眩き夢路に耀う虹   作:かってぃー

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第1話 邂逅Ⅰ:()

 いつの間にか、雨が止んでいた。先刻までは窓を乱打していた降雨の喧騒は既になく、ブラインド越しに柔らかな陽光が滑り込んでくる。隙間を押し広げてみれば自儘な黒雲はとうに遥か東方に流れ、無彩の都市にはエンジェルラダーが降りていた。路面に残る水溜まりの存在ばかりが降雨の激しさを思わせ、しかしその全てが天を映すその光景は無機質な都心にあってもいっそ幻想的ですらあろう。

 

 唐突な雨であった。人類の叡智たる予報を嘲笑うかのように前触れもなく現れ、そして驕傲甚だしく地上を荒らして去っていく。けれど、去ってしまえばそれまでだ。夕立。ゲリラ豪雨。そんな言葉で済まされ、日常の中に溶けていく。今日の降雨も、明日の朝刊の片隅を飾るのが精々だろう。

 

 しかし──。人気の絶えた事務所の一室で、女性が片頬に笑みを滲ませる。およそ人の好さとは離れた、憐み、ともすれば過ぎた同情めいたそれ。中年を迎えてもなお均整の取れた体躯と美貌を保つ彼女の浮かべるそれは、最早凄烈の一言だろう。

 

 特筆する事の無い通り雨。たとえ、それが真実であったのだとしても。その裡にこれ以上の意味を見出せぬ者らと、彼女は憐れむ。不運にも()()を知らなかったからそんな事が言えるのだ、と。その顕れたる笑みであった。

 

 虹霓と日差しに彩られた都心より視線を外し、再び事務机に向き直る。波乱の変遷を遂げた外界より切り離されたそこは彼女に与えられた事務所の一室であり、そして机上にはタブレット。

 

 その画面の中央で、ひとりの少年が天に向けて拳を突き上げている。荒天の下に無防備でいたものだからその姿はまさに濡れ鼠の一言であり、だがそんな有様でありながらその双眸が放つ孔雀青の眼光は比類ない熱量を湛えている。幻想(ユメ)はとうに醒めているというのに熱は冷めず、故に観客の喝采は必然であった。

 

 彼女が今日という日にこの配信に辿り着いたのは、まさしく僥倖そのもの。恍惚を描く唇で、彼女は星の名を呟く。

 

真野(まの)彩歌(さいか)……」

 

 一時停止した画面の上で指を滑らせ、その姿を拡大する。些かステージから離れた場所から恐らくはスマホで撮影しているだろうそれ。拡大すればそれだけ容貌は判然とせず、けれど彼女が見紛う筈も無い。その面貌を。何より、その光輝を。

 

 故にそれは、理屈を超えた確信。真野彩歌。この少年こそは彼女が焦がれ、求め続けたかの“唯一”の息子なのだ。でなければその光輝を以て偶然の顔をした奇跡を呼び込んだ事に説明がつかない。

 

 理外の因果(ロジック)。屁理屈めいた確信。だが彼女には天啓にも等しく、その祝福に震える身体を両腕で掻き抱いた。けれど身体の奥より溢れる興奮は止まず、閾値を超えたそれに流されるまま絶頂すら迎えんばかりだ。

 

 或いは余人がそれを見れば、あまりの奇異に恐怖すら覚えただろう。頭の片隅でそれを理解しながら、だが彼女は一切を意に介さない。だって仕方ないじゃないか、と。長年追い続けてきた夢に、光明が見えたのだから。

 

 嗤われ続けてきた夢だ。蔑まれ続けてきた理論だ。それでも叶えるために走り続けてきた。その果てに出会った手段を前にして歓喜を抑えられず、彼女は芝居がかってすらいる勢いで諸手を広げて空に吠える。

 

「あぁ、真野彩歌……!! あなたが本当にあの人の子供なら……!!」

 

 最早、確実性に欠けた代替手段(サブプラン)に頼る必要はない。自らの生みだしたものは所詮、己の可能性の域を出ないのだから。ともすればと期待を抱いた事もあったけれど、本物には決して及ばない。ようやく見つけた一縷の希望なのだ。

 

 故に、もう抑えられない。抑える必要などない。総身を満たす歓喜のままに静止した液晶を食い入るように見つめ、魔女は哄笑を迸らせた。

 

「この輝きを、必ず手に入れる。どんな手を使ってでもッ……!!」

 

 たとえ、誰かの未来(ゆめ)を阻んででも。

 

