群衆が騒めいている。万象を塗り潰すが如き幻想が砕け、世界が本来あるべき形を取り戻してもなお。先程まで足をその場に留めていた見えざる力は既に無く、けれど聴衆ならざる人々は未だ笑顔で記憶の楽園の話に花を咲かせている。ここが何ら変哲の無い商業施設の広場である事を鑑みれば、それは異様な光景と言えよう。
だが今日に限っては、それは致し方ない事でもある。何しろ先刻まで、この広場は文字通りの異界だったのだから。
虹ヶ咲学園に所属するスクールアイドル〝真野彩歌〟による、事前告知なしのゲリラライブ。異界の正体を言葉にするのなら、それだけだ。無論ゲリラであるから観衆も知らず、その点で言えばそれは災害と何ら変わりない。
けれど、結果はこれだ。突如現れ全てを巻き込んだ幻想に、人々は魅せられた。それまでは知りもしなかった光に、一瞬で心の席を明け渡した。その顔に笑顔を浮かべ、口々にその話ばかりをしている。──ただひとり、今もまだ足を止めたままの少年を除いて。
事前告知のないライブだったから、彼がここにいたのはただの偶然だ。或いは因果、ともすれば運命か。大袈裟めいているが、少なくとも彼はそれに近しいものを感じているのは確かだ。
そう、運命。運命だ。少年と彩歌が巡り逢うのは、運命だった。これはただ、それが少々前倒しになっただけの事。端正な容貌に浮かぶ薄い笑みは、その確信によるものだ。
衆愚は未だ虚構の光輝に夢中で、ステージを見つめる少年の眼光に気付かない。目深に被られたフードの下より覗く、深海めいて粘性なその瞳に。故にその声もまた喧噪の裡で、しかしそれを了解したうえでもなお、彼は言葉を零した。
「その“席”は、僕のものですよ。真野彩歌さん」
「で、何でゲリラライブだったんだ?」
同好会の紹介PVが一旦の完成を見て、第2回のスクフェス計画が動き出してから数日後。彩歌がそんな問いを受けたのはライブでのステージを終え、自身にあてがわれた楽屋で休んでいた時の事であった。
唐突な質問だ。だが彩歌が即答できなかったのはあまりに出し抜けであったからではなく、ひとえにライブの疲労と充足が綯い交ぜになった酩酊によるものだった。茫洋とした孔雀青の瞳がゆっくりと巡り、質問者──彼の親友たる〝宗谷大雅〟を捉える。
大雅の質問は尤もだ。スクールアイドルがライブを行うのは当然の事だが、何もゲリラである必要はない。それも同好会の仲間にすら知らせず、外部の人間である大雅
言葉はない。表情も半ば無のそれで、けれど大雅はその中に確かな情動を見る。余人には不足極まるとも、彼にとっては目を合わせるだけで十分だから。それだけの理解が彼らの間にはあった。
故に答えを急かさず、ただ待つ。そんな静寂のまま幾許か、徐に彩歌が動いた。背もたれに預けていた身体を起こし、大雅の方に向き直る。悪戯を咎められた悪童のような、或いは秘め事を暴かれた悪童のような、そんな笑みであった。
「2回目のスクフェスに向けて頑張ってる皆を見ていたら、俺もいてもたってもいられなくなってね。それに……」
言葉を区切り、吐息をひとつ。その先を、大雅は急かさない。ここまで語りながら続きを秘するような無粋を彩歌は犯さないと、彼は知っているのだ。それは信頼の顕れであった。
スクフェスを前に気が逸っているから。それも嘘ではなかろうが、ゲリラライブを行う理由とするには些か不適だろう。あえて隠す理由がないのだから。
そうして、そのまま数拍。大仰な覚悟は要らず、故にその空白とは彩歌の裡で言葉を纏めるための時間であった。
「やってみたかったんだ。父さんも同好会も関係なく、俺だけの力で……ライブをしてみたかった」
「……なるほどな」
そんなコトだろうと思ったぜ、と大雅。呆れのような、得心のような、そんな表情であった。それを見れば彼が彩歌の心情をおおよそ察していたのは想像に難くはなく、彩歌は苦笑するばかりだ。
まさに暗愚の駄々と言う他ない回答である。人は独りでは生きられない。それは取りも直さず人は己が属する
