七月の東京は、夜でも空気が重い。
大阪から戻る彼女を迎える日、俺は少し早めに駅に着いた。
自販機の前。
半年ぶりに、はっきりと「待っている」という感覚がある。
ブラックを買う。
手の中の缶が、妙に熱い。
やがて改札から、見慣れた髪が現れた。
ネイビーではなく、白いブラウス。少し日焼けしている。
目が合う。
彼女が笑う。
それだけで、胸の奥が静かに整う。
「ただいま」
「おかえり」
短い言葉が、妙に深い。
その夜は、あのカフェへ行った。
「やっぱり落ち着きますね」
彼女は店内を見回す。
「大阪は?」
「楽しい。でも、ここはここで安心します」
安心。
その言葉が、以前より重い。
俺は少し迷ったあと、言った。
「正直に言っていい?」
彼女は頷く。
「揺れた」
空気が止まる。
「……誰に?」
隠さない。
「後輩」
彼女は目を伏せる。
怒らない。
泣かない。
ただ、静かに聞く。
「何があったの」
「何も起きてない。でも、期待されてるって分かった」
彼女はカップを持ち直す。
「揺れたって、どういう意味?」
「安心する瞬間があった」
嘘はつかない。
彼女はしばらく黙る。
その沈黙は長い。
「選んだのは?」
まっすぐな問い。
俺は即答する。
「君」
彼女の目が揺れる。
「迷わなかった?」
「迷った。でも、決めた」
彼女はゆっくり息を吐く。
「ありがとう、って言うのは変ですね」
「言わなくていい」
「でも」
彼女は少しだけ微笑む。
「言ってくれてありがとう」
その一言で、罪悪感が少しだけ軽くなる。
翌日。
会社。
相沢が資料を持って近づいてくる。
「彼女さん、戻ってきてるんですよね」
情報が早い。
「うん」
「会いました?」
「昨日」
相沢は一瞬だけ目を閉じる。
そして、笑う。
「よかったですね」
声は穏やかだ。
でも、静かに何かが決まった気配がある。
「相沢」
「はい」
「言わないって言ってたな」
相沢は頷く。
「まだ、言いません」
「まだ?」
「今は」
その目は、以前よりも落ち着いている。
「私、自分がどうしたいか、ちゃんと考えます」
強がりではない。
覚悟に近い。
俺はそれ以上、何も言えない。
その夜、彼女と歩く。
自販機の前で立ち止まる。
「ここ、やっぱり原点ですね」
彼女が言う。
俺は頷く。
「ブラックの向こうに、何が見える?」
彼女が聞く。
俺は少し考える。
以前なら、迷いが浮かんだかもしれない。
でも今は違う。
「君」
彼女は笑う。
「ちゃんと選びましたね」
「選び続ける」
それが約束だ。
自販機の光に、影が二つ並ぶ。
三つにはならない。
ならないように、俺が決める。
ブラックを一口飲む。
やっぱり苦い。
でも、その苦さはもう迷いじゃない。
覚悟の味だ。