朝日が昇ると同時に、嘆きの森には不釣り合いな「ザシュッ、ザシュッ」という小気味よい音が響き渡っていた。
聖女エルナは、純白の修道服の袖を捲り上げ、泥にまみれながらスコップを振るっていた。その額には真珠のような汗が浮かび、首筋には健康的な筋が浮き出ている。
『……なあ、エルナ。念のために確認するが、お前、今から何をするつもりだ?』
地面に逆さまに突き刺さったままの聖剣エクセリオンが、不安げな声を上げた。
「見てわからない? あんたが抜けないのが悪いのよ。だから、あんたが刺さっている『地面』ごと持っていくことにしたわ」
『地面ごと……?』
エルナは答えの代わりに、特注の頑丈な木箱を引きずってきた。それは本来、教会の炊き出しで大量のジャガイモを運ぶためのものだ。彼女はエクセリオンの周囲の土――実際にエクセリオンが刺さっているのは、岩の塊だが――を深々と掘り起こすと、その塊を「ふんっ!」という短い気合と共に持ち上げた。
推定重量、50キロ超。それを彼女は、まるで羽毛布団でも扱うような手つきで木箱へと収めた。
『ぎゃあああ! 揺らすな! 根こそぎいくな! 私は植物じゃないんだぞ! 泥が、私の美しい黄金の柄に……あああ、ミミズが、ミミズが隙間に入り込むー!』
「静かにして。これでも、あんたの重さと土の重さで、私の背筋は悲鳴を上げてるんだから。聖なる魔法で細胞を活性化させて無理やり動かしてるけど、これ、実質的に自分にドーピングしてるようなものなんだからね」
エルナは木箱を背負い、革ベルトでがっしりと自分の体に固定した。
見た目は、巡礼中の聖女というよりは、山岳地帯の屈強な
「よし、出発よ。目指すは国境の街、ラインハルト」
『……嘘だろう。この格好で街に入るのか? 伝説の聖剣を背負子(しょいこ)に入れて歩く聖女なんて、どこの吟遊詩人も歌わないぞ。せめて……せめて布を被せろ! 私の尊厳を守れ!』
「贅沢言わないの。ほら、索敵。魔物の気配がしたらすぐ教えなさいよ。じゃないと、あんたを盾にして突撃するわよ」
『お前、本当に神に仕える聖女か!?』
文句を垂れ流す木箱を背負い、エルナの聖なる旅(物理)が始まった。
※※※※※
数時間の行軍を経て、二人は街道沿いにある古びた宿場町に辿り着いた。
ラインハルトへと続く道の中継地点だ。夕暮れ時、宿屋『跳ねる羊亭』の扉を蹴破る勢いで入ってきたエルナに、主人と客たちの視線が集中した。
「一人、一晩。食事は肉。なるべく大きいのを」
エルナがカウンターに銀貨を叩きつけると、主人は彼女の背後の「箱」を凝視した。
「……お嬢さん、そいつは一体……?」
「ああ、これ? 気にしないで。ちょっと、……実家から持ってきた『家宝の漬物石』みたいなものよ。重いから、なるべく丈夫な部屋にして」
『漬物石だと!? この私は魔王を断つ光の……ぐえっ!』
エルナはさりげなく箱を壁にぶつけ(結構な音がしたので、宿の主人がビビリちらしたが)、エクセリオンの口を封じた。
案内された二階の角部屋に入ると、エルナはドサリと箱を降ろした。床が「みしり」と不穏な音を立てたが、彼女はそれを無視して、汗を拭った。
「ふう……。やっぱり、重いわね。あんた、少しは軽量化の魔法とか使えないわけ?」
『ふん、私がその気になれば、重力さえも操れる。だが、こんな屈辱的な扱いを受けている最中に協力するほど、私はお人好しではない。……おい、ところでエルナ。さっきから何を準備しているんだ?』
エルナは部屋の隅から隅へと、丈夫な麻紐を張り巡らせていた。その片方の端を、エクセリオンの柄に手際よく結びつける。
「見ての通りよ。今日は一日中歩いて、下着も靴下も汗だくなの。早く乾かさないと、明日困るでしょ?」
『……待て。その紐の先には、お前の洗い立ての肌着が……おい、かけるな! 私のを物干し竿の代わりにするな!』
「いいじゃない。あんた、神の金属ヒヒイロカネなんでしょ? 湿気くらいで錆びないって言ったじゃない」
『錆びるとかそういう問題じゃない! 私は天界の至宝だぞ! 万物の理を斬り裂く刃だぞ! なぜクマの刺繍が入ったパンツを干されなきゃならんのだ!』
鍔の部分に下着を干され、聖剣様はだいぶご立腹である。
「感謝しなさいよ。聖女の洗濯物を干せるなんて、世界中の騎士が泣いて喜ぶ名誉なんだから」
『どこの変態騎士だそれは! ああ、神よ……。かつて私を握った勇者王が見たら、憤死するに違いない……』
エクセリオンの嘆きをBGMに、エルナは鼻歌混じりに夕食の準備を始めた。
彼女は窓際に腰掛け、パンを齧りながら、暮れなずむ街並みを眺めた。
「……ねえ、エクセリオン」
『なんだ。洗濯物を取り込む気になったか?』
「この先に魔王軍が来てるって、街の人たちが噂してたわ。国境の街ラインハルトが落ちれば、この国は終わりよ。……あんた、本当に魔王を倒せるの?」
不意に真面目なトーンになったエルナの声に、エクセリオンは少しだけ沈黙した。
自分の鍔に吊るされた靴下(とクマさんパンツ)が風に揺れているが、その声には、先ほどまでの道化じみた響きが消えていた。
『……私は、主を選ぶ。勇者とは、力を持つ者のことではない。折れぬ心を持つ者のことだ。お前がその握力に相応しい「意志」を持っているなら、魔王など私の敵ではない』
「……意志、ね」
『そうだ。お前が私を「物干し竿」ではなく「剣」として振るう時、真の伝説が始まる。……まあ、今のところお前は、私を「便利なハンガー」程度にしか思っていないようだがな』
エルナは、少しだけ感傷的な気分でエクセリオンを見つめた。
確かに、彼女は彼を抜くことができない。自分には、勇者としての資質が足りないのかもしれないという不安は、いつも心の片隅にある。
――ん? ていうか、私は聖女なんだから、別にコイツ抜けなくても問題なくない?
彼女は自らの拳を握りしめ、力強く笑った。
「いいわよ。もしあんたが抜けないなら、私は世界で初めての『聖剣を土台ごと振り回して魔王を撲殺する聖女』になってあげるわ!」
『……お前、やっぱり少しだけあたまが……いや、倫理観が壊れているな。だが、嫌いじゃない。その型破りな強欲さはな』
「褒め言葉として受け取っておくわ。……あ、乾いたかしら」
『早すぎるだろ! せめて今のいい雰囲気の間は干しておけ!』
夜は更けていく。
ラインハルトまで、あと数日。
物干し竿と化した聖剣と、筋肉痛を魔法で癒す聖女の道中は、まだ始まったばかりだ。
窓の外では、不気味な赤色をした星が、魔王軍の接近を告げるように禍々しく輝いていた。