「ピーブズの言ったこと、本当かな」
アリスは寝袋の中にモゾモゾ入り込み呟く。大広間にはダンブルドア先生が用意してくれた沢山の紫色の寝袋が敷き詰められていた。ハロウィーンの飾りつけは片付けられ、寮ごとにまとまって就寝準備を進める。全校生徒が集まっているので小さなざわめきがそこらかしこから聞こえてきた。グリフィンドール塔への侵入。それはシリウス・ブラックによるものだと言うピーブズ。そんなの真実だったら速攻特急に乗って家に帰らなくてはいけない。
「ダンブルドアは明らかにそう思ってるみたいだな」頭を突き合わせた斜め向かいの寝袋に潜りこんだロンが言う。
「ブラックが今夜を選んでやってきたのはラッキーだったと思うわ」ハーマイオニーは声を潜める。
「だって今夜だけはみんな寮塔にいなかったんですもの。襲われた婦人は可哀想だけれど……もしかしたらもっと大きな被害になっていたかもしれないわ」
「婦人はどこに行っちゃったんだろう」
アリスの問いかけにハーマイオニーは眉をしかめて頭を横に振る。「他の絵の中に隠れてるかもしれない……ダンブルドア先生がきっと直ぐに見つけてくださると思うわ」
「ブラックはきっと、逃亡中で時間の感覚がなくなったんだと思うな。今日がハロウィーンだって気づかなかったんだよ。じゃなきゃこの広間を襲撃してたぜ」
「だとして、どうやってホグワーツに入り込めたんだろうな」ライアンの疑問にロンは口を歪ませて首をひねる。
「姿現しじゃないか?」
「変装してたんだ、きっと」
「飛んできたのかもしれないぞ」
ライアンとハーマイオニーは自然と顔を見合わせた。異議ありと言っている。
「まったく。『ホグワーツの歴史』を読もうと思ったことがあるのは、私とライアンの二人だけだっていうの?」
「たぶんそうだろ」ロンが言う。「どうしてそんなこと聞くんだ?」
「それはね、この城を護っているのは城壁だけじゃないってことなの。こっそり入り込めないように、ありとあらゆる呪文がかけられているのよ。ここでは『姿現し』はできないわ。それに、吸魂鬼の裏をかくような変装があったら拝見したいものだわ。校庭の入口は一つ残らず吸魂鬼が見張ってる。空を飛んできたって見つかったはずだわ。その上、秘密の抜け道はフィルチが全部知ってるから、そこも吸魂鬼が見逃してはいないはず……」
ハーマイオニーはよどみなく周囲の思い付きを論破してみせた。監督生の合図で大広間の明かりが消される。アリスも大人しく寝袋の中に深く潜り込み、頭だけ覗かせた。真っ暗な天井には小さな星明りと弱々しく灯された蝋燭の光だけが周囲を照らしていて、時々目の前を深刻そうな顔した銀色のゴーストがスーッと横切る。頭の中で、先ほどハーマイオニーの言葉が反芻された。目をギュッと瞑っても、聞き取れない程度の音量の囁き声がポツポツ耳に入ってくる。宴会後は瞼が重かったのにすっかり目が冴えてしまった。寝返りを打って横を向くと、腕を曲げて頭を預けたライアンがもう一方の手をかざして指輪をぼんやり眺めている。
寝る時は指輪外さないのかな、とアリスも彼のシルバーリングが蝋燭の光を拾うのを何とはなしに目で追っていた。勿論、たとえ親友でも今まで横に並んで寝たことなんかないのでちょっとこの状況は新鮮だったのだ。ふと彼がこちらに気づきそうだったのでアリスは盗み見がバレないようにこっそり目を瞑った。隣から布擦れの音が聞こえ、暫くするとそれもなくなった。寝ちゃったのかな?薄目を開けて確認したかったが、自分は寝ている必要があったのでそれは難しい。アリスは自分が狸寝入りするのが苦手なのだと知った。いつもは直ぐ夢の中に入れるのに今夜だけは感覚が研ぎ覚まされているみたい。横になっているのに身体はカチコチに緊張している。
一時間たっただろうか。見張りの先生が大広間を出て行った。アリスの目には扉の向こう側──廊下──に立っている監督生がセドリックだと分かった。どれだけ視界が悪くっても肉親はわかるものだ。こっそり寝袋を抜け出す。皆の頭を踏まないように、他の監督生に気づかれないように身をかがめて扉に近づく。アリスの寝袋は扉と非常に近かったので容易だった。重たい扉を押すと、背後の扉が開いたことにセドリックは一瞬警戒したが、出てきた人物が自分の妹だと知ると表情を少し柔らげた。
