彼女が大阪へ戻った翌日、東京はやけに静かだった。
研修で会えていた数日間が、夢みたいに遠い。
駅前の自販機の光だけが、いつも通りそこにある。
ブラックを買う。
缶を握る。
冷たい。
昨夜の「もう少しだけ頑張ります」という相沢のメッセージが、頭の隅に残っている。
何を頑張るのか、聞かなかった。
聞けなかった。
月曜の朝。
相沢はいつも通り、少し早めに出社していた。
「おはようございます」
「おはよう」
視線が一瞬だけ交わる。
どこか、決めた顔をしている。
昼前、相沢が言う。
「今日、少しだけ時間もらえますか」
逃げる理由はない。
「いいよ」
会議室。
ドアが閉まる。
相沢は椅子に座らず、立ったまま言う。
「私、ちゃんと考えました」
声は落ち着いている。
「何を」
「言うかどうか」
空気が静かに重くなる。
俺は黙って聞く。
「好きです」
はっきりしている。
揺らぎのない声。
「ずっと前からじゃないです。気づいたら、です」
言葉はゆっくり出る。
「ブラック持って立ってた人を見て、変な人だなって思って」
小さく笑う。
「でも、あんなふうに誰かを選び続ける人、初めて見ました」
胸が締まる。
「分かってます。選ばれないって」
目は逸らさない。
「でも、言わないと前に進めないから」
静かだ。
怒りも涙もない。
ただ、本気。
俺はゆっくり息を吸う。
「ありがとう」
それが最初に出た。
「相沢の気持ちは、ちゃんと受け取る」
「はい」
「でも、俺は変わらない」
相沢は頷く。
「知ってます」
声は震えていない。
「だから好きなんです」
その言葉は、刺さる。
会議室を出ると、日常の音が戻ってくる。
キーボードの音。
電話の呼び出し。
誰も何も知らない。
俺の中だけが、少し静かになる。
夜。
大阪から電話が来る。
「今日、声が落ち着いてますね」
彼女が言う。
「そうか?」
「うん。何かありました?」
少し迷う。
でも、言う。
「後輩が、ちゃんと言った」
沈黙。
長くない。
でも、深い。
「そう」
怒りはない。
「どう返しました?」
「変わらないって」
彼女は小さく息を吐く。
「正直ですね」
「隠したくなかった」
彼女はしばらく黙る。
「私も、正直に言いますね」
「うん」
「怖いです」
胸が締まる。
「でも、逃げない」
あの日と同じ言葉。
「佐藤さんが逃げないなら、私も逃げません」
その強さに、救われる。
通話を切る。
部屋は静かだ。
窓の外、東京の灯り。
自販機の前に立つ。
ブラックを買う。
今日の味は、はっきりしている。
苦い。
でも濁っていない。
相沢は本気だった。
彼女も本気だ。
俺も、本気だ。
選ぶということは、誰かを傷つけることでもある。
でも、それでも。
ブラックを飲み干す。
缶を捨てる。
俺は、立ち止まらない。
揺れはあった。
でも、目は逸らさない。
この街で、選び続ける。
それが、俺の答えだ。