六月の東京は、湿り気を帯びている。
自販機の光が、前よりもやわらかく見えるのは、季節のせいか、それとも俺のせいか。
相沢とは、あの日から何も変わっていない。
変わっていない、はずだった。
「佐藤さん、ちょっといいですか」
仕事終わり、人気のない会議室。
声はいつもと同じトーンなのに、どこか静かだった。
「どうした」
「相談、というか……確認です」
確認。
その言葉に、胸の奥がわずかに締まる。
「佐藤さんって、迷いますか」
「何に」
「気持ち」
俺は答えない。
沈黙が、答えみたいに広がる。
相沢は続ける。
「私、最近、自分がちょっと嫌なんです」
「なんで」
「分かってるのに、期待してしまうから」
真っ直ぐな目だった。
でも、まだ「好き」とは言わない。
言わないことで、ぎりぎりの線を保っている。
「期待って」
俺が聞くと、相沢は少し笑う。
「例えば、今日残業って言ったのに、私も残るとか」
軽い調子。
でも、軽くない。
俺は息を吸う。
「相沢」
「はい」
「俺は揺れるよ」
自分でも驚くほど、正直な言葉だった。
相沢の目が揺れる。
「揺れる。でも、選ぶ」
「……」
「それは変わらない」
言い切る。
相沢はゆっくり頷いた。
「ずるいですね」
「またそれか」
「揺れるって言うのに、選ぶって言うから」
その言葉が、胸に残る。
大阪の彼女とは、最近少しだけ通話の時間が減っていた。
忙しいのは本当だ。
でも、会話の隙間に、わずかな沈黙が増えた。
「今日は疲れてる?」
俺が聞く。
「ちょっとだけ」
「無理するなよ」
「佐藤さんも」
互いに優しい。
優しいけれど、どこか遠い。
通話を切ったあと、部屋が静かすぎる。
その静けさの中で、相沢の言葉が浮かぶ。
――期待してしまうから。
俺はソファに背を預ける。
揺れている。
それは否定できない。
相沢と並んで歩くとき、安心する瞬間がある。
それは事実だ。
でも。
安心と選択は、同じではない。
ある夜、自販機の前。
珍しく、相沢が先に立っていた。
ブラックを手にしている。
「珍しいな」
「ちょっと慣れてみようかなって」
その言い方が、前よりも静かだ。
俺は隣に立つ。
距離が、少し近い。
「佐藤さん」
「ん?」
「もし、私が何も言わなかったら」
「……」
「このまま、何も起きないまま、終わりますよね」
問いではない。
確認だ。
俺は正直に答える。
「終わる」
相沢は小さく笑う。
「やっぱり」
風が吹く。
相沢の指が、ほんの一瞬だけ、俺の手に触れる。
偶然のような距離。
俺は動かない。
動かないことで、線を守る。
相沢はそのまま、手を引っ込める。
「大丈夫です」
彼女は言う。
「まだ言いませんから」
何を、とは言わない。
でも分かる。
その「まだ」は、時間の問題だ。
帰宅後、スマホが震える。
大阪から。
――「来月、東京戻るかもしれません」
心臓が跳ねる。
――「本当?」
――「研修で一週間だけ」
部屋の空気が変わる。
一週間。
短い。
でも十分だ。
その瞬間、はっきり分かる。
俺の中で優先順位は、変わっていない。
揺れている。
でも、軸は動いていない。
ブラックを一口飲む。
苦い。
ちゃんと苦い。
甘く感じた日とは違う。
俺はスマホを握り、返信する。
――「自販機、覚えてるか?」
すぐに返ってくる。
――「忘れるわけない」
その一文で、胸の奥が静かに整う。
相沢は、まだ何も言わない。
彼女は、もうすぐ東京に戻る。
三人の距離が、同じ街に重なる。
揺らぎは、消えない。
でも、消えないまま、俺は選び続ける。
ブラックの向こうに、もう一人いる。
それでも、俺は——
まだ、彼女を選んでいる。