それから相沢は、特別なことは何もしなかった。
だからこそ、少しずつ変わる空気が、かえってはっきりと分かった。
昼休み。
「今日もブラックですか?」
相沢が俺の手元を見る。
コンビニの紙コップ。
「最近、こればっかりだな」
「甘いの、飲まないんですか?」
「飲むときもある」
「へえ」
その「へえ」は、軽い。
でも、どこか探るようでもある。
「大阪には、会いに行きました?」
「この前行った」
「楽しかったですか」
「うん」
相沢は少しだけ微笑んだ。
「よかったですね」
その言葉は、素直だった。
嫉妬を隠した響きではない。
それが、逆に静かだった。
ある日、会議室で二人きりになった。
資料を並べながら、相沢がぽつりと聞く。
「遠距離って、慣れますか」
「慣れない」
即答する。
「慣れたら、たぶん終わる」
相沢は手を止めた。
「終わる?」
「会えないのが普通になったら、寂しくなくなるだろ」
「……それ、悲しいですね」
「だから、慣れないほうがいい」
相沢は何か言いかけて、やめた。
言葉は飲み込まれた。
でも、その沈黙が長かった。
帰り道。
また偶然のように隣を歩く。
少し風が強い。
相沢の髪が揺れる。
「佐藤さん」
「ん?」
「寂しいって言えるの、いいですね」
「どういう意味だ」
「前の人は、強がる人だったから」
俺は足を少し緩める。
「前の人?」
「昔、ちょっとだけ」
相沢は笑う。
「寂しいって言われたこと、なくて」
「それは……」
「だから、羨ましいなって思いました」
羨ましい。
その言葉は、俺に向けられたのか、彼女に向けられたのか。
曖昧なまま、夜風に溶ける。
自販機の前。
久しぶりに立ち止まる。
相沢も立ち止まる。
「ここですよね」
「何が」
「佐藤さんの原点」
俺は苦笑する。
「そんな大げさなもんじゃない」
相沢は自販機の光を見上げる。
「待つって、すごいですね」
「すごくない」
「でも、私はできないかも」
「なんで」
相沢は少しだけ俺を見る。
「待つ前に、諦めちゃいそうだから」
言い方は軽い。
でも、目は軽くない。
俺は何も言わない。
言うと、線を越えそうになる。
相沢はブラックを買った。
「苦いですね」
一口飲んで顔をしかめる。
「無理するな」
「ちょっとだけ慣れてみようかなって」
何に、とは言わない。
でも、その意味は、はっきりしている。
それでも、彼女(大阪)との時間は変わらない。
週末の通話。
「今日、なにしてました?」
「仕事」
「本当ですか?」
「本当」
相沢のことは言わない。
隠しているわけではない。
ただ、まだ何も起きていないから。
でも。
自販機の前でブラックを飲みながら、ふと考える。
もし、俺が遠距離じゃなかったら。
もし、彼女が大阪に行っていなかったら。
相沢の笑顔は、違う意味を持っただろうか。
考えても仕方ないことを、考えてしまう。
恋は二人でできている。
でも、揺らぎは一人で生まれる。
ブラックを一口飲む。
今日の苦さは、前より少しだけ複雑だ。
相沢は、まだ何も言わない。
俺も、何も言わせない。
けれど、確実に距離は縮んでいる。
それが一番、静かで、怖い。