その週は、不思議なくらい穏やかに過ぎた。
彼女は東京での研修に追われ、俺は仕事に追われる。
夜、時間が合えば会う。合わなければ短いメッセージだけで終わる。
相沢も、必要以上に近づいてはこなかった。
何も起きていない。
けれど、何も変わっていないわけでもなかった。
木曜の夕方。
会議が長引き、オフィスを出たのは九時過ぎだった。
エレベーターを待っていると、隣に相沢が立つ。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
二人きり。
狭い箱の中、沈黙がゆっくり降りる。
「彼女さん、明日までですよね」
「うん」
「寂しくなりますね」
軽い調子ではない。
「慣れてる」
そう言いながら、胸の奥がわずかに揺れる。
エレベーターが一階に着く。
外へ出ると、夜風が少し湿っている。
相沢は歩幅を合わせながら言う。
「佐藤さんって、強いですね」
「どこが」
「選び続けるところ」
その言い方が、どこか遠い。
「強くない」
俺は答える。
「揺れてる」
相沢は少し笑う。
「それでも、戻る場所があるんですよね」
その言葉に、はっとする。
戻る場所。
俺は、自販機の前を思い出す。
ブラックの缶の冷たさ。
隣に立つ影。
翌日。
彼女の東京最終日。
仕事を早めに切り上げて、駅で待つ。
今度は、迷いなく「待っている」と言える。
改札から出てきた彼女は、少し疲れているようだった。
「今日で終わりか」
「うん」
笑うけれど、その目は少しだけ寂しい。
「大阪、もう慣れましたか?」
「慣れたくないって言ってたくせに、少し慣れました」
「それは、悪いことか?」
「分からない」
二人で自販機の前に立つ。
彼女がブラックを買う。
「苦いですね」
「無理するな」
「無理じゃないです」
一口飲んで、顔をしかめる。
「苦いけど、ちゃんと味がする」
その言葉に、なぜか胸が詰まる。
夜、少しだけ遠回りして歩く。
「ねえ」
彼女が言う。
「うん」
「私、怖かったんです」
「何が」
「選ばれなくなること」
立ち止まる。
彼女は続ける。
「でも、今日見てて思った」
「何を」
「佐藤さん、迷っても、ちゃんと戻ってくる」
その確信は、どこから来たのだろう。
俺は彼女の手を握る。
「戻るんじゃない」
「?」
「選んでる」
彼女は静かに笑う。
「じゃあ、これからも選んでください」
「当たり前だ」
その夜遅く。
スマホが震える。
相沢から。
――「お疲れさまでした」
それだけ。
返信する。
――「お疲れ」
少し間が空く。
――「彼女さん、帰っちゃいましたね」
事実だ。
――「うん」
既読がつく。
しばらく何も来ない。
やがて、短い一文。
――「私、もう少しだけ頑張ります」
胸の奥がわずかに重くなる。
何を、とは書いていない。
でも分かる。
俺は画面を見つめたまま、しばらく動けない。
彼女は大阪へ戻る。
相沢は東京にいる。
俺は、この街にいる。
ブラックを一口飲む。
今日は、苦さの中に、少しだけ熱がある。
揺れは消えない。
でも、消さなくていい。
消えないまま、選び続ける。
それが、俺のやり方だ。
窓の外に、街の灯りが揺れている。
三つの影は重ならない。
それでも、同じ夜の下にある。