彼女が東京に戻ってきて三日目。
平日の夜、三人は同じ街にいる。
それだけで、どこか落ち着かない。
「明日、会社の近くまで行くね」
彼女が言った。
「昼、少しだけ時間ある」
珍しく、彼女からの提案だった。
「いいのか?」
「うん。顔、見たい」
その言い方が柔らかい。
俺は頷く。
「待ってる」
言ったあとで、ほんの少しだけ胸が揺れる。
待つ、という言葉が、今は少し重い。
翌日。
昼休み前、相沢が資料を持ってくる。
「午後の会議、修正入ります」
「分かった」
資料を受け取るとき、相沢が一瞬ためらう。
「今日、誰か来ますよね」
「……なんで」
「昨日、ちょっと楽しそうだったから」
鋭い。
「彼女」
隠さない。
相沢は小さく頷く。
「そうですか」
声はいつも通り。
でも目が少しだけ遠い。
昼休み。
会社近くのカフェ。
彼女が手を振る。
向かい合って座る。
「やっぱり、東京の空気、落ち着きます」
「慣れてるからな」
そんな何気ない会話の途中で、ドアのベルが鳴る。
振り向く。
相沢だった。
目が合う。
ほんの一瞬、空気が止まる。
相沢はすぐに微笑む。
「佐藤さん」
いつもの声。
彼女が俺を見る。
「お知り合い?」
「会社の後輩」
相沢は丁寧に会釈する。
「相沢です」
彼女も穏やかに返す。
「大阪から来てるって聞いてました」
言葉は普通だ。
でも、三人のあいだに小さな静けさが落ちる。
「お邪魔でしたね」
相沢が言う。
「いえ」
彼女が微笑む。
相沢はそれ以上何も言わず、少し離れた席へ向かった。
彼女がカップを持ち上げながら、小さく言う。
「綺麗な人ですね」
「そうだな」
正直に答える。
「揺れた相手?」
目を逸らさない。
「うん」
彼女は一度、視線を落とす。
そして、顔を上げる。
「嫉妬していいですか」
「いい」
「今、ちょっとしてます」
怒っているわけではない。
ただ、確かめるような声。
「でも」
彼女は続ける。
「ちゃんと見ます」
「何を」
「佐藤さんの顔」
静かな言葉。
俺は頷く。
店を出る。
外の歩道で、相沢と自然に並ぶ形になる。
ほんの数歩。
「今日は、会えてよかったです」
相沢が彼女に言う。
穏やかな声。
彼女も笑う。
「こちらこそ」
相沢は俺を見る。
「午後の資料、お願いしますね」
仕事の顔。
でも、その視線は長くは続かない。
彼女が、そっと俺の袖を掴む。
強くない。
でも、確かな力。
相沢はその動きを見ている。
何も言わない。
言わないまま、視線を外す。
夜。
彼女と歩く。
「なんだか、不思議ですね」
彼女が言う。
「何が」
「同じ街にいるって」
少し間を置いて続ける。
「距離が近いと、見えなくてよかったものも見えますね」
俺は返す言葉を探す。
見えなくてよかったもの。
それは、相沢の目か。
それとも、自分の揺らぎか。
「俺は」
言葉を選ぶ。
「目を逸らさない」
彼女は小さく頷く。
それ以上は何も言わない。
夜遅く、スマホが震える。
――「今日は失礼しました」
相沢からだ。
短い文。
俺は少し考えてから返す。
――「気にするな」
すぐには既読にならない。
数分後、返ってくる。
――「分かりました」
それだけ。
部屋が静かになる。
何も起きていない。
誰も声を荒げていない。
でも、三人のあいだにある距離は、前よりもはっきりした。
ブラックを一口飲む。
苦い。
はっきりと、苦い。