だが彩歌とて、そんな事は承知の上だ。それを大雅は確信していた。承知の上で、それでも楽しい
「ま、オレらが手伝ってる時点で独りの力かって言うと、だいぶ怪しいけどな」
「ぐっ……まぁ、それはそうなんだけどさ。……ごめんね、無理言って」
「気にすんな。最後まで付き合ってやるって言っただろ。それと、だ。こういう時はごめんじゃなくてありがとうだぜ、彩歌」
どこのバッタ怪人だ、と苦笑の彩歌。しかし、道理だ。言ってしまった事は戻らないが、重ねる事はできる。故に次にしたのは謝罪ではなく感謝の言葉で、それを受けた大雅が満足気に笑む。
だが、満足であればこそ。少しの不満が気になってしまう。人を暗愚だと評しておきながらそんな思いを抱いてしまう己を嗤いつつも、大雅はそれを吐き出した。
「……けどよ。共犯はオレだけどもよかっただろ。なんでアイツまで──」
「──愚問だな」
唐突な声。大雅の問いを途中で遮り、しかし明確に切って捨てる断固とした声音であった。氷を思わせる怜悧さを宿すそれを耳にして、大雅の顔が歪む。うげっ、とでも言いたげな表情であった。
そんな穏やかならざる視線を受けて、だが足取りは悠然と。ノックもなしに扉を開け放ち、ひとりの人影が楽屋に入ってくる。たなびく銀髪はまるで雪景色を形にしたかの如く流麗であり、青い瞳は晴れ空のよう。体躯は彩歌や大雅よりもかなり小さく、上背は150㎝程。華奢な体型と線の細い容貌も相俟って、その姿はどこか人形のようだ。
しかし、誰が気づけようか。見目だけならばスクールアイドル同好会の面々にも引けを取らないその人物が、着用している虹ヶ咲の男子用制服が示す通り身も心もれっきとした男性であるなどとは。
虹ヶ咲学園ライフデザイン学科2年生にして、服飾同好会の
「わたしは真野のスポンサーだぞ。なら、クライアントの動向を把握する義務がある。そんなコトも分からないのか?
それともなんだ、きみは真野が関わると馬鹿になるのか?」
「オマエはいつも、一言以上余計なんだよ諫早ぁ……」
「おっと、図星だったか。悪いコトをしたな」
猛犬の威嚇を思わせる大雅の威圧にも、織絹は何処吹く風。それどころか更に煽っていく始末で、彩歌は半ば放置状態だ。視線だけで火花を飛ばし合うふたりの横で、苦笑いをしている。
およそ穏やかならざる、剣呑な気配。これが大雅と織絹の常であった。馬が合わないのか、或いは他の要因か。顔を合わせる度に小競り合いをして、けれど決して喧嘩には発展しない。何を線引きとしているかは、彩歌にも不明だ。
大雅の相手もそこそこに、彩歌へと向き直る織絹。そうして彩歌の鳩尾辺りに目線を遣り、呟く。
「それに、これはわたしの仕事だ。責任は自分で持ちたい。宗谷、いかにきみが万能でもな」
変わらぬ冷厳な声音に、しかし微かに熱を宿す声色。ならば深い蒼の瞳に燻る輝きは、さながら蒼炎のそれ。その意味する所を知らぬ大雅ではなく、鼻を鳴らしながらも反駁はしない。織絹のそれもまた、大雅が尊く思うものには違いないのだから。
詰まる所、それは矜持だ。顧客の頼みを聞き入れ、応える職人としての。ならばそこに、どうして余人が立ち入れようか。できる筈もない。
それに、餅は餅屋である。彩歌がライブをするのなら、織絹の存在は不可欠だ。彼は服飾同好会の
「で、どうだった、真野? この
「すごくよかったよ。軽くて動きやすいし、籠らないし。流石は織絹くんだ」
「フン、当然だな。練習ならともかく、本番でクライアントに不都合を起こす事があってはならない。まぁ、ぶっつけ本番と聞いた時はわたしも驚いたが。
ともあれ、だ。……よく頑張ったな」
労いの言葉を述べる織絹の頭上で、しかし当の彩歌は微妙な表情だ。一見すれば失礼この上ない応答だが、致し方ない事ではあろう。織絹の労いとは彩歌ではなく、彼が身に着けている衣装へと向けられたものだから。彩歌としては不満はなくとも、変にむず痒くなってしまう。
「さて、そろそろ撤収だな。ライブが終わった以上、長居は無用だろう」
「なんでオマエが仕切ってんだよ」
「まぁまぁ……」
