4限が終わり、
生徒達の憩いの時間へと空気が切り替わる。
トリニティ総合学園の昼休みは、
朝や放課後とは少しだけ空気が違う。
廊下に人が増え、
抑えられていた声や感情が、わずかに緩む。
私は中庭へ続く回廊を歩いていた。
次の授業までは、少し時間がある。
(……問題は…起きていないようだ)
少なくとも、表向きは。
「ねえ、見た?」
「今日も来てるよね、非常勤の先生」
「黒スーツの……」
噂話が、自然に耳に入る。
(広がり方が早いな)
止める理由はない。
まだ、私が制御すべき事象ではないからだ。
中庭に出ると、端の方に白いベンチが並んでいる。
私は端の一つに腰を下ろし、
持ってきた弁当の中身から食パンを取り出す。
「…ひとまず、休憩だな」
具材は無い。
元より味を重視した食事に縁がない生活だったからだろうか。
この子らの歳の頃は、栄養や腹持ちが何よりも大事だった。
生きるために、食うのだ。
…それがどんなものであっても。
私は片手間に端末を開いた。
次の授業内容。
注意点。
想定される質問。
確認作業を食事と並列して行っていると、
――そこへ、影が落ちる。
「……せーんせ」
聞き覚えのある声。
顔を上げると、杏山カズサが立っていた。
(……来たか)
私は立ち上がらない。
無意識に、相手が話しやすい高さを保つ。
「どうした」
先程の彼女の声はいつもより低く、
だが初日よりも柔らかい。
カズサは少し迷ってから、
私から離れた場所ではなく、隣に座った。
(…距離が近いな)
だが、特別退く理由はない。
「お昼、ここで食べるの?」
「あぁ、唯一落ち着ける場所さ」
「……ふーん」
会話は短い。
だが、沈黙が不自然じゃない。
中庭を渡る風が、木々の葉を揺らす。
「先生さ」
前を向いたまま言う。
「人気あるよ」
「そうか」
私はそれを、
ひとまず事実として受け取った。
「みんな言ってる。
かっこいいとか、反則だとか」
私は少し考えた。
(…あぁ、評価の話か)
「そういうのは、私の管轄外だな」
淡々と答えたつもりだった。
だが――
「……興味なさそう」
カズサが、横目でこちらを見る。
「実際、ない」
即答。
「教師として必要な情報じゃない」
そう言ったあと、少しだけ間を置く。
そして、横目でこちらを見るカズサの目を捉え、
私から逸らせなくする。
「……君が気になるなら、別だが」
肩が、僅かに左右に揺れている。
「……なに、それ」
カズサの声が小さくなる。
私はそのまま、視線を外さずに言った。
「君が困るのなら、聞こう」
理由は単純。
生徒の状態を把握するのは、教師の仕事だ。
…それだけのハズだったのだが。
……なに、それ。今の。
「君が気になるなら、別だが」
頭の中で、何度も反芻する。
(聞き間違いじゃないよね)
ラスティ先生は、相変わらず淡々としてるのに。
言葉だけが妙に近い。
「……ラスティ先生ってさ」
私は、わざと軽く言った。
「自覚ないでしょ」
「何のことだ」
「そういうとこ」
胸が、じんわり熱い。
このベンチは配置的に、校舎の窓からは見えにくい場所にある。
生徒からも忘れられた場所なんだろう。
昼休みだというのに、この周りには誰一人として通りかからない。
ラスティ先生が『落ち着ける場所』と言っていたのも分かる。
…けど、
(……見ないで)
見られているはずもない。
けどもしこの光景が見られていると思うと…
先生が、私と並んで座ってるだけで噂になる。
それが、嫌なのに。
それなのに。
(離れないでほしい)
「……先生は…」
声が、少しだけ小さくなる。
「ラスティ先生は、
私のこと、どう思ってるの」
聞いた瞬間、
逃げ場がなくなった気がした。
ラスティ先生はすぐには答えず、
少し考えてから答えを出してくれた。
「警戒心が強い」
胸が、きゅっとする。
「だがそれでいて、
自分の状態を俯瞰視出来ているように思う」
声が優しくて、静かで。
「それは、良いことだと私は思う」
……たったそれだけなのに、
褒められた気がして、
否定された気もしなくて。
「……それだけ?」
思わず、聞いてしまう。
ラスティ先生は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「それ以上を、今は言う必要がない」
……ふっ。
小さく、息が漏れる。
(また、笑った)
私だけが見てる。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締まる。
(……やっぱり、ずるい)
遠くで、昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「…すまない杏山。
もう教室に向かわねば。
では……あぁ、そうだ」
立ち上がりながらそう言いかけ、
一歩だけ、カズサの方を見る。
「無理はするなよ
……君は、考えすぎる癖があるようだ」
それは叱責じゃない。
注意でもない、共有だ。
カズサは、驚いたように目を見開く。
「……それ、心配してる?」
私は一瞬、返答に困り言葉を探した。
(心配……か)
「…状態の確認だ」
だが、声は否定しきれていなかった。
カズサは、小さく笑った。
「……そっか」
立ち上がる前、
彼女はぽつりと言った。
「先生」
「なんだ」
「私が困ったら……
ちゃんと、聞いてくれる?」
私は即答しなかった。
だが、迷いもしなかった。
「…それが、私の仕事さ」
それで十分だった。
私は歩き出す。
背後でカズサの足音が一歩、
また一歩と遅れては止まる。
(……私だけ)
そう思うのは、危険だ。
分かってる。
でも。
あの人の声が、あの一瞬の笑いが、
私だけに向けられたものだって、
信じたくなる。
(……離れたくない)
私その気持ちに、
もう名前をつけてしまいそうだった。