相沢が「好きだった」と言った週の終わり、オフィスはいつもより静かだった。
雨が降っている。
窓に水滴が流れて、外の景色が滲んでいる。
相沢は定時で帰る準備をしていた。
「お先に失礼します」
「お疲れ」
視線が合う。
ほんの一瞬。
以前なら、そこに温度があった。
今は、落ち着いた水面みたいだ。
帰り際、俺はふと声をかける。
「相沢」
「はい」
「送ろうか」
自分でも、なぜそう言ったのか分からない。
相沢は少し考えてから、首を振った。
「大丈夫です」
笑う。
「ちゃんと帰れます」
その言い方に、少しだけ距離を感じる。
悪い距離じゃない。
整理された距離だ。
雨の中、俺は一人で歩く。
自販機の前で立ち止まる。
ブラックを買う。
缶を握る。
冷たい。
雨粒が腕に落ちる。
スマホが震える。
大阪からだ。
――「今日、雨です」
同じ雨だ。
――「東京も」
すぐに電話がかかってくる。
「なんか、同じ天気って安心しますね」
彼女が言う。
「そうだな」
「距離はあるのに、不思議です」
俺は自販機の屋根の下に移動する。
「今日は何してました?」
「普通に仕事」
少し迷ってから付け足す。
「相沢、定時で帰った」
彼女は少し黙る。
「そう」
声は穏やかだ。
「少し、楽になりましたか?」
問いは静かだ。
「相沢が?」
「うん」
俺は正直に答える。
「たぶん」
「よかった」
彼女は続ける。
「私も、少し楽になりました」
その言葉で、胸の奥がゆるむ。
翌週。
相沢は以前より仕事に集中している。
雑談は減った。
だが、冷たいわけではない。
「この数字、確認お願いします」
「了解」
それだけ。
必要な距離。
「今度、部署の飲み会ありますけど」
相沢が言う。
「来ます?」
「行くよ」
「よかった」
それ以上、何もない。
飲み会の日。
大勢の中で、相沢は普通に笑っている。
誰かと話している。
その姿を見て、胸が少しだけ軽くなる。
帰り際、駅のホーム。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
相沢は一瞬だけ、こちらを見る。
「佐藤さん」
「ん?」
「ちゃんと、幸せになってくださいね」
その言葉は、強くない。
でも、まっすぐだ。
「相沢もな」
小さく笑う。
「なります」
迷いのない声。
電車が来る。
扉が閉まる。
相沢は振り返らない。
夜。
大阪へ電話する。
「今日は、なんだか静かですね」
彼女が言う。
「うん」
「どうしました?」
「少し、区切りがついた気がする」
電話の向こうで、彼女が息を吐く。
「よかった」
その声に、安心が混じる。
「でも」
彼女は続ける。
「揺れたことは消えませんよね」
「消えない」
「消えなくていいです」
その言葉に、少し驚く。
「揺れても、戻ってくるなら」
俺は自販機の前に立つ。
ブラックを買う。
「戻るんじゃない」
缶を握る。
「選んでる」
彼女は静かに笑う。
「じゃあ、これからも選んでください」
「当たり前だ」
ブラックを一口飲む。
苦い。
でも、濁りはない。
雨は上がっている。
地面に残る水たまりが、街灯を映している。
三つの影は、もう並ばない。
それでも、誰かの本気は無駄にならない。
選んだ道の上に、ちゃんと残っている。