当たり前のように音頭を取り始めた織絹に大雅は憎まれ口を叩くが、織絹がそれを気にする素振りはない。そもそも反抗的ではありつつも大雅もまた帰り支度を始めているのだから、織絹としては無視で良いという事なのだろう。
ふたりに追随するように彩歌もまた衣装から制服に着替え、脱いだ衣装を織絹が半ばひったくる勢いで回収していく。そうして織絹が衣装の後始末をしている間、彩歌と大雅は部屋の片づけだ。全ての行程を終えれば、残るは協力してくれたスタッフたちへの礼を告げて立ち去るのみ。無論、全員に対してだ。
少なくない時間をかけてそれを済ませ、一拍。会話の間隙に口を開いたのは織絹であった。
「ひとつ、言い忘れていた。……真野」
「ん。どうしたの、改まって?」
「スタッフから散々言われて飽きている頃だろうが……悪くないライブだった。果林様ほどではないがな」
それは果たして、どこまでが本心であるのか。あまりに唐突な事だったものだから、彩歌は間抜け面を晒してしまう。隣にいる大雅も同様だ。だが当の織絹はそんなふたりの様子が不思議なようで眉根を寄せている。
だがその顔を見れば織絹の言葉が世辞などではないのは明白だ。それを理解して彩歌は大雅と目を見合わせ、短く吹き出した。
「ありがとう、織絹くん。……でも、そこは世辞でも一番って言う所じゃないかい?」
「馬鹿を言うな。推しが一番に決まっているだろ」
「ふふ、違いないね」
嘗ての彩歌にとって、それは一種の懺悔も同然の行為であった。母に守られて生き永らえた己が生命という罪を悔い、そして生かされた総てを自らの価値を証明するためだけに費やす。そのために不要な悉くを捨て去るための、再定義の行程。事故に遭い、母に庇われて辛うじて生存してから4年余り、彼にとってピアノとはそれだけのものだったのだ。
詰まる所、それは自刃に等しい。無論、身体を傷つけるのではない。意味的、或いは実存的なそれだ。本来の己を只管に殺し続け、その血と涙を以て虚像の自画を描く。その虚像が本物になるまで。そんな時など、永久に来る筈もないというのに。
だが、そんな道程を積み重ね、そして自らに内在する愛憎の悉くを受け容れたからこそ。今の彩歌にとって、それはまさに魂の解放だ。身体と精神に宿す熱量を十指に込め、無彩の舞台を通して音色として放つ。
嗚呼。この躍動の、何と甘美な事か!
故にその時間を味わい尽くして、それにあまりにも夢中になっていたものだから、彩歌は気付かなかった。十指が恭しく鍵盤を離れ、音色の残滓が蒼天に溶けて消えるまで。空白となった音楽室を音色に代わって万雷の拍手が満たした。独りで演奏を始めていた筈が、知らぬ間に観客が群がっていたらしい。
「いつの間に……ふふ、見つかってしまったね。ヒミツの特訓のつもりが、リサイタルになっていたようだ」
今回のように音楽室のピアノを使って練習を行うというのは、今までも何度かしてきた事だ。だが群衆ができる程に人が集まるというのは初めての事で、彩歌も面喰らってしまう。
けれどいつまでも驚いてもいられない。即座に切り替えた彩歌が笑顔を振り撒けば、群衆の一部から黄色い声が上がった。ダメ元での対応だったというのに良い反応が返ってきたものだから、思わずおぉ、と漏らしてしまう。
しかし、元が見切り発車だ。アドリブ力に自信のない彩歌ではすぐに次手を講じる事ができず、笑顔の下に焦燥を隠す。群衆に対処しなければ次の行動もできないが、さりとて彼の演奏で笑顔になっている彼らを無下にする訳にもいかないのだから、正しく八方塞がりだ。
そんな状況であったものだから、次いで聞こえた声は彩歌にはまるで福音のようでもあった。
「ちょっと、何の騒ぎですか、これは!?」
喧噪の只中にあって一分の曇りも混じらぬ凛然とした、それでいて何処か素っ頓狂な声であった。故に観衆はそちらに注意を遣り、彩歌はその面貌に喜悦を滲ませる。その姿を見るまでも無く、彼には闖入者の正体が分かったのだ。
