ブラックとラテのあいだで   作:霜月AT

6 / 20
待たない約束

キスをした夜から、世界はほんの少しだけ柔らかくなった。

 

劇的に何かが変わったわけではない。翌朝も同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ会社に向かう。それでも、隣に彼女がいるという事実が、日常の輪郭を静かに変えていた。

 

けれど、恋が始まると同時に、現実も動き出す。

 

 

 

ある日の昼休み、彼女から短いメッセージが届いた。

 

――「今日、少し話せますか?」

 

いつもなら「カフェで?」と続くところだが、それがない。胸がざわつく。

 

仕事終わり、俺たちは会社近くの公園に座った。春の風が少し強い。

 

「異動の話が出てて」

 

彼女が切り出した。

 

俺は一瞬、言葉を失った。

 

「どこに」

 

「大阪支社。正式じゃないけど、たぶん決まると思います」

 

頭の中で距離を計算する。新幹線で二時間半。毎日会える距離ではない。

 

「いつから」

 

「来月」

 

思ったより早い。

 

彼女は続けた。

 

「まだ断れる可能性はあります。でも、キャリア的にはすごく良い話で」

 

俺は頷いた。

 

断ってほしい、と言いたい気持ちが喉まで上がる。

 

でも、それは言えない。

 

「行きたいんですよね」

 

彼女は少し驚いた顔をした。

 

「分かります?」

 

「あなた、そういう顔してる」

 

挑戦する前の、少し怖くて、でも前を向いている顔。

 

彼女は静かに笑った。

 

「……行きたいです」

 

その一言で、俺の中の迷いは消えた。

 

「じゃあ、行ってください」

 

自分でも驚くほど、はっきり言えた。

 

彼女は目を見開く。

 

「いいんですか」

 

「よくないけど」

 

俺は正直に言う。

 

「でも、止めたくない」

 

恋は、隣にいることだけじゃない。

 

隣にいなくても、応援できるかどうかだ。

 

 

 

それからの一か月は、やけに早かった。

 

カフェに行く回数が増え、自販機の前に立つことも、少し増えた。

 

「ここ、なくならないですよね」

 

彼女が自販機を見上げる。

 

「なくなっても、俺は覚えてます」

 

「忘れないでくださいね」

 

「忘れるわけない」

 

出発前夜、彼女は俺の腕の中で静かに言った。

 

「遠距離、続きますかね」

 

「分からない」

 

正直に答える。

 

「でも、続けたい」

 

彼女は少し笑った。

 

「怖いまま、始めたんですもんね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、怖いまま、続けましょう」

 

 

 

彼女が大阪へ行ってから、自販機の前はまた一人になった。

 

ブラックを買っても、隣に笑う人はいない。

 

けれど、不思議と寂しさだけではなかった。

 

スマホが震える。

 

――「着きました」

――「ちゃんと食べてますか?」

――「今日もブラックですか?」

 

会えない時間が、会えた時間を薄めるわけじゃないと、少しずつ分かってきた。

 

ある夜、俺は自販機の前で写真を撮った。

 

何の変哲もない自販機。

 

それを彼女に送る。

 

――「原点」

 

すぐに返信が来た。

 

――「懐かしい」

――「戻ったら、ここでまた待っててくれますか?」

 

俺は画面を見つめた。

 

待つ、という言葉が、もう昔の意味ではないことに気づく。

 

――「待たない」

――「迎えに行く」

 

しばらく既読がつかない。

 

数分後、返信が来た。

 

――「ずるいですね」

 

画面越しでも、彼女の笑顔が浮かぶ。

 

ブラックを一口飲む。

 

やっぱり苦い。

 

でも、あの頃の苦さとは違う。

 

今は、その先にちゃんと甘さがあると知っている。

 

自販機の光の下で、俺は思う。

 

恋は、隣にいる時間だけでできているわけじゃない。

 

離れても、続けようとする意思でできている。

 

そして俺は、もう待つだけの男じゃない。

 

迎えに行く男になったのだから。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。