眩き夢路に耀う虹   作:かってぃー

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第2話 邂逅Ⅱ:憩う

 嘗ての彩歌にとって、ランニングとは一種の自己対話にも等しい行為であった。

 

 中学校入学頃より始めた、日課である早朝ランニング。毎日おおよそ決まった時間に目覚め、決まったコースをただ辿る。言葉にしてしまえばそれだけだが、しかし単純故にそれはどこまでも奥深い。

 

 傍目には焼き直しのようでも、内実はさにあらず。特に体調などは日々違うもので、走りながらそれを掴むのだ。呼吸の深度を調整し、筋肉の収縮と弛緩を流動化し、以て全身の運動を最適化する。それ故の自己対話。日常を循環されるための、それは自我の画一化(フォーマット)だ。

 

 けれど日常とは不変でなく、流転の裡で巡るもの。世界は自らだけでは完結せず、ならば変化は必然であったか。酸欠でぼやけた脳裏で内省し、彩歌は感傷めいた反芻を一笑で切り伏せた。

 

 在り得ない事だ。あくまでも作業でしかなかった筈のランニングに、酸欠になる程夢中になってしまうなど。以前の彩歌がそれを知れば、きっと軟弱だと責めるだろう。だがそんな自罰を、今の彼はただ握り潰す。夢中になるのも致し方ないのだ。だって、こんなにも楽しくて、幸せなのだから、と。

 

 あまりにも現金な心境の変化に微笑しながら、彩歌の視線は手元のスマホに注がれている。そうして目前の自動販売機から都合2回の落下音。続いて、彼の背後でもうひとつの足音が止まる。

 

「ふーっ! 今日もいい汗をかきました!」

 

 日の出間もない時分だというのに、ひどく闊達な声であった。まるで僅かに残る夜闇の残滓すら、その一声で吹き飛ばしてしまいそうな程に。雑に腕で拭って飛び散る汗粒が、朝日を受けて煌めいている。

 

 未だ夜の気配が抜けきらぬ街の中、その姿は常世に光を齎す陽の権化が如く。大袈裟のようでも、彩歌にとってはそれでも足りない程だ。少なくとも彼の裡で、中川菜々/優木せつ菜とはそれ程の存在であった。

 

 先刻まで全力疾走していた筈だがせつ菜は疲労を覗かせない快活な笑顔で、そんな彼女に彩歌が差し出したのは水のボトル。先程購入したものの片方であった。

 

「お疲れ、せつ菜。ふふ、今日は俺の勝ちみたいだね?」

「むーっ、悔しいです……次は私が勝ちますから、絶対!」

 

 わざとらしく勝ち誇ってみせる彩歌に、対するせつ菜は笑顔から一転して心底から悔しそうだ。そんな有様であっても水を受け取る際に礼を欠かさないのは、彼女の生真面目さの顕れと言えよう。

 

 刹那と彩歌のランニングが競争の色を帯び始めたのは、いつ頃の事であったか。少なくとも彼らが交際関係になり時折日課を共にするようになった時には既にそうであったと、彩歌は振り返る。何しろ同好会での練習でもそうだったのだから、況やプライベートをや、といった所だ。

 

 だがそれは何も彼らが不仲だとか、そういう事ではない。彼らは今や恋人で、仲間で、そしてライバル。何重にも折り重なったその関係を、全力で楽しめばこそ。これが彼らなりの全身全霊なのだ。

 

 身体が水分を欲するままボトルを傾けるせつ菜を横目に彩歌はベンチに腰を下ろす。そのまま何気なく見回した公園は、彼ら以外は全くの無人。ふたりだけの独壇場だ。そんな状態であったものだから、せつ菜がすぐ隣、殆ど密着の距離感で座ったのも、彼には詳らかだ。

 

「……」

 

 ウェア越しに太腿が触れ合う程のそれから、何も言わぬまま僅かな身動ぎで空間を作る彩歌。だが、それにせつ菜が気づかない筈もない。小首を傾げ、その間隙を詰める。

 

 逃げる。詰める。逃げる。詰める。いたちごっこのようなその繰り返し。けれど、それはいつまでも続かない。やがて彩歌はベンチの端まで辿り着いて、せつ菜が追いついた。そのまま空いた手で彼を捕えてしまう。