「どうしたのアリス、お手洗い?」
「うー……うん」
別にトイレに行きたくはないがそういうことにして頷く。アリスが抜け出して兄のところに来た理由だなんて特にないからだ。
「よし、行こうか」
セドリックは同じ見張りの監督生に一言許可を取り、杖に明かりを灯しながらお手洗いに付き添ってくれた。
「監督生って寝られないの?」
「そんなことない。交代で見張りをするんだ」
てっきり寝ずの番をすると思っていたアリスはまた質問をする。
「廊下、寒くない?」
「松明の魔法が絶やさずあるから大丈夫だよ」
「ふうん」
二人の囁き声は暗い廊下に静かに溶けた。それに反して革靴が石畳を鳴らす音は悪目立ちするように辺りを反響させている。
「着いた。ここで待っているね」
女子トイレは暗くって影が落ちていた。アリスは小さく身震いする。
「先、行かないでね」
「大丈夫、僕はずっとここにいるから」
セドリックはアリスを安心するように優しく笑いかけた。アリスは、ずっと昔に、夜中トイレに付き合ってほしくて寝ているセドリックを起こしたころを思い出す。セドリックがちゃんとこっちを見ていることを確認し、アリスは小走りで個室に駆け込んだ。すぐに用を済ませて手を洗い、女子トイレから飛び出る。一瞬の出来事だ。アリスはフゥと息をついて、兄の横を歩く。
「私、暗いところダメになったみたい」
「そうなの?」
「ボガートの授業で、私の怖いものは影になったの。きっかけはわからないけれど大きい影が潜める暗闇はちょっと、」
アリスはセドリックの杖明かりから自分がはみ出ないように身を縮こませて近づく。
「ボガートか……」ポツリとセドリックが呟く。「僕も三年生の頃ボガートと戦ったよ。墓地だったな」
「お墓?」
「うん、おじいちゃんおばあちゃんのお墓だよ。昔、行ったことあるよね」
あまり記憶はないが確かにある。森の中にある祖父母の家。もうだれも住んでいないはず。その横にある小さな墓地は静かで、花のいい香りがした。でも幼いアリスにとっては少しつまらなく、墓参り後にありつけるシェリルが焼いたベリーパイが待ち遠しかった。
「大切な人が、そこにしかいないっていう事実を突きつけられるのが、怖かったんじゃないかな」
視線を外して、小さく息をつく。
「もう声も聞けないし、触れることもできない。ただ名前と日付だけが残ってる。ああいう形で終わりを見せつけられるのが、たぶん、僕は苦手だったんだろう」
アリスは兄の横顔を見て呟く。
「でも、それって変なことじゃないよね。誰だって、大事なものを失うのは怖いもの」
セドリックは妹の言葉に少しだけ優しく笑う。
「そのとおりだね……怖いって思えるのは、ちゃんと大切にしてる証拠だ」
気づけば二人は大広間に到着した。
「もう遅いししっかり休んで」
「うん……お兄ちゃんもね」
セドリックは扉を静かに開いて妹を中に入れる。
「お兄ちゃん、今でもお墓が怖い?」
閉まる瞬間、アリスは最後にもう一度尋ねる。
「どうだろうな、多分……今、ボガートは別のものに変身すると思うよ」
「それは?」
「ボガートは……僕に変身すると思うな」
視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。
「努力をやめてしまう自分とか、楽な方に流れていく自分とか……今は大丈夫でも、何かひとつで簡単に変わってしまうかもしれない。そういう“もしも”の自分が、少し怖いんだ」
そう話す兄の顔はとても印象的だった。揺れる松明の明かりが、セドリックの顔に淡い影を落とす。
「でも、だからこそかな。僕はちゃんと踏みとどまれる自分でいたいんだ。大切なものを、ちゃんと大切にできるほうの」
少しだけ肩の力を抜いて、穏やかに続けた。アリスは扉を強く押して身体を割り込ませて兄に近づく。
「お兄ちゃんがもし変な方向行きそうになったら、私が止めるから大丈夫だよ」
そして、おやすみ!とアリスは大広間の向こうに姿を消した。扉が閉まる音が、夜の廊下に小さく溶けていく。扉の前に残された空気を、松明の火がゆっくりと揺らしていく。
「アリスは本当に……頼もしいな」
光は、セドリックを小さく照らしていた。