翌日の夕方。
オフィスはほとんど人がいなかった。
相沢は会議室の窓際に立っていた。
外はまだ明るい。
「すみません、お時間いただいて」
「いいよ」
椅子に座ると、相沢は少し間を置いてから言った。
「昨日の“会社でなら”って返事、ちゃんとしてますね」
「ちゃんとしないといけないだろ」
「そうですね」
小さく笑う。
以前のような勢いはない。
でも消えてもいない。
「私、少し考えました」
「うん」
「好きって言ったけど、奪いたいわけじゃないんです」
俺は黙って聞く。
「ただ、ちゃんと好きだったって、自分で認めたかった」
声は静かだ。
「中途半端なまま終わらせるの、嫌だったから」
その言い方は、どこか潔い。
「佐藤さんは、変わらないって言いましたよね」
「ああ」
「分かってます」
目を逸らさない。
「だから、しばらく距離置きます」
胸が少しだけざわつく。
「避けるって意味じゃないです」
「分かる」
「ちゃんと整理する時間、もらいます」
俺は頷く。
「ありがとう」
相沢は少し驚いた顔をする。
「なんでお礼」
「逃げないで言ってくれたから」
相沢は一瞬目を伏せて、それから笑う。
「ずるい人」
でもその笑いは、もう刺さるものではなかった。
夜。
大阪に電話する。
「今日はどうだった?」
彼女が聞く。
「少し、区切りみたいな話をした」
「そう」
声が少しだけ柔らぐ。
「寂しくないですか?」
「寂しいよ」
正直に言う。
「でも、それは君のいない寂しさだ」
電話の向こうで、息を吸う音がする。
「ちゃんと、聞かせてくれるのが救いです」
同じ言葉を、また言われる。
「私も、ちゃんと言いますね」
「何を」
「不安も、嫉妬も」
その強さが、愛おしい。
週末。
またバーへ行く。
「いらっしゃい」
カウンターに座ると、女性が言う。
「顔、少し変わった」
「どう変わりました」
「決めた人の顔」
俺は苦笑する。
「まだ途中ですよ」
「途中でも、方向は決まってる」
コーヒーを受け取りながら、思う。
揺れは消えない。
でも、揺れながら立っている。
それが今の自分だ。
「優しい人でいるのは楽なのよ」
女性が言う。
「でも選ぶ人は、疲れる」
「疲れますね」
「それでも選ぶなら、本気よ」
その言葉は、軽くない。
俺はブラックを飲む。
苦い。
でも、以前より澄んでいる。
店を出ると、スマホが震える。
相沢からではない。
大阪から。
――「来月、少し長く東京行けるかもしれません」
胸がゆっくり温まる。
――「待ってる」
送信してから、ふと立ち止まる。
待つ、という言葉。
以前は迷いが混じっていた。
今は、はっきりしている。
俺は、選び続けている。
揺れた事実も、相沢の真っ直ぐさも、彼女の不安も、全部抱えたまま。
ブラックを飲み干す。
缶の底に残った苦さは、静かだった。
夜風が、少しだけ軽い。