 

「ふっふっふ、捕まえましたよ! これでもう逃げられません! ……というか、逃げる事ないじゃないですか!」

「う……それはまぁ、そうなんだけど……」

 

 歯切れの悪い彩歌の応えに、せつ菜はやはり不満げだ。柔らかな頬をめいっぱいに膨らませたその姿を前にして、場違いにも彩歌の胸はときめいてしまう。いついかなる時でもせつ菜の一挙手一投足に心を動かされてしまうのは、彼の明確な弱点であった。

 

 遁走もまた、それ故のこと。しかしせつ菜にはそれを知る由も無く、彩歌に退路はない。最早観念する以外の選択肢は彼になく、唾液をひとつ呑み下してから彼は答えを口にする。

 

「……汗臭いだろう、俺は?」

「へっ?」

 

 幾許かの逡巡を経て絞り出された答えはあまりにも予想外なそれ。せつ菜が素っ頓狂な声を漏らしてしまったのも仕方ない事だろう。そのまま、数瞬の空白。思わず、せつ菜は吹き出してしまう。

 

「わ、笑う事ないじゃないかぁ……」

「だって……あはは! ごめんなさい、ふふ……!」

 

 よもや笑われるとは思っていなかったのだろうか、乙女の如き恥じらいを見せる彩歌に、せつ菜はなおも笑声を漏らしてしまう。或いはそれは、胸中にあった一抹の不安が杞憂に済んだ安堵から来るものでもあるのだろうか。

 

 ともすれば彩歌の憂慮とは、情けないと切って捨てられるものではあるのだろう。だがそんな一面すら可愛らしく見えてしまうのは、惚れた弱みと言うべきか。恋は盲目。まったくその通りだとせつ菜は思うけれど、ならば盲目のままでも彼女は構うまい。

 

 やがて笑声が止み、目尻に滲む涙を指で拭うやせつ菜が諸手を大きく広げる。それだけでは意図を察せず疑問符を頭上に浮かべる彩歌に、せつ菜は微笑みを向けた。

 

「汗臭いだなんて、そんなコト私は気にしません! むしろ……」

 

 むしろ、何だというのか。言いかけて、それに気づいたせつ菜は口を噤んでしまう。だがこの状況にあってその先を察せない程に鈍いつもりは彩歌にはなく、故に揃って紅潮してしまったのは一種の共通理解によるものだった。

 

「とっ、とにかく! 私は気にしません! 何だったら、ぎゅーっとしてもいいんですよ! なんて……」

 

 せつ菜としては、それは全く勢いだけの行動であった。だが刹那の羞恥を以て立ち戻ってきた冷静が自制を呼び戻し、腕を引っ込めようとしてしまう。冗談めかした言葉は、しかし途中で断ち切られる。驚愕ゆえに息を呑んだがためであった。

 

 先刻までの恥じらいとは打って変わって、それは攻勢だった。及び腰になったせつ菜に、だが彩歌は彼女に先んじてその背に腕を回す。左腕で小さな身体を引き寄せ、右手は夜空を思わせる黒髪を梳いて。あまりに唐突だったものだから、せつ菜の手は宙を搔いている。

 

 およそ先のそれとは比にならない距離である。太腿だけの密着など、児戯にも思える程に。抱き締められている。一拍を置いてその事実を理解し、顔に熱が集まっていくのが、せつ菜には鏡を見ずとも詳らかだ。

 

「さ、彩歌くん……!? いきなりすぎますよっ」

「ふふ、ごめんね。でも、誘ってきたのはそっちだろう? それに……俺もこうしたかったから」

 

 苦し紛れのせつ菜の抗議に、彩歌は何処吹く風といった様子である。しかし、彼女は知っている。知らぬ筈もない。何しろ今この距離にあっては、彩歌の心拍はせつ菜に筒抜けであるのだから。彼の鼓動が明らかに速くなっているのが、服越しに伝わってしまう。

 

