彼女が大阪へ戻って一週間。
相沢とは、あの日の会議室以来、必要以上の会話はない。
気まずいわけではない。
ただ、余白がある。
その余白が、以前よりはっきりしている。
金曜の夜。
仕事帰り、なんとなく真っ直ぐ帰る気になれず、駅から少し離れた通りを歩いた。
路地の角に、小さなバーがある。
前から知ってはいたが、入ったことはない。
黒い扉。
控えめな灯り。
その日、なぜか足が止まった。
中は静かだった。
カウンターに三席、奥にテーブルが一つ。
客は誰もいない。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうに、四十前後の女性が立っていた。
短い髪。落ち着いた目。
俺は少し迷ってから、カウンターに座る。
「何にします?」
「……ブラック」
思わず言ってから、少し可笑しくなる。
女性は小さく笑った。
「ここ、バーなんだけど」
「あ、すみません」
「冗談よ。あるわ」
コーヒーが出てくる。
湯気が立つ。
「会社帰り?」
「はい」
「顔に書いてある」
「何がですか」
「考えごと」
返す言葉が見つからない。
見透かされた気がする。
「恋愛?」
唐突だった。
俺は咳き込む。
「どうして」
「ブラック頼む男の人は、大体どっちか。仕事か恋愛」
「じゃあ半分当たりです」
女性はカウンターに肘をつく。
「揺れてる顔してる」
胸が一瞬、止まる。
「そんなに分かりますか」
「分かるわよ。私も昔、散々揺れたから」
その言い方は軽いが、奥に何かある。
「揺れるのは悪いことじゃない」
コーヒーを飲みながら言う。
「悪いのは、揺れたことを隠すこと」
その言葉に、相沢と彼女の顔が浮かぶ。
俺は、隠していない。
少なくとも、隠さないようにしている。
「選ぶって、格好いいことじゃないの」
女性は続ける。
「切るってことだから」
その言葉が、静かに刺さる。
「優しいままではいられないのよ」
店内は静かだ。
時計の針の音だけが響く。
俺はブラックを一口飲む。
「あなたは、どっち?」
女性が聞く。
「どっち?」
「優しい人か、選ぶ人か」
即答できない。
沈黙。
女性はそれ以上追わない。
「まあ、また来なさい」
それだけ言って、グラスを磨き始める。
店を出ると、夜風が少し冷たい。
優しい人か、選ぶ人か。
その問いが頭の中で反響する。
スマホが震える。
大阪からだ。
――「今日、少しだけ声聞きたいです」
俺は立ち止まる。
迷わない。
――「今から電話する」
送信。
ブラックの苦さが、少しだけ違って感じる。
揺れている。
でも、目は逸らしていない。
選ぶって、切ること。
その言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
バーの灯りが、背後で小さく揺れていた。