 全ては、たったひとつの証明(ゆめ)のために。

 


 

 光陰矢の如し、という言葉がある。弓より放たれた矢が即座に飛んでいくように、月日が経つのもまた速いものだという意味の諺だ。それ自体は幼い時分から知っていた侑だけれど、齢16の頃になって初めて彼女はその言葉を実感として認識していた。

 

 放たれた矢が弓へと戻る事は決してない。一度弦より離れたが最後、矢は前へと進むだけだ。愚直なまでに猛進し、その結末が標的に着弾するか、はたまた狙いを外してただ朽ちゆくを待つかは誰にも分からない。

 

 詰まる所、時間というのもこれに同じなのだ。熱力学第二法則。量子力学。時間の不可逆性を証明する理論はいくつかあろうが、ひとつの個体としては実感に勝るものはない。

 

 時計の針は一周しても前と同じではないように、毎日日の出時間が異なるように、日々は過ぎていく。選択は戻らない。覆水が盆に返る事は無い。未来は現在(いま)と地続きで、いつだって不確かだ。故に今の己について、侑が公開する所は何ひとつとして在りはしないのだ。

 

 とはいえ、そんな精神的充足は必ずしも身体の調子と一致するものではない。一日の終わりを告げるチャイムと共に伸びをすると、身体のあちこちから筋肉が解れる音がした。何しろ慣れない授業を何時間にも渡って受け続けたのだ、疲労が溜まるのも致し方ないこと。しかしその疲労さえ楽しく思えてしまうのは、少々浮かれすぎであろうか。

 

 転科試験に合格し、侑が普通科から音楽科に移って既に数週間の時が過ぎた。これまでとは毛色の違う授業についていかねばならない日々は大変であるけれど、それだけに充実も大きい。それが自ら選んだ道であるのだから猶更に。加えて放課後には同好会の活動もあるのだから、彼女が上機嫌なのは自明と言えた。

 

 鼻歌など紡ぎながら支度を纏め、跳ねるような足取りで机を離れる。転科後にできた友人らと別れの挨拶など交わしながら侑が向かったのは後方の席。丁度良く友人との会話を終えたと思しきその生徒に声を投げる。

 

「──さいちゃん!」

 

 さいちゃん。その呼びかけに応え、その生徒が短く吐息を洩らした。友人へと遣っていた視線が侑へと滑り、その存在に気付くや孔雀青の瞳が柔和に細められる。風に靡く亜麻色の髪は陽光の中で煌めき、瞳の色と相俟って一種の絵画のよう。

 

 そんな、総じて温順な雰囲気を纏う少年。彼こそが誰あろうさいちゃん、もとい”真野彩歌”であった。侑にとっては友人であると同時に同好の士であり、ピアノの師のような存在でもあり、そして今となってはクラスメイトでもある相手だ。

 

「やぁ。お疲れ様、侑さん」

「うん。さいちゃんも、お疲れ様っ。

 ね、さいちゃんもこれから同好会行くよね? 一緒に行こ!」

 

 かつては学科すら違っていたふたりだが、今では同じクラス。行動を共にする事もそう珍しくはない。少なくとも侑の発言に対し、クラスメイトの誰も邪推めいた目をしない程には。それでも彼女が態々それを口にするのは、一種の確認のようなものだ。

 

 侑は転科生である。試験により一定の実力は担保されているとはいえ、周囲より遅れているのは間違いない。故に彼女は時折補修を受ける必要があって、毎日同道できる訳ではないのだ。

 

 とはいえ、この提案を彩歌が蹴った事は無い。半ば出来レース、予定調和のようなものだ。──今までがそうであったから、彼が含みのある表情を見せた事に侑は驚いてしまった。

 

「ごめん、俺、今日は少し遅れる。予定があってね。皆にも言っておいてもらえるかい? 面倒をかけてしまって、申し訳ないね」

「ううん、謝らないで。でも──」

 

 珍しいね。そう続く筈だった侑の言葉はしかし、彼女の後方から投げかけられた声によって遮られた。見れば、その主は彼女らのクラス担任のようだ。

 

「真野君。さっきも言ったけど、ちょっと進路調査の件で話があるから、後で職員室まで来るように」

 

「……と、いうワケなんだ」

「なるほど」

 

 道理で、と。真面目で知られている彩歌が事前の連絡も無しに遅刻とはと疑問に思っていた侑だが、目前で理由を見せられては納得する他ない。急な呼び出しであれば、事前連絡などある筈もない。