 であれば余裕ぶった口調とは、彩歌なりの照れ隠しであるのだろうか。それに気づいたせつ菜は微笑をひとつ零し、虚空を彷徨わせていた腕を彼の背に回す。これでは彼の顔は見えないけれど、せつ菜には彼の表情が手に取るように分かった。

 

 真野彩歌は嘘が苦手だ。どれだけ時を重ねても、どれほど心を削っても、終ぞ嘘の吐き方だけは上手くならなかった。故に、せつ菜にはわかるのだ。今の彼はきっと耳まで赤くして、けれど幸福の表情をしている事が。彼女自身と同じように。

 

 そしてその確信とは、彩歌もまた同じく。抱き締めたせつ菜の、全てが愛おしい。決して大柄ではない彼の身体に収まってしまう小さな体躯も、筋肉と脂肪の均整が取れた柔らかな肢体も、汗の間から鼻腔を擽る甘い香りも、太陽のように屈託のない笑顔も、鈴の音を思わせる澄んだ声も。鼓動を重ね、時間と感情を共有する中川菜々/優木せつ菜、その悉くが。

 

「えへへっ」

「っ──」

 

 過ぎた言葉は要らない。せつ菜が悪戯に腕に込める力を増して、彩歌もそれに応える。それだけの単純な、だが言葉以上に雄弁な交感。そんな些細な遣り取りにさえ、彼の胸は平静ではいられない。

 

 少し前までは想像すらしていなかった、嘗ては望んでいた筈の幸福。それが、腕の中に在る。疑う余地のない現実だ。望外の利福だ。だから、思わず気持ちが溢れてしまうのも仕方のない事なのだろう。

 

「好きだよ、せつ菜」

「ひゃっ、いきなり耳元で言われるとびっくりしちゃいますよ……でも、へへ、私もです! なんて、改めて言うと照れちゃいますね」

 

 交わし合う愛の言葉。はにかむせつ菜の笑顔。その総てが大切で、幸せで、離したくなくて。──故に温かな胸の裡、一縷の冷酷が去来する。

 

 ──自分の可能性を信じるのはいい。若者の特権ですから。……しかし、可能性にはいつだって、犠牲が付いて回るものです。

 

 思い出されたのは担任の言葉。先日、進路調査の回答について呼び出された時、別れ際に言われた一言だった。大人の思惑が見え隠れしていた聴取の中、けれどそれだけは純粋に子供を思う教導者としてのそれ。覚えていたのは、きっとそれ故だ。

 

 犠牲。教師の言うそれが、何を指すのか。その疑念を棚上げするように、彩歌は腕に込めた力を少しだけ強くする。

 

(俺は……)

 

 優しくて甘やかな朝陽の中、どうしてその記憶が蘇ってきたのか。疑念の解はおろかそれを知る術さえ、夢見る少年の手には未だ、無い。

 


 

 大元こそ学生の部活動に過ぎないスクールアイドルであるが、今やその影響力は尋常な部活動のそれを超えた域にある。何しろ黎明期から廃校の危機にあった学校をたった一世代で立て直す程であるのだから、当時よりその存在が浸透した現代においては猶更だ。

 

 そしてそれは取りも直さずスクールアイドルに注目する人々の規模を示すものであり、今、かすみが食い入るように見ている()()もまた、そんな事情の中から自然と生まれたものであった。

 

 だがひとつ自然でない事を挙げるならば、それはかすみの表情だ。およそ穏やかとは言い難い、ぐぬぬとひどく悔しそうなそれ。そんな仕草でさえ〝可愛い〟の裡にあるのは、やはり彼女が中須かすみであるが故だ。小動物の威嚇めいた友の様子に笑みを零して、しずくが声をかける。

 

「どうしたの、かすみさん? そんなにしかめっ面してると、可愛い顔が台無しになっちゃうよ?」

「んなっ!? そんなコトないもん! かすみんはどんな表情(カオ)でもかわいーんだから! ほらっ!」

 

 からかうようなしずくの声に、直前のふくれっ面から一転してポーズを執ってみせるかすみ。無論、しずくはかすみを可愛くないなどと思った事は一度も無い。それでもからかってしまうのは、打てば響くようなかすみの応答が見たいが為でもあった。

 

