「ザビニ!」
地下階段へと続く廊下に響く自分を呼び止める声にブレーズ・ザビニは振り返る。
「どうしたの慌てて」
スリザリンの女子生徒は自分の元まで小走りして、乱れたブロンドの巻き髪を撫でつけた。最近のお気に入りの子だ。
「だってタイミングを逃しちゃうところだったわ! ねぇ来週のホグズミード一緒に行ってくれるわよね?」
頬を薔薇色に染め、こちらを見つめる彼女にザビニは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「悪い。もう別で約束が入ってるんだ」
「……有り得ない! 私より優先するの!?」
先ほどまでのいじらしい態度は失せて爆ぜたように怒鳴り散らかす。この子は薔薇のように愛らしいが、こういったところはいただけない。
「優先じゃない、動かせないだけ」
「何の予定よ!?」
「言ったら、余計に気を使うだろ。君って気遣ってくれる大人の女性だから」
ザビニは全くそんな女だと思ってはいない。
だが、そう評価されていると知った彼女は反論すれば自分でそのイメージを壊してしまう──気まずさとわずかな喜びを抱えたまま、黙って目線を反らした。ザビニは彼女の顔の向きをこちらに戻すかのように、指先で髪を触れる。
「髪、カールしたの?」褐色の指で彼女の眩しい金髪をもてあそぶ。
「……そうよ! 来週のために……」気づいてくれて嬉しかったのか、髪を靡かせた。
「俺のため? すげーいい」
甘やかに愛でるザビニに、彼女は強気に言い返そうとするが遮るようにザビニが口を開く。「次、会う時もこれがいいな」
とろけたチョコレートのような微笑みが彼女は大好物だった。
「……もう、わかったわよ……次は私と行くのよ」
「あぁ、埋め合わせさせて」
ブロンドの巻き髪を跳ねさせて彼女は小走りで寮へと続く階段を下っていく。ザビニの緊張も緩みも見えない、均された眉のラインがピクリと動く。背後から別の足音が小さく響いた。
「ザビニ、今いい?」
冷たい石壁に目立つ朱色のローブと、真っ直ぐな長い髪を後頭部で一つに束ねている少女。グリフィンドールのアリス・ディゴリーだ。周囲に、これ以上ザビニの”取り巻き”がいないか確認した後、自分に何かを差し出す。
「これ……この前のお菓子のお詫び。マカロン作ったの」
「わざわざ?」
まさか本当に”埋め合わせ”を用意してきたとは思わなくてザビニは菓子箱とアリスの顔を見比べる。微笑を浮かべてパッチリ澄みきったグレーアイがこちらを見つめている。ザビニはその顔を見ていると胸がむかむかしたので吐き捨てるように言う。
「俺が欲しいのは限定品のマカロンで……何でお前の手作りが出てくるんだよ」
「あ……」
彼女の顔が赤くなる。
「そう、だね。確かに……」お菓子を引っ込めて、視線を足元に落とす。ザビニは不快そうに自分のウェービーヘアーをかき混ぜる。ディゴリーの考える”埋め合わせ”は独りよがりで、お門違いだ。なのに自分の前で傷ついた顔をしていて……。呆れて腹が立つ。
立ち去ろうと踵を返した、その時だった。 アリスが蚊の鳴くような声で、ぽつりと漏らした。
「……お母さんにレシピ教えてもらったんだけどな」
ピタ、と。 ザビニの足が止まった。
自分の母親の顔が、意図せず脳裏をかすめる。ザビニは舌打ちしそうになるのをこらえ、短く息を吐く。
「……はあ」
調子が狂った。彼は乱暴に振り返ると、アリスの手から包みをひったくる。
「えっ、」
「……貰う」
アリスが目を丸くしている。その顔を見てザビニは不機嫌そうに眉を寄せ、地下室へ続く階段に姿を消した。
スリザリンの談話室の革張りの安楽椅子に深く身を沈めたザビニは、手元の小さな包みを忌々しげに見下ろしていた。中に入っていたのは、チョコレートのマカロンだった。 有名店の宝石のようなそれとは違い、ピエがちょと不揃い。不格好な一つを摘みあげ、口に放り込む。 サクッとした歯触りの後、濃厚なガナッシュが舌の上で溶ける。
口の中に広がる甘さが、自分の敗北の味のように思えた。 ザビニにとって、母親という存在は絶対的なものだ。数々の男を渡り歩き、魔女として美しく君臨する母。”母親との共同作業”というカードを切られた瞬間、彼は無下にできなくなった。そこを突かれたのが腹立たしい。 まるで、自分の唯一の弱点を見透かされた上で、首根っこを掴まれたような屈辱感。
「……本当に、調子が狂う」
自分のペースを乱され、意図しない行動を取らされたこの感覚──これは普段、自分が周囲の人間に対して行っていることそのものではないか。
本心を隠し、相手の欲望や弱みを計算して言葉を選び、自分の望む方向へ誘導する。それがザビニのやり方だ。 だが今日、アリスにそれをやり返され、あまつさえこうして手作りの菓子を食べさせられている。
あの白々しい女……。
ザビニは残りのマカロンを乱暴に包み直すと、サイドテーブルに放り出した。 口の中に残るチョコレートの甘さは、どこまでも執拗で、彼女の存在のように粘り着いて離れなかった。