ホグワーツを囲む空気は、例年になく刺すような冷たさを帯びていた。アズカバンの脱獄囚シリウス・ブラックの噂と、校門に立ち尽くす吸魂鬼の影。しかし、そんな不穏な気配さえ、初めてのホグズミード村への期待を塗りつぶすほどのものではなかった。
ココア色のダッフルコートと厚手のウールタイツ、グリフィンドールのマフラーで北風に負けないように防寒対策はバッチリだ。アリスはデザートブーツで石畳を急ぎ足で駆けて、城門前でホグズミードへ出発する人だかりを見渡す。
「ライアン お待たせ!」
「おー」
玄関口の壁に背中を預けてアリスを待っていたライアンも、暖かそうな裏ボア付きのレザージャケットを羽織っている。目元ぎりぎりまで深く被ったビーニーのお陰で派手な金髪は隠れていた。
「急がなきゃ! ハニーデュークスのお菓子が全部なくなることはないだろうけど、かぼちゃフィズは別! だって今日はハロウィーンだから!」
小走りで先行くアリスの後を、余計な口出しせずにライアンも大股歩きでついていく。ホグズミード村はイギリスで唯一の魔法族だけの村だ。カサカサと乾いた落ち葉を踏みしめながら、目の前に広がる景色にアリスは感嘆の声を上げる。通りや店前にはハロウィーンの装飾のカボチャのランタンが並び、甘いお菓子の香りがそこら中から漂っている。
お目当てのハニーデュークスは生徒たちでごった返していた。コットンキャンディーとペパーミントカラーの店内は、お菓子のパッケージを彷彿させる内装からもう浮足立つ。陳列棚には心奪われるお菓子がより取り見取り。これは好きな味だからと手に取った次に、これは食べたことないからと隣の商品も手に取ってしまう。新商品のヌガーが試食品として配られていてそれを口の中で転がしながら商品を物色する。
「ドルーブルのベスト風船ガムだ。コレ、うちはママに禁止されてたの。膨らました風船が何日も割れないから」
「口ん中のヌガーで喉詰まらすなよ」
アリスはライアンの注意を軽く受け流してガムを掴む。もう店内はざっと一周できたみたいでレジに並ぶ前にショッピングバスケットの中を確認した。
「コレが210クヌート。このチョコは二つで1シックル……残りのこれで……合計4シックルと35クヌート……」
カナリアイエローのがま口お財布の中を指でひっかきまわして合計金額をしっかり確認する。母シェリルから貰ったお小遣いの中でやりくりだ。ディゴリー家は裕福ではあるが、金銭感覚を身につけてもらうために何でもかんでも買い与えることはしない。無駄遣いをしないように大切にお金を使う必要性はアリスもわかってはいるが、美味しそうなお菓子に今回ばかりは財布の紐も緩む。結局ハエ型ヌガーかナメクジゼリーで悩んで、ハエ型ヌガーを棚に戻したのだった。
会計を済ませ店を出て一旦食事を取ろうとしたとき、並び建つ店の中で、一際目立つピンク色の可愛らしいカフェが目に飛び込んできた。
「ワァー」
覗くと、花やフリルでいっぱいの女の子が好きそうな内装で甘い焼き菓子の香りが鼻をくすぐる。客はカップルばかりで、他店との違いにアリスは思わず感嘆の声が零れてしまう。振り向くとライアンの顔には「この店に入るのかな」と書いてあった。彼の出で立ちは店の雰囲気と全く合わなくってアリスはくすっと口角が上がってしまう。
「ここはいいや。三本の箒行かない?」流石のアリスもここをライアンと訪れるのは違う気がした。女友達か……いつか恋人ができたら、訪れることになる場所なのだろう。人気店の三本の箒では大きなチキンソテーと名物のバタービールでおなかを満たした。窓の向こうでは郵便局へ何百羽と行き交うフクロウの群れが圧巻でずっと見ていられる。