やがて誰に促されるでもなく人の海が割れ、その奥より人影が歩み出る。果たして、その正体とは虹ヶ咲学園の生徒会長である菜々だ。彼女も騒ぎの中心にいる人物に気付いていたと見えて、彩歌の姿を認めるや納得のような、或いは呆れのような表情を覗かせる。
「……やはり貴方でしたか、
「えへへ、ごめんよ、
あくまでも生徒会長としての対応をする菜々に、自身もまた即応する彩歌。だが調子はいつもの彼のまま。呆れ顔の菜々を前にして、はにかむように後ろ髪を掻く。ちらと菜々が黒板に視線を遣れば、そこには音楽室の使用許可証があった。彼の言葉が嘘ではないのは疑いようもない。──そも、彼が菜々に嘘を吐く事は無い。
だがあくまでも生徒会長と一生徒でしかない時にまでそれを貫く所に菜々は彩歌の律儀さを見て、思わず口の端を綻ばせる。刹那、これまで沈黙を保っていた人々が俄かに何かを話し始める。会話の間隙だったものだから菜々もそれに気づいて、そちらを振り向いた。
「……? どうされました?」
「んーん。別にー?」
菜々の疑問に、群衆を代表してひとりの女子生徒が答える。けれど、何が“別に”だというのか。そもそも何もないというのなら出てこない回答だ。生徒らが何か隠しているのは明白だった。
しかし、菜々は追及しない。追及するまでもなく、彼らが真実を口にしない事が確信できたから。悪意によるものではない。けれど揃いも揃って何か神聖不可侵にして微笑ましい物を見守っているような目をされては気味が悪くて追及する気もなくなるというものだ。
オホン、と咳払いをひとつ。それだけで弛緩した空気が引き締まるのは、厳格な生徒会長の面目躍如といった所だろうか。
「騒ぎの大きさはさておき、ライブという名目でなかったのなら反省文までは求めません。ですが、今後は注意してくださいね?
それと、真野くんには別件で話があったんです。ついてきてもらえますか?」
「え……分かった。でも何だろう。
みんな、ごめんね。リサイタルはこれでお開きだ。次はちゃんとしたライブで会おう!」
なし崩し的なものであったとしても、幕引きはしっかりと。彩歌の宣言に、再び歓声が上がる。その様はさながら、花道を往くが如く。群衆がふたつに割れ、その間を菜々と彩歌が抜けていく。
不思議な感覚だ、と。人々の間を歩きながら、彩歌が内心で独り言ちる。これまでの彼の生涯において、ステージ裏とは孤独と共に在ったものだったから。静的な熱に満ち、己と向き合う場だ。
それが今、皆と共に在る。あまりにも毛色が違うけれど、これもまた悪くないと彩歌は思うのだ。誰かを支えて、誰かに支えられて。それは彼が思う命の在り方、その具現でもあるのだから。
けれど、ステージとは一時の夢幻にも等しいが故に。“熱”が拡散する定めにあるように、舞台は遠く離れていく。そうして周囲から殆ど生徒の姿が消えた頃、ふたりが同時に大きく息を吐いた。偶然か、或いは何かに誘われてか。短く笑い合って、彩歌が役を脱ぐ。
「ありがとう。助かったよ、菜々。練習してたら、いつの間にか皆集まってきちゃってさ……」
「ふふ、貴方らしいですね。ピアノに夢中で気づかないなんて。それだけの“熱”を注げる貴方だから、皆も夢中になるんですね。
……でも、少し不用心過ぎですよ。彩歌くんはもう、スクールアイドルなんですから」
「……うん、そうだね。分かってたつもりでも、甘かったみたいだ」
あくまでも“菜々”として告げたその言葉は、しかし紛れも無く彼女の経験から来るものなのだろう。“せつ菜”では熱に浮かされるまま感想ばかりを語っていただろうから。代わって菜々として伝えたのだ。その意味が分からない彩歌でなく、素直にそれを聞き入れた。
既にその身はスクールアイドルであると、彩歌とて承知しているつもりだった。けれど承知していたとて委細を理解できる訳もない。人間はそこまで便利にはできていない。経験しながら学んでいくしかないのだ。
「結構お気に入りの場所だったんだけどなぁ。音楽室は、キミと出会った場所でもあるから」
別な学校のだけどね、と彩歌。この音楽室は彼と菜々が出会った小学校の音楽室ではないけれど、それでも音楽室なのだ。彼にとっては思い出の場所にも等しい。
