大阪からの着信音は、夜の路地に小さく響いた。
「もしもし」
「外ですか?」
彼女の声は、いつもより少し柔らかい。
「うん。ちょっと寄り道」
「ブラック?」
笑いながら言う。
「なんで分かる」
「顔が浮かぶから」
その言葉に、胸がゆるむ。
部屋に戻ってから、改めて話す。
他愛ないこと。
研修後の仕事のこと。
大阪の天気。
けれど、ふと彼女が黙る。
「どうした」
「今日、考えてました」
「何を」
「揺れるって、どういうことなんだろうって」
心臓が少し強く打つ。
「消えないってことかな」
正直に言う。
「消えないけど、選ばない」
電話の向こうで、彼女が息を吸う。
「難しいですね」
「簡単じゃない」
少し間があく。
「でも」
彼女が続ける。
「ちゃんと話してくれるのは、救いです」
その一言に、救われるのは俺のほうだ。
週明け。
会社で相沢とすれ違う。
「おはようございます」
声は落ち着いている。
以前の熱は、表に出ていない。
昼、資料を受け取るとき、相沢が言う。
「昨日、バー行ってました?」
思わず手が止まる。
「なんで」
「見かけたので」
振り返ると、あの路地の角を思い出す。
「入ったことなかったから」
「そうなんですね」
少し笑う。
「大人ですね」
「何が」
「一人でバー行くの」
軽い調子だが、探ってはいない。
「コーヒーだけだ」
「ブラック?」
「そう」
相沢は頷く。
「似合います」
それ以上踏み込まない。
距離は、以前より少し整っている。
金曜の夜。
またバーに入る。
「いらっしゃい」
あの女性が、少しだけ笑う。
「戻ってきたのね」
「はい」
「決めた?」
唐突だ。
「まだ途中です」
「途中が一番面倒なのよ」
グラスを置きながら言う。
「でもね、揺れるってことは、ちゃんと感じてるってこと」
「感じてる?」
「無関心なら揺れない」
その言葉に、はっとする。
相沢の真っ直ぐさ。
彼女の不安。
どちらも、俺が無関心ではいられないからこそ生まれている。
「あなた、優しい顔してるけど」
女性が続ける。
「優しさって、残酷にもなるわよ」
その響きが、深い。
俺はコーヒーを飲む。
「選ぶって、切ることだって言いましたよね」
「ええ」
「切ったら、何が残るんですか」
女性は少し考える。
「責任」
短い答え。
それ以上でも以下でもない。
帰り道、スマホが震える。
相沢からだ。
――「今日、少しだけ話せますか」
立ち止まる。
夜の空気が重い。
選ぶということは、切ること。
でも、切る前に、きちんと向き合うことでもある。
俺は返信する。
――「会社でなら」
すぐに既読がつく。
――「分かりました」
短い。
余計な言葉はない。
夜空を見上げる。
揺れは消えない。
でも、逃げない。
ブラックの苦さが、少しだけ落ち着いてきた。
選ぶために、揺れている。
それだけは、はっきりしている。