次に楽しみにしていたゾンコの悪戯専門店では男の子のお客さんばかりだった。バカっぽいジョークグッズはうず高く積まれていて男の子たちの目にはとっても魅力的に映っているのだろう。ライアンは男の子だけれど特段悪戯グッズが好きなわけではない。夏休みアリスが持ってきたクソ爆弾に難色示していたし、今もカエル卵石鹸に眉をひそめている。アリスは臭い玉を手に取ろうとしたら誰かの手とぶつかった。
「お、ゴメン……って、アリスか」
「テリー 偶然だね」
休日のテリーは初めて見る。マウンテンパーカーに太めのデニムで肩の力が抜けたファッションは実に彼らしかった。
「臭い玉買う女子、初めて見た」
「えー」アリスはちょっと恥ずかしくなって言い淀む。
「だって臭いのって面白いでしょ」
「ウハハ わかるけども」テリーは茶目っ気ある顔でアリスの手に臭い玉をいくつも載せるので「こんなにいらなーい」とアリスは笑った。
「ボードマンもいる?」
アリスの後ろにいるライアンにそう尋ねたテリーにアリスはパチパチ瞬きをした。
「二人知り合い?」
「ちげー」ライアンは目の前の臭い玉をやんわりと断った。
「俺が一方的に知ってんの。ボードマンの呪文学の長文記述では20も加点したってフリットウィックが言ってた。レイブンクロー生はおかげでメラメラしちゃって」彼はニヤッと笑う。
「アリスの友達なら仲良くなれそうだよ」気さくに差し出された手に、ライアンは一瞬固まったのちおずおずと握手を交わした。
「今度俺の友達も紹介するわ。皆アリスと喋ってみたいって」
「ワァ本当? パドマとは友達だけどレイブンクローに顔見知り少ないから嬉しい」
テリーは笑顔で両腕いっぱい悪戯グッズ抱えて人混みの奥へと消えた。
「あんなに買い込んでどうするつもりなんだろうね」
「さー」アリスよりも悪戯に興味のないライアンがわかるわけがない。
「テリーって面白いの。何故か占いで使う茶葉がいっつも彼の癖っ毛にくっついちゃうんだもん。どう占ったらそうなるのって感じじゃない?」
「ふーん」
ケラケラ喋り続けるアリスをライアンが見つめている様子は双子に見られていた。勿論悪戯グッズ専門店にいる双子とはフレッドとジョージのことだ。「仲のいいお二人さんにオススメ品をお見せしましょう」と、怒涛に紹介される悪戯グッズを半ば強制的に二人はいくつかを購入する羽目になった。双子のセールストークがそれ程までに上手かったのだ。
そうこうしているうちに時間はあっという間に過ぎ、初めてのホグズミード村を大満足のまま後にした。城に戻ると、グリフィンドールの談話室ではおもちゃ箱をひっくり返したかのように生徒たちが戦利品をそこらかしこに広げている。
「ワーこの髪飾り可愛い。どこで買った?」
「マクハベロック魔法帽子専門店よ。あそこ、こういったちょっとしたものも売ってるの」
暖炉の前でラベンダーはくるみボタンのヘアピンを見せてくれた。ビンキーの葬儀後、彼女は心の区切りをつけられたのかホグズミード村へ行けるくらいには前向きになれていた。首飾りのようにかけられた巾着袋の中のアメジスト──トレローニー先生がくれたお守り──も、一役買っているかもしれない。
「ラベンダー あのキャスケットはどうするの?」
「迷ってる。あのね、ヘアピン以上に欲しい帽子があって……」
「アリス、」
女子の中にライアンが割って入る。
「なに?」
「飴やるよ」
唐突に差し出された小さな丸いキャンディにアリスは目を丸くさせる。
「もうすぐ夕食の時間だし後でもらう」
「……」
「私欲しいわ何味なの?チェリー?」ラベンダーが言う。
「お前はダメだ」
「ケチね!」ラベンダーが不満げに睨む。
アリスに断られたライアンは逡巡したあと、なんとキャンディをアリスの口に拒否権なく運んだ!