菜々だけではない。友にして恩人でもある侑とも、彩歌は音楽室で多くの言葉を交わした。今の彼を形作るものの多くは、そこで得たと言っても過言ではない。そこを気軽に使えなくなってしまうのは、寂しさを覚えてしまうのも仕方ないというものだ。
そうして少しいじけたようにも見える彩歌が菜々には可愛く思えて、けれど自身はあくまでも“菜々”であると思い直す。恋人への対応もそれ相応に。統制から外れて零れてしまう感情があるとも自覚はしているけれど。
「使うな、というのではありません。これまで通りとはいかないだけです。……私にとっても、あの日々は思い出なんですから」
「菜々……うん、そうだね。少し俺なりに考えてみるよ。スクールアイドルになった、新しい“俺”なりのやり方をさ。……ありがとう、菜々」
「例には及びません。先輩スクールアイドルとして、少しご教授を……と思っただけですから、ふふ」
全てが以前と同じとはいかない。
そうして、彩歌は己が幸福を再び実感する。自身はこんなにも尊敬できる相手と、共に歩んでゆけるのだと。同時に決意もまた一入だ。中川菜々。この少女の隣に相応しい人間に、きっとならなければならない。誰に課された訳でもない、それは自らに下した
尤も、それを口にする事は無い。代わりに零したのは、先の続き。
「ところで、菜々。話っていうのは? キミのことだ、きっと出任せってワケじゃないんだろう?」
「勿論です。スクフェスのPVについて、少し進展がありまして。今後のオープンキャンパスで上映の枠をいただける事になったんです!」
「えっ、本当かい!? やったぁ! ありがとう、菜々!」
オープンキャンパス。数週間後に予定されているそれには、例年多くの人が集まる。その中で上映できれば、間違いなく十分な人の目に触れるだろう。だがそもそも部活の数が多い虹ヶ咲では枠の確保自体が難しくて、その枠のひとつを同好会が得た。彩歌の喜びも当然というものだろう。
それがあまりにも甚だしかったものだから彩歌は思わず菜々に抱き着いてしまって、バランスを崩しかけた。菜々の体幹が尋常なそれであったのなら、きっと彼は菜々を押し倒してしまっていただろう。
「きゃっ!? も、もう! いきなり抱き着かないでください!」
「あっ、ごめん! 嬉しくて、つい……えへへ……」
「まったく……それと、枠を確保できたのはかすみさんのくじの結果です。私は承認の印を押しただけですから、お礼はかすみさんに言ってくださいね」
「はぁい……」
単純に反省してか、はたまた菜々に注意されたという事実も相俟ってかわかりやすく肩を落とす彩歌。所作からしてあまりに素直なものだからいっそ余人が見れば演技を疑ってしまいそうな程だが、菜々は彼はそんな芸当ができる程に器用でない事を知っていた。
だが、これは菜々もあまり見たことが無い姿だ。彼女の前で、彩歌はずっと真面目で素直であるか自罰主義の大嘘吐きであったから。ここまで大きく感情を露わにする一面を、彼女は知らなかった。
故に、今まで抱いた事が無い印象を覚えたのはきっと自然な事だ。自分よりずっと大柄な筈の相手に、菜々が微笑を零す。
「ふふっ、喜びで思わず抱き着いてくるなんて、ワンちゃんですか、貴方は?」
「ワンちゃん……? 俺が?」
そんなことを言われるとは全く想像していなかったのだろう、虚を衝かれたかのような面持で問いを返す彩歌。ワンちゃん。犬。誰に言うでもなくそんな言葉を繰り返すも、やはり自覚はないようだ。
けれど分からなくとも菜々がそう思ったという事は、そういう見方もできたという事。彩歌はそう己を納得させる。そうして立ち消えた疑問の奥より現れたのは、些細な悪戯心だ。
「言うに事欠いて人を犬とは、ご挨拶だね。れっきとした人間だよ、俺は? まぁ、でも──」
跪く。行動は迅速かつ正確に。菜々が意図に気付くより早く、彩歌が彼女の手を取った。唇はさながらその手背に口づけを落とさんばかりだ。そんな位置から、少女を見上げている。