 

 しかし、これはこれで疑問だ。少なくとも侑の中では、彩歌は既に進路を固めている印象であった。何しろピアノコンクールで全国優勝する実力者なのだから、自ら動かずとも引く手数多というものだろう。

 

 驚愕は周囲も同様であったようで、その目に彩歌は居心地が悪そうだ。泳いだ視線は必死に誤魔化し方を考えているそれで、しかし彼はそういった方面は不得手な男であった。嘆息は諦めの色を含んでいた。

 

「……まぁ、少し悩んでいてね。それで今までと回答を変えたから、先生がびっくりしたみたい。まったく、()っといてくれればいいのにさ」

「あはは……」

 

 いじけたようにぼやく彩歌に、侑は愛想笑いだ。担任の行動は親切心とは少し違うのだろうが、それでも彼を思っての事だろう。しかし干渉を受けたくない彼の気持ちも理解できてしまう。それ故の事であった。

 

 だが侑は、どちらかと言えば彩歌に肩入れしてしまう。彼の心変わりの原因に、心当たりがあったから。正解かを確かめる術は彼女にはないが、想像通りならばその懊悩は彼にとって良い傾向であろうことは確かだ。

 

 けれど懊悩は懊悩。両者への共感とは別に、純粋に友人を心配する気持ちが侑にはあった。困ったように笑んで、それでも彼女は自身に素直である事を選ぶ。ひとえに友誼ゆえの判断であった。

 

「うん、分かった。皆には私から伝えておくね。

 それと、私でも力になれる事があったら、行ってね。ひとりで悩みすぎるのも、さいちゃんらしいんだけどさ」

「……! あぁ、まったく。キミには敵わないね」

 

 見透かされている。その確信も、この友人相手であれば不思議と不快は無かった。むしろ心強くすらあって、彩歌の笑みはそのため。無制限の信認が、そこにはあった。理屈を飛び越えてそうさせてしまうのは、やはり侑の人徳と言うべきだろう。

 

 そんな彩歌の信認を知ってか知らずか、侑が手を振って離れていく。また後でね、と。友とそんな言葉を交わせる事の、何と嬉しい事か。その小さな背が教室を出ていくのを見送って、彩歌は自身の机に向き直る。

 

 鞄を開け、取り出したのはタブレット端末。手慣れた手付きで画面を繰り、呟く。

 

「二兎を追う者は……か」

 

 進路調査アンケート。そう題されたページを見ながら零れたその言葉は、けれど応える者もなく喧噪に呑まれるばかりであった。

 


 

 それはまるで、異界に踏み入るような体験であった。

 

 時は既に夕刻。蒼穹は既に天球の端へと追いやられ、西方より押し寄せる黄昏の鯨波に取って代わられつつある頃。学校、或いは職場より集まった雑踏は半ば機械的に駅に足を踏み入れ、そして異状を見る。

 

 万象が崩れる。周俊前までは確かに在ったものが壊れ、砕けて混ざる。それを錯覚する程の凄烈であった。そうして出来た空白の裡、しかし虚無はその存在を許されない。崩落する世界、解けていく理、それらを贄とするようにして、空位の神に代わってヒトは新たなる法を敷く。恰も宇宙を丸ごと新生するが如くに。それほどの熱量が、そこにはあった。

 

 比類なきその“熱”に充てられて、人々はただ暴虐なる演奏(せかい)を受容する。ひとりの例外もなく、群衆はいつの間にか巨大な観客と化していた。それを可能とするだけの超絶技巧。そして、それに勝るだけの圧倒的な質量。それらが若干17歳の少年によるものだと、誰が信じられようか。

 

 淀みない運指の悉くが乾坤一擲。ひとつひとつの音全てに、己が全存在を込めるように。なればそうして奏でられる音色とは、彼そのもの。清濁併せ吞む、両儀を超越した太極の音色。それこそが奏者──真野彩歌の真骨頂。

 

 故に戦慄が止んでその残滓が虚空に溶けきった時、聴衆が思わず喝采を送ったのは半ば自然な事であった。降り注ぐ惜しみの無い万雷の中で、奏者は恭しく礼を取る。──それで、終わり。即席のステージは役目を終え、世界は元の容へと戻る。

 

 聴衆は雑踏に還り、再び流れてゆく。その傍らで奏者の役を脱いだ彩歌はストリートピアノより離れようとし、しかしその直前、予想外の声があった。

 