 詰まる所それは、ある種の予定調和。しずくが期待した通りの反応も、彼女がそれを軽くあしらいながらもかすみの頭を撫でているのも。それは日常のひとつで、周囲が態々言及する事も無い。

 

「それで、何を見てたの?」

「あっ、そう、これ見てよしず子!」

 

 しずくの問いに思い出したようにかすみが広げてみせたのは、1冊の雑誌──しずくも知っている、スクールアイドル専門誌の最新号であった。つい先日発売されたもので、しずくも1冊持っている。

 

 故にしずくも一度は目を通していて、そのページにも見覚えがあった。

 

「これ……彩歌さんのインタビュー記事?」

 

 しずくの言の通り、かすみが掲げたページとは最新号に掲載された彩歌のインタビュー記事であった。前回のスクフェスが終わってから数日後に行われたもので、記者と彩歌の問答が写真付きで載っている。

 

 だが、それ自体に特殊な点がある訳ではない。何しろ、今月号の副題は〝スクフェス特別号〟。虹ヶ咲が主導したスクールアイドルフェスティバルの成功を受けて参加者に焦点を当てた内容となっているのだ。必然、インタビューは彩歌だけではなく全員が受けていた。

 

 故に彩歌の記事だけを見せられても意図が察せず、疑問符を浮かべるしずく。彼女の表情からそれを見て取ったのか、かすみがふむと声を洩らした。一目で理解されない事は織り込み済みであった応答だった。

 

「まず、これが彩歌先輩の記事ね」

「うん」

 

 細く長い指を以てかすみはページを繰る。見栄を切るのが得意ではない彩歌らしい自然体な写真と共に、問答の文字起こしや()()()()()()()()()()()()がおよそ4ページに渡って掲載されていた。

 

「で、こっちがかすみんの記事」

 

 そう言って大きくページを飛ばし、かすみは自らの記事を開く。載っている写真はそのどれもがかすみらしい、瞬間瞬間の”可愛い”を切り取ったものだ。それらの中に、インタビュー内容が3ページに渡って書かれている。

 

 そうして、一拍の間。雑誌を閉じ、かすみが短く息を吐く。

 

「彩歌先輩の方が1ページ多い!」

 

 なるほど、と。間隙は溜めだったとでも言うかのように全身で悔しさを表現するかすみを前にして、しずくが微笑を零す。彩歌の記事を見せてきたのは、詰まる所悔しさの発露だったのだ。

 

 以前より自分に正直になったとはいえ、しずくは元来所謂優等生気質である。そんな彼女であるから自らの気持ちを抑えてしまう事も多くて、故にこそ感情に素直なこの親友の存在は救いのようでもあった。

 

 よしよし、悔しかったね。そう言って頭を撫でながらも、しずくとてかすみと思いは同じ。しずくもまた、スクールアイドルなのだから。

 

 次いで聞こえたドアが開く音にかすみが身体を起こしたのを止めなかったのは、その共感のせいでもあった。

 

「──とゆーワケで、次は負けませんからねっ、彩歌先輩!」

「えっ、何いきなり。どうしたんだい?」

 

 大仰なポーズを以て指をさすかすみと、部室に入ってくるなりの宣告に戸惑う彩歌。彼と一緒に入ってきたせつ菜も困惑顔で、だが目が合ったしずくは不適に笑う。仲間でライバル。その思いを共有すればこそ。

 

 だが思いを同じくするのは彩歌とて同じ。自身に向けられたそれとは逆の手にかすみが雑誌を持っている事に気付いたのか、彼の表情が疑問から合点、そして形容しがたい苦笑に変遷する。

 

「あぁ……そういうコト」

「……?」

 

 今度はかすみが困惑する番であった。彩歌の声音は確かに好敵手を歓迎する好戦のそれで、けれど彼女には何処か諦念のそれにも聞こえたものだから。尤も、彩歌はその疑問に明確な解を返さないけれど。その諦念とは、彼の個人的な感傷に由来するものだから。

 

 せつ菜やかすみ、同好会の面々は彩歌を構成する要素総てを彼のものとして認めている。それはつまり、過去からの因縁すらも。だから純粋に悔しがる。()()()などと、露程も思わずに。