「──キミの飼い犬になるなら、悪くないかもね。ホラ、いっそ首輪でもつけさせてみるかい?」
「なっ……!?」
ともすれば、いっそ煽情的とさえ形容できるそれ。物欲しげな青い瞳が、上目遣いで菜々を見ている。であれば跪拝とは正しく恭順の意であったか。不意打ちでそんなものを受けたのだから、菜々が言葉を詰まらせたのも当然と言えよう。
そしてそんな菜々の様子を膝下より見上げ、彩歌は満足気に笑む。その場の思い付きでしかなかったが、どうやらこれは期待通りの効果を発揮したらしい。耳まで赤くなっている彼女の顔が、その証左だ。
それを認め、彩歌が礼を解く。菜々が何かを言うよりも先に。だから、気が付かない。彼が傅くのを止めて立ち上がったその瞬間だけ、菜々がどこか残念そうな表情を見せたことを。全く目を離してしまっていたからだ。
「何を言ってるんですかっ!? 破廉恥ですよっ!?」
「ふふふ、ごめんごめん。でもほら、今の、アイドルっぽかっただろう?」
「知りませんっ! 着替えてきますから、先に行っててください!」
話をしながら歩いているうち、いつの間にか空き教室──菜々がせつ菜への“変身”にいつも使っているそれ──まで来ていたらしい。赤い顔のまま菜々がそこに飛び込み、後ろ手で強めに扉を閉めてしまう。だがそんな様子でありながら律儀に先に行くよう告げておくのは、彼女の生真面目さの顕れであろう。
恥ずかしがっている表情も可愛すぎる。独り残された廊下で先の応答を反芻し、彩歌はそう結論する。それがあまりに浮かれた感想なのは自覚しているけれど、可愛いものは可愛いのだから仕方ない。それは開き直りであった。
だが、いつまでも浸ってはいられない。菜々に言われた通り、独りで部室へと彩歌は向かう。先刻まで“菜々”と共にいた彩歌が間を置かず“せつ菜”と一緒にいては、二者に連続性が生まれてしまうからだ。
廊下に反響するひとり分の足音。遠くから聞こえてくる、部活に勤しむ生徒たちの声。少し前までは常に彩歌と共に在った筈のそれは、久方ぶりに味わうと何処か物寂しくて。遠くに柔らかな栗色の髪を認めた時、彼が感じたのはある種の安心でもあった。
しかしそれはすぐに、言い知れぬ胸騒ぎに取って代わられる。かすみの大きな朱い瞳、その輝きの裡に焦燥めいた気配を見たからだ。
「かすみさん、どうし──」
「やっと来た! 彩歌先輩! 大変なんですよー!」
大変なのだと、それだけを言われても何が分かる筈もない。しかしかすみは彩歌の返事もそこそこにその手を掴むや否や、足早に彼を部室の中に連れて行ってしまう。そんな有様であったから、彩歌は困惑するばかりだ。菜々以外の女子と手を繋ぐ形になっている事も気にならない程に。
そうして連れ込まれた部室の裡、先に来ていたのは侑としずく、璃奈の3人だ。どうやらPVの編集をするために早く来ていたようで、PCの前には璃奈が座っている。
しかし彩歌の存在に気付くと璃奈は何も言わず席を立ち、代わりにかすみが彩歌をその位置に押し込む。どうやらかすみの言う“大変”の根源は既にいるメンバー全員の知る所であるらしかった。
「これ見てくださいこれ! はりーあっぷ!」
「何なのさいったい……どれどれ……?」
かすみが指し示したその先、起動していたのはメールビューアー。同好会が外部との連絡用に運用しているアカウントでログインされたそれで、一通のメールが表示されていた。
だがただメールが来ている事の、何がそこまで大事であるのか。疑問が解消されぬままに彩歌は半ば機械的に件名に目を通し───次第に、困惑はより大きな困惑に呑まれていった。
「『第1回スクールアイドルボーイズコレクションへのご招待』……これ、俺宛に……?」
──スクールアイドルボーイズコレクション。略称SBC。名も知らぬ大会への招待を告げる、1通のメール。あまりに唐突だったものだから喜びよりも驚愕が勝って、故に少年は未だ何も知らない。
因果は巡る。過去は消えない。光在る所、影もまた必ず在る。故に────運命は決して、彼を逃がさない。