「んんっ」
突然すぎてむに、とアリスの唇とライアンの指がぶつかる。慌てて素直に口を開くとコロンと甘い飴玉が口内で転がる。
「ありがとう。美味し……ヒック!」
大きく腹の底から飛び出たしゃっくりにアリスは口を両手で抑える。
「あ、あれヒック! ど、どうしヒクッ! たんだ!? ヒックヒック!」
目を白黒させるアリスの前を双子が通りかかった。
「しゃっくり飴のお味はいかがかな?」
「味わう余裕はないかもなぁ」
「……!?」
口を抑えたまま見開いた目を双子からライアンに移す。アリスを見下ろすいつもの仏頂面がその瞬間崩れた。
「ははっ」
鋭い瞳の端が、柔らかく弧を描き、歯を見せて笑った。滅多に感情を表に出さない彼が、肩を震わせて笑っているではないか。普段は大人びているのに今だけは年相応の少年の顔そのものだった。
「わぁ……笑ったわ」
「初めて見た。すーっごくレア」
ラベンダーとパーバティもそう言って食い入るように彼を見た。
「ごめん、双子がすすめてくれたやつ」
「まさかしゃっくり飴なんてヒョッ!!」
予想してなかった、と続く言葉が間抜けたしゃっくりだったのでライアンは噴き出す。
「ふっ、なに今のっ……お、おかしヒョッヒョッヒョッ!!」
アリスは耐え切れず笑い出したがそれも全部しゃっくりになってしまったのでうそー!?と目と口を皿のように大きくさせるアリスにライアンはソファに顔を突っ伏して笑いこけてしまう。
「ヒョッヒョッ! 止まんないヒョッヒョッ! しんどっ……ヒョッヒョッ!」
「ははは! ……それ、っはは! 本当に、変……!」
笑い止もうとした時におかしなしゃっくりが出るので、支離滅裂な状況がより拍車がかかって二人はソファの上で腹を抱えて笑いまくった。尋常じゃない盛り上がりで、ライアンはアリスの肩を大きく揺さぶるし、アリスは転がるように彼の膝の上で笑い跳ねる。ラベンダーとパーバティは顔を見合わせて「そこまで笑える?」と呆れて立ち去った。ようやくしゃっくり飴の効果が終わると二人はゼーゼー息を荒げて目尻には涙を浮かべていた。
「あー……腹いてー」
「お、お腹が疲れた……」
笑いすぎてお腹がヒクヒク引き攣り、口角や頬が痛い。嫌じゃない疲労感に襲われてぐったりしたが大広間から漂ってくる美味しそうな香りは無視できない。今年のハロウィーンのご馳走も素晴らしく、手元の取り皿に山盛りお菓子を盛りつけては平らげるのを好きなだけ繰り返した。向かいのライアンと目が合うと、クククと思い出し笑いしてしまうのでロンから「マッタク仲がいいね君たち」と茶化された。
幸せな気分で寮へ帰ろうとすると廊下が詰まったように人で溢れかえっている。グリフィンドール塔へ続く廊下なのだが先頭が穴の中に入らないようで渋滞を起こしていて足は止まってしまった。
なかなか列が動き出さないので、「一体全体どうしちまったんだ?」と、いかにご馳走を腹に詰められたか、膨らんだ腹をアリスと見せあいっこしていたシェーマスが背伸びして伺った。
生徒の群れをかけ分けていくパーシーをトロンとした目で追う。アリスは食べ過ぎで血糖値が上がり眠たくなってきた。
「……誰か、ダンブルドア先生を呼んで。急いで」
何が起きたのか生徒たちは押し合いへし合いしてざわめきは大きくなるが、それもすぐに止んだ。ダンブルドア先生が現れたからだ。人の群れがサーッと割れて道が開けられる。太った婦人の肖像画は様変わりしていた。大きくキャンバスは切り裂かれていてズタズタになった切れ端が床に散っている……絵の中に婦人の姿はなかった。
「婦人を探さなければならん」
ダンブルドア先生の声が廊下に響き渡る。生徒たちは急遽、大広間で夜を明かさなくてはいけなくなった。先ほどまでの鮮やかで楽しかった雰囲気から、台風が来る前夜のような、不安と混乱が城中に立ち込める。