週が明けて、相沢は本当に距離を取った。
避けるわけではない。
仕事はきちんとする。
視線も逸らさない。
ただ、以前のように帰り道を合わせることはなくなった。
その静けさが、かえって胸に残る。
水曜の夜。
大阪からメッセージが来る。
――「今日は少し疲れました」
珍しい。
彼女はあまり弱音を吐かない。
――「電話する?」
すぐに既読がつく。
――「少しだけ」
声は、いつもより少しだけ細い。
「大丈夫か」
「大丈夫です」
そう言うけれど、間がある。
「仕事?」
「うん。それもあるけど」
少し沈黙。
「選ばれてるって、実感って続くものじゃないんですね」
胸が静かに締まる。
「どういう意味だ」
「何も起きてないのに、急に不安になる日がある」
俺は何も急いで言わない。
「今日は、そういう日です」
その正直さが、愛おしい。
「俺は変わらない」
「知ってます」
「でも?」
「でも、距離は距離です」
その言葉は、責めていない。
ただ事実だ。
翌日。
仕事帰り、自然とバーの前に立っていた。
扉を押す。
「いらっしゃい」
「また来たのね」
女性は微笑む。
「距離って、縮まるときと、急に遠く感じるときがあるのよ」
俺は何も言っていないのに、そう言った。
「そんな顔してる」
カウンターに肘をつく。
「不安はね、信じてないからじゃない」
「じゃあ?」
「大事だから」
短い答え。
「大事なものは、失う想像をしてしまう」
その言葉が、腑に落ちる。
俺はブラックを飲む。
「あなたは、ちゃんと伝えてる?」
「伝えてるつもりです」
「つもり、は危ないわよ」
視線が真っ直ぐ刺さる。
「言葉にしなさい」
その夜。
彼女に電話する。
「今日、何してました?」
「バー」
「また?」
少し笑う。
「ちゃんと伝えろって言われた」
「何を」
「君を選んでるってこと」
電話の向こうで、息が止まる気配。
「……どうして急に」
「急じゃない」
少し間を置く。
「揺れたけど、揺れたまま、選んでる」
静かに言う。
彼女はしばらく黙っている。
「今、泣きそうです」
その声が震える。
「泣くなよ」
「泣いてません」
でも泣いている。
「ありがとう」
その一言が、重い。
翌日。
相沢が資料を持ってくる。
視線が落ち着いている。
「少し、顔変わりましたね」
「そうか?」
「迷ってる顔じゃない」
核心を突く。
「何かありました?」
「少し、言葉にした」
相沢は小さく頷く。
「いいですね」
その声は、本当に穏やかだった。
「私も、だいぶ落ち着きました」
「そうか」
「好きだったって思えるの、悪くないです」
過去形。
でも無理していない。
「相沢」
「はい」
「ありがとう」
相沢は一瞬驚き、それから笑う。
「ずるい人」
でももう、その言葉は痛くない。
夜。
自販機の前に立つ。
ブラックを買う。
缶を握る。
以前のようなざらつきはない。
揺れは消えていない。
でも、濁ってもいない。
大阪の彼女は、不安を言葉にするようになった。
相沢は、自分の気持ちを整理し始めた。
俺は、言葉を選ばずに伝えるようになった。
三人の距離は、まだ同じ街の中にある。
でも、線は引かれている。
ブラックを飲み干す。
苦い。
でも、はっきりしている。
選ぶということは、毎日の行為だ。
それを、少しずつ、続けている。