 

 彩歌の記事のページ数が多い。ある意味で、それは必然だ。彼の記事には、父についての内容が含まれているのだから。むしろそれが大半で、彼個人についての内容に限ればその分量は他のメンバーには及ばないのではなかろうか。

 

 活動期間が最も短いというのはあろう。けれど、負けている。それは事実。せつ菜にも、皆にも、陽彩にも。

 

 だからこそ、彩歌の答えは決まっていた。

 

「こっちこそ、次は負けないさ。誰にも……そう、誰にも」

「ふふん、簡単には勝たせませんよー? ……って、かすみんのセリフ取らないでくださいよー!」

 

 かすみの宣言への応答としては要領を得ない彩歌の言葉にも、あくまでも彼女は素直だ。胸を張って挑戦者(チャレンジャー)に答え、だがそれはそれとして宣言を真似された事にはツッコミを入れる。そんな彼女の前だから、彩歌は自身の感傷をありのままに呑み込めるのだ。

 

 しかし、そんな遣り取りに些か穏やかではいられない者がひとり。表情がコロコロと変わる後輩を見ていた最中に脇腹を(つつ)かれ、見ればそこには頬を膨らませたせつ菜。何かを言いたげだが、らしくもなく何も言わず彼を見ている。

 

(可愛すぎる……)

 

 強烈なトキメキと共に胸の底から去来した感動を抑え込んだのは、自律と克己の天才の面目躍如と言うべきか。嘘は苦手だけれど、真実を口にしないのは嘘にならない。彩歌の得意技であった。

 

 表情はあくまでも平静のまま、トキメキの洪水に晒される内心を落ち着けて。それから彩歌が口にしたのは、冷静と高揚の間から現れたそれであった。

 

「言っただろう? 誰にもって。かすみさんだけじゃない。俺は皆にも負けたくないんだ。勿論、キミにだってね」

 

 仲間でライバル。同好会の全員が共有するその信条は、無論最も新人である彩歌とて持っている。性別が違うだとか、ファン層が違うだとか、そんな事は些末に過ぎない。それを込みにして、それでも彼らはそう思っているのだ。

 

 惚気を排除して零れたそれもまた、偽らざる彩歌の本音。せつ菜もまた、それを知っている。そも彼女の前において、彩歌は嘘を吐かぬのだと、既に誓っているのだから。彼が宿す誠実は、反故を自らに許さない。

 

 そして、それがあまりにも真っ直ぐだったものだから思わずせつ菜は破顔してしまう。彼女の不満の原因は、決して彩歌が予想したものだけではなかったけれど、その誠実を向けられてはどうでもよくなってしまったのだ。

 

「ふふ、挑戦、ですね! でも、私だって簡単に負けるつもりはありませんから! にぶちん彩歌くん?」

「にぶ……?」

 

 どういう意味? と彩歌。だがせつ菜は悪戯に笑うだけで何も答えず、彼の隣を離れて侑の許に移動してしまう。 それでも疑問符を浮かべたままの彩歌に、かすみは呆れ顔だ。彼女にはせつ菜の言わんとするところが分かっているのだろう。分かっていないのは、彩歌ひとりだ。

 

「相変わらず仲良しさんだねぇ。彼方ちゃん、見てるだけでお腹いっぱいだよぉ」

「少し浮かれすぎな気もするけれどね……」

 

 衆目の前で戯れるせつ菜と彩歌に、そう言葉を交わすのは彼方と果林だ。微笑ましく見守る彼方とは対照的に果林は釘を刺すような物言いだが、それとは裏腹に口元には笑みが滲んでいる。

 

 せつ菜と彩歌の関係については、とうに同好会全員の知る所だ。知った上で、それを是認している。尤もこうして目前で惚気られてしまっては、苦笑してしまうのも致し方ない事であろうが。

 

 だがふたりの気が済むまで捨て置いてしまっては時間がいくらあっても足りなくなってしまう。故に侑が手を叩いたのは、ある種の区切りのためであった。会話が途切れ、視線が彼女に集中する。

 

