闇の魔術に対する防衛術の授業でルーピン先生はまず、最初に皆に教科書を仕舞うように伝えた。この授業といえば黒板の内容を羽ペンで書き写すスタイルだ。杖だけ持たせ、教室を抜けて何処かに向かうルーピン先生の後を追う皆は不思議そうに顔を見合わせる。でもちょっと楽しみだ。ルーピン先生は新学期よりも少し顔色がよかった。
「ワディワジ!逆詰め!」
道中、邪魔をするピーブスを華麗に退治した先生の手さばきにグリフィンドールは歓声をあげる。
「かっこいい!」
「すごいね。”闇の魔術に対する防衛術”の先生だ」
すっかりルーピン先生に尊敬の眼差しを向けている生徒一行は、職員室の前に着いた。中に入るとスネイプ先生だけ端の席で腰かけている。蝙蝠が飛び立つような動きで立ち上がり、横を大股で通り過ぎていく。
「ルーピン、たぶん誰も君に忠告していないと思うが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には難しい課題を与えないようご忠告申し上げておこう。ミス・グレンジャーが耳元でひそひそ指図を与えるなら別だがね」
もうスネイプ先生の授業は終わったのに別の先生の前で意地悪を言うだなんて。アリスは新学期からスネイプ先生がより屈折したように思えて、本気で心配になる。最近良いことがないんだな。するとルーピン先生はスネイプ先生に向かってこう言った。
「ネビルには僕のアシスタントを務めてもらいたいと思ってましてね。それに、ネビルはきっと、とてもうまくやってくれると思いますよ」
アリスはルーピン先生が好きになった。ネビルも、周りの皆もそうだろう。
「さあ皆、部屋の奥にまで来て」
壁際には古い洋箪笥が置かれている。ルーピン先生がその脇に立つと、箪笥がガタガタ激しく揺れだし、滑るように離れた。タンスを動かす姿が見えないソレが不気味で生徒は恐々した。
「心配しなくていい。中にまね妖怪──ボガートが入ってるんだ。それでは、最初の問題ですが、まね妖怪のボガートとはなんでしょう?」ハーマイオニーがスッと挙手をする。
「形態模写妖怪です。私たちが一番怖いと思うのはこれだと判断すると、それに姿を変えることができます」
「私でもそんなにうまくは説明できなかったろう」照れたハーマイオニーはキラキラして見えた。
ルーピン先生は丁寧にボガートについて説明してくれた。柔らかな口調は手元に教科書はないのにすんなり頭の中に入ってくる。なのに所々実体験を交えたおかしなお話にはつい吹き出してしまうくらいで、笑わせることも上手だった。先生はさっき言っていた通りにネビルを最初の実演生徒として指名をした。ボガートを倒すコツは、恐怖するものをどうやったらおかしな姿に変えられるか、想像することだという。みんな目をつむって考えた。
私が怖いものって何だろう?ハイドビハインド妖怪かも。ヒトを食べる痩せた熊のような銀色の獣で、目は燃えているように赤い。パパの書斎にある報告書を覗き見して以来トラウマだ。どうしたらおかしく倒せるかな……臓物を啜るかわりにスパゲッティでも食べさせて……。
「ようし、ネビル、三つ数えてからだ──いーち、にー、さん、それ!」
目を開けたらルーピン先生が杖をふるい、洋箪笥は勢いよく開かれた──中からはネビルの恐怖する、スネイプ先生が現れる。
「リ、リ、リディクラス!」
上ずった声でネビルが呪文を唱えるとスネイプ先生は、長いドレス姿にハゲタカの帽子を被り、片手にハンドバックを持った”ネビルのおばあちゃん”ルックに変身した!
「パーバティ前へ!」
ルーピン先生の声でパーバティが前に飛び出る。ボガートはスネイプ先生の姿からミイラになった。「リディクラス!」パーバティは勇敢に叫ぶとミイラから髪の長い骸骨女に代わる。次に挑んだシェーマスの怖いものがバンシーみたいだ。どんどん友達が挑戦をしていくと段々ボガートは混乱したように変身が不安定になる。もうすぐアリスの番だ。床をちょこまか歩く切断された手首をディーンがネズミ捕りで捕まえた。次だ!
