教壇に初めて立ってから早1週間。
トリニティ総合学園の廊下は、
平常であれば相変わらず静かだ。
音が少ない。
足音も、話し声も、どこか上品に抑えられている。
私はその中を歩きながら、
今日の授業内容を頭の中で整理していた。
非常勤講師としての滞在時間は短い。
だからこそ、無駄は削る。
(授業自体は…よし、問題ない)
しかし問題が無いと言えば嘘になる。
任務に?
違う、別のところにだ。
「……あ」
「ね、あの人じゃない?」
抑えた声。
だが、感情は抑えきれていない。
視線が集まる。
理由は分からないが、
こういう状況には慣れている。
ヴェスパー部隊に入隊した時の、
疑惑に満ちた視線の方が私にとっては苦痛だったからだ。
私は生徒達を気にせず、
歩調を変えずそのまま去る。
そして次の教室に向かうため、角を曲がった先――
窓際に、立ち止まっている生徒がいた。
杏山カズサ。
腕を組み、外を見ているふりをしている。
だが、こちらに気づいていないはずがない。
(……意図的だな)
私はそのまま通り過ぎようとした。
「……先生」
呼び止める声。
私は足を止め、振り返る。
「どうした」
声は低く、柔らかく落とす。
詰問する意味はない。
カズサは一瞬、言葉に迷ったようだった。
それから、視線を逸らしたまま言う。
「今日も……来てるんだ」
確認。
それ以上でも以下でもない。
「…そうだな。
今日は、杏山のところの三限目にある授業だけだ」
「……ふーん。そうなんだ」
それきり、会話が途切れる。
立ち去る気配はない。
距離は、近づきすぎない程度。
(…距離を測っているのか…?)
「…他に、聞きたいことはあるか?」
カズサは眉をひそめた。
「……非常勤ってさ」
「あぁ」
「すぐ、いなくなるんでしょ」
直球だ。
だが、悪くない。
「必要がなくなればな」
事実だ。
「ただ――」
少し間を置く。
「私の力を求める声がある限り、
君たちの力になり続けよう」
それだけを伝える。
表情は…納得していない顔をしていた。
そのまま彼女は食い下がらない。
「……じゃあ」
背を向ける前、ぽつりと落とす。
「来なくなったら……困る人も、いるかも…よ」
私は引き止めなかった。
ただ、その言葉が――
ほんの少しだけ、引っかかった。
(困る、か)
判断材料として、頭の端に置いておくことにした。
……やっぱり、いる。
廊下で先生を見つけた瞬間、
胸が変な音を立てた。
別に、探してたわけじゃない。
本当に。
でも、いなかったら……
それはそれで、落ち着かなかったと思う。
「今日も……来てるんだ」
口に出してから、後悔した。
もっと他に言い方あったでしょ。
なのに先生は、
いつもみたいに淡々と答える。
「そうだな。
今日は、杏山のところの三限目にある授業だけだ」
それだけ。
変に期待させない。
変に突き放さない。
……ずるい。
「すぐ、いなくなるんでしょ」
本当は、聞きたくなかった。
答えなんて分かってるのに。
「必要がなくなればな」
胸が、ちくっとする。
でも、その後。
「私の力を求める声がある限り、
君たちの力になり続けよう」
その一言で、全部持っていかれた。
(……求める声…)
誰が?
何を?
聞き返したかった。
でも、怖かった。
廊下の向こうで、他の生徒たちがひそひそ話している。
「今日も来てるんだって」
「やっぱりかっこいいよね」
「非常勤とか…いつでも会いたいのに、残念……」
……やめて。
私の中で、なにか黒いものが動く。
(知らないでしょ)
先生が、どんな目でこっちを見てるか。
どれくらい、距離を測ってるか。
(私だけは、ちゃんと分かってる)
そんな考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥が、じわっと熱くなる。
もう少しで三限。
あの非常勤講師の授業。
みんな「イケメン先生が来る」ってはしゃいでいて、
手鏡が手放せなくなっているようだった。
私は、いつもより早く席に着いた。
ラスティ先生は、既に授業の準備を済ませ、
チャイムを待っているようだった。
そして授業開始の鐘が鳴る。
ラスティ先生の授業が始まった。
「前回の続きからだ…」
教壇で端末を操作している。
無駄のない動き。
でも、昨日より少しだけ――
雰囲気が柔らかい。
(……気のせい?)
授業内容は、危機管理。
言葉は優しいのに、言ってることは重い。
「判断を急ぐな」
「迷ったら、一度立ち止まれ」
「守りたいものが見えた時ほど、視野は狭くなる」
私は、ノートを取るふりをしながら聞いていた。
(先生は……なにを守ってきたんだろ)
ふと、ラスティ先生と視線が合う。
先生は逃げない。
先生は逸らさない。
その一瞬で、心臓が跳ねた。
授業の終わり。
「質問はあるか」
…誰も手を挙げない。
「……先生」
教室がザワつく。
私はこの授業を通してずっと気になっていたことを、
ラスティ先生に投げかける。
「もしさ。
守りたいものが出来たら……どうすればいいの」
ラスティは、すぐには答えなかった。
少しだけ考えてから、言う。
「簡単ではない」
低い声。
でも、どこか柔らかい。
「守るものが出来ると、判断は鈍る」
一拍。
「……それでも守りたいなら、
自分が、どれだけ弱くなるかは分かっておいた方がいい」
胸が、ぎゅっと締まる。
怖い。
でも――逃げられない。
授業が終わり、生徒たちが教室を出ていく。
私は、気づいたら廊下まで先生を追っていた。
「……先生」
振り返った目。
「杏山か、どうした」
「さっきの話
……優しくないね」
少しだけ、冗談めかして言った。
ラスティは、ほんの一瞬考えてから息を吐いた。
「…なるほど。
そう、見えるか」
……ふっ。
短い。
でも、確かに笑った。
私の胸が、跳ねる。
(……え)
今の、なに?
先生は、そのことを気にしていない様子で続ける。
「ただ、嘘は言わない」
それだけ。
なのに。
(……私だけ、見た)
他の誰にも向けてない顔。
そう思ってしまった瞬間、もう戻れなかった。
「……ずっと、授業しに来るんだよね」
小さく聞く。
ラスティは振り返らない。
「必要があればな」
歩き出す大きな背中を見送りながら、
私は唇を噛んだ。
(……必要に、なってやる)
そんな考えが浮かんで、
自分で自分が怖くなる。