとだけ。私ひとりだと終わらなくて」
断る理由はない。
でも一瞬、考えた。
考えたこと自体が、少し引っかかる。
「分かった」
俺は答えた。
相沢は、ほっとしたように笑った。
土曜日のオフィスは静かだった。
エアコンの音と、紙をめくる音だけが響く。
「ありがとうございます、本当に助かります」
相沢は向かいの席で資料を揃えている。
休日の彼女は、いつもより柔らかい服装で、髪も少し下ろしている。
仕事だ。
そう思い込む。
「大阪、次はいつですか?」
「来月かな」
「寂しくないですか」
「寂しいよ」
即答する。
相沢は手を止める。
「それでも、続けるんですね」
「続けたいからな」
相沢は少しだけ黙る。
「私は、たぶん無理です」
「何が」
「遠距離」
「好きならできるだろ」
俺が言うと、相沢はゆっくり顔を上げる。
「好きでも、無理なことあります」
その目は、冗談ではなかった。
夕方。
資料は無事に終わった。
「お礼に、コーヒー奢ります」
相沢が言う。
近くのカフェに入る。
いつもの、彼女(大阪)と行く店とは違う店。
「ブラック?」
相沢が聞く。
「今日はいい」
「甘いの?」
「うん」
相沢は少し笑う。
「変わりましたね」
「何が」
「前はブラックしか飲まない人って感じだったのに」
俺はカップを見つめる。
変わったのかもしれない。
遠距離は、人を少しだけ弱くする。
「佐藤さん」
相沢が、少しだけ真剣な声を出す。
「はい」
「寂しいって、言ってくれてありがとうございます」
「なんで礼を言う」
「言えない人もいるから」
静かな空気が落ちる。
相沢は続けない。
でも、視線が離れない。
その距離が、前より少しだけ近い。
帰り道。
駅の手前で足を止める。
「今日はありがとう」
相沢が言う。
「こちらこそ」
少し沈黙。
風が吹く。
相沢の髪が揺れる。
「佐藤さん」
「ん?」
「もし、遠距離じゃなかったら」
またその問いだ。
「どうしてたと思います?」
俺は少し考える。
「考えない」
「どうして」
「今の俺が選んでるのは、今の彼女だから」
相沢は目を閉じる。
ほんの一瞬。
そして、微笑む。
「やっぱり、ずるいですね」
「何が」
「ちゃんと選ぶところ」
その言葉は、優しかった。
責めていない。
諦めてもいない。
ただ、事実として受け止めている。
それが、一番胸に刺さる。
その夜、大阪の彼女から電話が来た。
「今日は何してたの?」
「仕事手伝ってた」
嘘ではない。
「忙しい?」
「ちょっとだけ」
「無理しないでね」
その声が、遠くて、近い。
通話を切ったあと、部屋が静かになる。
俺はソファに座り、天井を見る。
相沢の言葉が浮かぶ。
――好きでも、無理なことあります。
彼女(大阪)の声が浮かぶ。
――怖いまま、続けましょう。
俺は目を閉じる。
揺れているのか。
それとも、ただ考えているだけか。
恋は選ぶことだ。
でも、選び続けることのほうが、ずっと難しい。
ブラックを飲む。
今日は、やけに甘く感じた。
それが、少しだけ怖かった。