「はい、一旦そこまで! ……かすみちゃん」

「了解です、侑先輩! 全員揃ってちょっと経っちゃいましたけど、これからPVの上映会始めますよー!」

 

 上映会。かすみが発したその言葉に、彩歌すらも居住まいを正す。しずくと璃奈が目を見合わせて頷き合うや、それぞれにモニタとPCを起動して操作を始めていた。何らかの準備をしているようであった。

 

 かすみの啖呵と彩歌の挑戦で遅れてはしまったけれど、元より今日はこのために部室に参集していたのだ。せつ菜と彩歌のみ来るのが後になってしまったのも、一方では準備のためでもあった。号令に弛緩した空気が一変したのも、同じ理由でもある。

 

 元よりある程度の準備はしていたのか、ふたりの作業は早かった。完了すると共にソファに戻り、かすみへと目配せをする。3人の意思疎通にそれ以上は要らず、リモコンを握ったかすみが頷きを返す。

 

「みなさん、心の準備はいいですねー? では、スタート!」

 

 ぽちっとな。号令に続くそんな間の抜けた吐息と同時にかすみがリモコンを操作し、モニタに光が灯る。

 

 ──続けてモニタに映ったそれは、謂わばファンタジーめいたそれ。内容については半ば荒廃した架空のお台場を舞台に、スーツを着用した同好会のメンバーがそれぞれの能力を駆使しながら襲い来る巨大な敵と戦うといったものだ。

 

 形容してしまえばそれだけの、何処かありふれたそれ。だが恐るべきはその完成度だ。衣装を完璧に着こなすメンバー達に、それを極限まで引き立てる画作り。そして、世界観に説得力を与える高いクオリティのCG。それらの合一として出力されるのは、最早ひとつの感性された異世界の域だ。

 

 なれば、その場にいる誰もが息をするのも忘れて見入ってしまったのは必然の事。作った者ら自身すら魅せるだけの力が、それ──〝第2回スクールアイドルフェスティバル告知PV〟にはあった。

 

 映像の長さ自体は、たった数分程度。けれど夢中になっていた者らにはひどく長く感じられて、モニタの静止と同時に大きく息を吐いた。

 

「すっ──ごい!! 流石は桜坂監督!」

「気に入ってもらえてよかったです!」

 

 再生終了から一拍を置いて興奮がやってきたのか大きな緑色の瞳を爛々と輝かせる侑と、そんな彼女の言葉に上機嫌なしずく。侑の言の通り、今回のPVは世界観の構成から画の構成に至るまで、全てしずくが主導したものだ。演劇部員としての研鑽の賜物と言えよう。

 

 だが、何もしずくたったひとりでPVを完成させた訳ではない。彼女は物語を作る事にかけては同好会内に右に出る者はいないが、それを実現するにあたっては他者の力を借りる必要があるのもまた事実だ。

 

「侑ちゃんと璃奈ちゃんも、編集お疲れ様。皆本当にすごい力を使ってるみたいで、彼方ちゃんびっくりしちゃったよぉ」

「『てれてれ』……」

 

 彼方からの純粋な賛辞に、手持ちのボードを照れ顔にする璃奈。これでは彼女自身の顔が隠れてしまうが、そのボードこそが彼女にとっては表情以上に本心(カオ)なのだと、全員が知っていた。

 

 今回のPVにおいてしずくの世界観が実現できたのは、璃奈の力による所が大きい。或いは璃奈の技術力があればこそ、しずくは安心して思い切った世界観を打ち出せたのだろうか。因果の順序は定かではないが、どちらであれ2人の信頼の結果がPVの完成と言えよう。

 

 だが決してふたりだけでは完成しなかったのもまた確かだ。何しろどちらも職人気質な所があって、放置してしまってはどこまでも拘ってしまうから。それ故の侑。今回、彼女の役割は殆ど調整者(プロデューサー)のそれに等しいと言っても良かろう。

 

「ふふん、スーツ姿でもやっぱりかすみんの可愛さは隠しきれませんねっ。いやでも、案外カッコ可愛い系も……そしたら更にファンも増えて……ぐっふっふ……」

「またやってる……でも、ファンの皆にも見てもらいたいのは、そうね」

「これで、すぐにネットで公開するの?」

 