「──きゃあっ! アナタ、真野彩歌ね! そうでしょう?!」

 

 声に導かれて振り返った先、そこにいたのはひとりの少女であった。年の頃は彩歌と殆ど変わらないようで、身長は彼よりも少し低い程度。絹のような薄桃のロングヘアの下では澄んだ水色の瞳が勝気に光る。

 

 端正な容貌に、瑞々しい肢体。それらの合一は、さながら名工の作り上げた女神の似姿という形容が相応しかろう。その偉容たるや、彩歌も一瞬見惚れてしまいそうになった程である。

 

 だが、知らぬ少女だ。スクールアイドルとなった今では初対面の相手から呼び止められる事も珍しくない彩歌だが、この少女はそれらファンとは些か異なる気配であるように、彼には思えた。

 

「流石は名にし負う色彩の星(カラフル・スター)ね。素晴らしい演奏だったわ! ()()()に聴かせてあげられないのが残念なくらい!」

「あの子……? というか、キミは……?」

 

 褒められている筈なのに、どこか置いてけぼり。興奮した様子の少女を前にして、彩歌の疑問は半ば当然の事であった。その子とは誰なのか。そもそも、この少女は誰なのか。態々接触してきた目的とは何なのか。疑問は尽きない。

 

 そして興奮しているとはいえ周りが見えぬ訳ではないようで、問いを受けて少女が冷静に立ち戻る。その表情に申し訳なさが垣間見えるというのは、彼女の素直さの顕れなのだろう。

 

「あぁ、对不起(ごめんなさい)! まだ名乗ってなかったわね。アタシは──」

 

 刹那、鳴り響くコール。少女の名乗りを断ち割るかのようなそれは、どうやら彼女のスマホから鳴っているようであった。彩歌は出るように促し、少女が短い謝罪の後に通話を受ける。

 

 その会話の中身と立ち聞きする趣味は彩歌には無い。だが少女の些か過剰(オーバー)な吃驚を見るに、少女にとって想定外の事があったようだ。

 

「悪いわね、彩歌。もっとアタシと話していたかったでしょうけど、急用ができてしまったの。アタシはもう行くわね!」

 

 いや、話したいも何も。彩歌はそう返しかけて、しかし口を噤む。その返答は、あまりにも野暮というものだ。あえて無粋な会話に持ち込むのは、彼としても本意ではない。

 

 そもそもとして。少女の言葉は、決してナルシシズムに依った妄言ではない。会話が少女のペースになっているのもあろうが、少女がまとう雰囲気がそうさせるのか、確かにこの遣り取りを惜しむ気持ちが彼にはあった。

 

 しかし、相手は猪突猛進を人型にしたかの如き少女である。踵を返すや少女は果然と歩みだそうとし、だが踏み出す刹那に彩歌へと視線を投げた。

 

「そう、これだけは言っておくわ! アタシの名前は鐘嵐珠(ショウ・ランジュ)! きっと、またすぐに出会う事になるわ! ランジュの勘はよく当たるのよ?

 じゃあ、拜拜(バイバイ)!」

 

 それだけを告げて、少女、もといランジュは背を向けて往く。雑踏の中を往くその姿は不思議と人々の間に溶けては消えず、彩歌に神話の一幕を思い起こさせた。海を割り、人々を導いた聖人の話だ。

 

 そのまま、どれほどの間そうしていたか。いつの間にか彩歌は忘我に陥りかけていたようで、その裡より彼を引き戻したのは愛しい人の声。

 

「すみません、遅くなりました! 生徒会の業務が立て込んでいて……彩歌くん? どうかしましたか?」

「──! 菜々。ごめん、少しボーっとしてたみたいだ。ちょっと……そう、嵐に遭ってね……」

 

 要領を得ない回答だ。判然としない応答だ。菜々が首を傾げたのも当然と言える。けれど彩歌からすれば、それ以上に答えようがないのもまた事実。突然話しかけられ、趨勢を握られ、そして名前以外何も分からないまま去っていく。それを嵐と形容せず、他に何と形容しようか。

 

 ──けれど、それだけではない。彩歌が忘我に陥ったのは、何もただ茫然としていたからだけではないのだ。言い様の無い感覚にこめかみを押さえ、彩歌は逡巡する。

 

 ショウ・ランジュ。その名の通り、嵐の如き少女。天真爛漫を絵に描いたようなその在り方の裡に、彩歌は一抹の()()を見る。その理由すら、判じられぬままに。

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