ボガートとアリスが対峙すると足元の手首はスーッと大きくなりアリスは見上げた。赤く燃えるような光が二つ。ハイドビハインド妖怪だ!そう思ったが違った。青年だ。赤い血のような瞳に、暗く透けるような身体で、冷たい無機質な顔をしている。それも一瞬で、どんどん闇色に、天井に着くほど大きくなってアリスを飲み込みそうなほど大きな”影”になった。サーッと血がざわめいた。意味も分からず掌に汗を感じる。勇気を出して、詰まりそうな喉を開いて、杖腕を前に突き出し叫ぶ。
「リディクラス!」
影はまるで折り紙のようにパタパタと折りたたまれていき、手帳ほどの紙束になって床にポトンと落ちる。
「よし、いいぞ次はロン!」
黒い影の紙束が、ロンの嫌いな大きな蜘蛛になったので周囲は騒然とした。ロンの魔法で、手足がもがれた大蜘蛛が転がり、よりてんやわんやになる。最後にもう一度ネビルが挑戦するとボガートは破裂して煙になった。
「よくやった!」
誰も怖気ることなくやってのけたのでお互いにワァッと拍手を送りあう。杖で妖怪を追い払うのは新鮮で興奮した。
「ネビル、よくできた。みんな、よくやった。そうだな……まね妖怪と対決したグリフィンドール生一人につき五点をやろう。ネビルは十点だ。二回やったからね」
ネビルは頬を染めて小さく笑った。ルーピン先生の授業は全員が満足するものだっただろう。授業終わりの帰り道は授業の感想を話すのに夢中だった。
「バンシーと対決するのを見たか?」シェーマスが叫ぶ。
「それに、あの手!」ディーンが自分の手を振り回しながら言った。
「怖いのはアダムスファミリー?パンズラビリンス?」ライアンが少しからかう口調でディーンに尋ねるので、「あれ、二つが混ざってたな……ライアンの苦手なホラームービーは? 俺だけバレるのは癪だろ?」と自嘲気味に笑い飛ばした。マグルの怖いものみたい。
「アリスは影が出てきたけれどあれは?」話を変えるようにライアンが尋ねる。
「ん? ……うーん……どうしてアレが出てきたんだろう」
「身に覚えがないの?」ハーマイオニーが聞く。「それって不思議ね。ボガートって本人でも意識していない恐怖を察知するのかもしれないわ。──ボガート章のまとめ課題、レポート程度の量になってもルーピン先生なら許してくださるわよね?」
「これ以上詰める気?」ライアンがそう言うのでハーマイオニーは「だって、」とやり取りしている。
「ねぇアリス、」
ハリーが声をかける。躊躇ってるような、気まずそうな顔だ。
「なぁに?」
周囲に聞き耳を立てている人はいないか注意深く観察した後、「アー、あのさ 君のボガートって影になる前に一瞬……ヒトのかたちにならなかった?」と尋ねた。
アリスは「あー」と黒目を上に向ける。「なったね」と、返事した。ハリーは打って変わって、はやる様子でさらに聞き出す。
「僕たちからはよく見えなかったんだけど、僕らよりも年上の男の子じゃなかった?」
「んー」アリスは思い出すように唇を尖らせる。「そうだったかも」
「そいつ、君の知り合い!?」
「いや?」拍子抜けするくらいあっさり答える。「全然知らない人」
ハリーは少し納得できないように口をパクパク動かす。「じゃあなんで君のボガートは彼に変身したんだ?」
「知らないよ」アリスは両手を挙げて“お手上げ“した。「本当に一瞬だったからもう顔も忘れちゃった」
ハリーは顔を曇らせて考え込む。
「思い出したらハリーに言うよ」カラッとした笑顔で返す。「その前にハーマイオニーがボガートの歴史的発見を見つけてくれるかもしれないけどね」
ネビルのボガートがスネイプ先生の姿に変身し、おばあちゃんの格好をさせて退治した。この話は学校中に広がったのでスネイプ先生のネビルいじめはもっと酷くなった。ネビルはルーピン先生の授業で多少自信を持ったが、度重なるいじめでその自信も削がれていた。今も、授業後にネビルが焦がした鍋をマグル形式──タワシで洗っている。「その焦げ跡が消えるまで、マグル形式で洗えたまえ。失敗してばかりのロングボトムには、その原始的な方法が楽だろう……最もそれ以外の方法は難しいといえる」とのことだ。
「ネビル、」めそめそタワシをこするネビルの背中に声がかかる。
「──ライアン ま、待ってくれてたの。もう、終わるよ」
「おー」
慌てて鞄を持って教室の出口に駆け寄るネビルを目で追う。
「今日も失敗しちゃった……僕、スネイプ先生を前にすると怖くて仕方がなくて……いつもより倍ヘマしちゃうんだ……」
胸の内を吐露するネビルの横を歩きながらライアンは黙って聞く。
「いつもハーマイオニーが助けてくれるけれど……僕、申し訳なくって……情けなくって……」
ライアンは何か言いかけては口をつぐみ、視線を泳がせ、やがて指からシルバーのリングを抜き取ってネビルの手のひらに押し付けた。波のように一部湾曲したシンプルなデザインだ。使い込まれていて、少し傷がついているが、磨かれていてくすんだりはしていない。
「これ……ぼ、僕に?」
「うん」
ネビルは困ったように言う。「悪いよ高そうだし僕絶対なくしちゃう……」
「ジュースと同じくらいの安物。でも、俺が勇気出して買ったリングなんだ」ライアンは続ける。
「雑貨屋のレジスターの向こう側にあって。店員は忙しそうで。いつもだったら諦めるけど、思い切ってその指輪を見せてくれって頼んだヤツ──なんともないことだと思うけれど、俺にとってはマジで……」
言葉が詰まる彼の横顔を見上げる。見た目と違って、口下手で人見知りの激しい友人だ。きっと、凄く勇気がいっただろう。それをネビルにくれようとしている。
守られることは、ありがたいけれど、ときどき惨めだ。 だからいつまでたっても自信が持てず、失敗続きで。
純粋な親切心は自分が”助けが必要な弱者”であると、再確認させられた。守られることは心地よく甘えてしまうが、それは同時に周囲が、ネビル自身も、能力に対する諦めを突きつけられているようでもあった。
「手を貸すんじゃなくて、背中を押してくれた友達は君だけだよ」
「やってあげる」と言われるより、「やれるはずだ」と黙って見守られることが、こんなにも誇らしいなんて知らなかった。
それが、ネビル自身を肯定する力となった。
「指輪、僕の指に入るかな……」ネビルはパンのようなふっくらした自分の指を見下ろす。
「俺、関節太くてデカめの指輪だから大丈夫だと思う」
恐る恐る指にリングをあてがった。 金属の冷たさが指先に触れる。意外なほど抵抗なく、リングは滑らかに指を通過していった。 二人はパッと顔を輝かせたが、第一関節を過ぎたあたりで、リングの動きがピタリと止まった。
「……ん?」
グイグイ、と押してみる。動かない。 指の根元へ向かおうとするリングの前で、行き場を失った指の肉がぷにっと盛り上がり、見事な防波堤となって立ちはだかる。 あまりの間抜けな光景に、彼らは堪えきれずに吹き出したのだった。