 果林の言葉を受けての歩夢の問いに、答えたのは先刻まで皮算用に勤しんでいたかすみだ。

 

「お披露目のタイミングは、生徒会と交渉中です! ……彩歌先輩が」

「これでも一応、前実行委員のメンバーだからね。それくらいはするさ。まぁ……」

生徒会長(交渉相手)は、ここにいるんですけどね……」

 

 せつ菜が虹ヶ咲学園生徒会長たる中川菜々その人であるというのは、同好会外ではごく限られた人物しか知らない最重要機密(トップシークレット)だ。そのためせつ菜は菜々として、何食わぬ顔をして公然の場で交渉を行うことができる。

 

 だが事実を知る者からすれば、これはこの上ないマッチポンプである。同好会活動の日程調整を、同好会所属者と交渉しているのだから。嘘が苦手な彩歌には最も向かない任務と言っても良かろう。

 

 それでも、全ては同好会のため。今日せつ菜と彩歌が遅れてしまったのも、交渉の場が開かれていたためだった。

 

「現時点で東雲や藤黄以外からも参加申請が多く来てる。フェスの動画もまだまだ伸び続けてるし、その中でこのPVが投下されれば……」

「もっとたくさんの人が来てくれるね!」

「大盛況間違いなし! うーん、愛さん燃えてきたー!」

 

 殆ど同時に同義の応えを返し、顔を見合わせたのはエマと愛だ。照れたように笑いながらも、その瞳には比類ない熱量が内在している。

 

 何しろ第1回のスクフェスですら、ユメのような舞台だったのだ。ただスクールアイドルが合同でライブを行うに留まらない、スクールアイドルとファンが共に夢を叶える場所。それが前回よりも更に勢いを増して再び行われようとしているのだから、高揚の止む無しであろう。

 

 そしてその高揚とは、決してふたりだけのものではない。ここに集った者らは同じ目標(ビジョン)を共有するが故に、期待もまた等しく。言葉はなくともその瞳に宿った熱は何よりも雄弁で、それを見て取った侑が口を開いた。

 

「やる気満々だね、みんな! 前回よりももっとたくさんのスクールアイドルとファンが集まるお祭り……私もドキドキしちゃう!」

「侑先輩やファンの皆さんの期待に応えるためにも、今日も張り切って練習していきますよー!

 ──と、その前に……」

 

 かすみの檄に呼応して鬨を発しようとした彩歌らはしかし、檄を放った本人であるかすみが言葉を続かせた事でそのタイミングを逃してしまう。その前に、何なのか。疑問の視線などと何処吹く風といった調子で、かすみは何やら大きな保冷バッグを漁っている。

 

 そうして待つ事数秒。かすみが取り出したのは、いくつかのタッパーであった。それだけでは意図を察せず、だがかすみがそれらの蓋を開けるや否や各々の口から感嘆が洩れた。

 

「かすみん特性コッペパンで腹ごしらえですっ! 腹が減っては何とやら、ですからねっ!」

 

 諺の一部をぼやかしたのはおどけての事か、はたまた単純に忘れてしまっただけか。追及する者はいない。かすみの言わんとするところは皆が分かっていて、全員が同じ思いだったから。

 

 果たしてタッパーより現れたものとは、色とりどりのコッペパンであった。恐らく全てがかすみの手作りによると思しきそれらにはそれぞれにメンバーの好みに合わせた具材が挟まっていて、感嘆はそのため。各メンバーに対するかすみの深い理解の結果であった。

 

 故に選択に際しては揉め事のひとつもなく、頬張った皆の表情に笑顔の華が咲く。あまりにも呑気な、それでいて得難い光景。それを見回してから、彩歌もまた微笑む。

 

 皆それぞれが夢を追い、幸福に満ちる日々。どうかそんな日常が、いつまでも続きますように。何に語るでもなく内心でそう願い、彩歌もまた自分用のコッペパン──ハンバーグをメインに様々な野菜で彩られたそれ──にかぶりついた。

 

 

「────かっっっっら!!」

「にっひっひ。ひっかかりましたね、彩歌先輩♪」

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