ひらりと黒い着物を揺らしながら歩く初老の男性に着いていく。建物の中も全て木材が使われており、そして大切に使われているのが見てとれた。しんと静まり返るその建物は何十年、は少なくとも経っているだろう。通された部屋は畳敷でふわりと柔らかな草の匂いがした。
木製の机はひとつの大きな木を切り出した物で、大きさからしてかなりの樹齢のもののようだ。
座るよう促されて、ふわふわの座布団に正座する。……正座して隣り合うと、鬼鮫の体の大きさが際立つ。
「なしてまたアイヌの若おのが、こったら、おどげでねぇ、へっぴな場所さ来たんだば?」
「本土の信仰に関心があります。アイヌは自然全てに神が宿ると考えますが、本土ではどうなのか、と。」
何を言っているのか詳しくはわからないが、なぜここに来たのか、というニュアンスが含まれていると見て返事をする。その読みは当たっていたらしい。
「ほう、そいがために、わざわざ来たんだが? だば、詳しぐ教でやるべが。どせ、客こなど来ねぇもんだ。 」
この寺の住職、と名乗った初老の男性は饒舌に話し始めた。この難解な言葉をどうにか聞き取り整理するとこうだった。
日本人のほとんどは仏教と神道を信仰しているが熱心な信者は少数、そして少数だがキリスト教を信仰している人もいる。九州という南の地に多いらしい。ただ仏教や神道において特定の神を信仰している、というよりは神にも色々あり、この寺は仏教の教えを説いていて阿弥陀如来という神を祀っているという。そして特筆すべきは、本土にも万物に神が宿るという考えがあるということ。付喪神と呼ばれる「物体」に宿る神から、日本を作ったという太陽の神まで。仏教という宗教を信仰しながら、それ以外の神も神道の中で同じく信仰している。
アイヌが信仰するのは基本的に自然にある物、だが本土では人工物にすら神が宿るというのは驚いた。その理屈で言えば今この手元にある湯呑みにも神が宿っていることになる。じっと湯呑みを見つめていると、その裏側からひょこっと老人のような容姿のコロポックルに似た者が顔を出した。
「珍しや、珍しや……こんな儂に興味を持つとは珍しや……。」
そしてまた湯呑みの裏に隠れてしまった。
思わず持ち上げてしげしげと見つめるがその姿はもう見えない。……気まぐれに姿を見せただけ、だったのだろうか?
ともかく万物に神が宿る、というのは事実のようだ。
では今座っている座布団にも、この机にも、扉にも、天井にも?
見回していると初老の住職は面白そうに笑った。
「信仰だば面白れぇべな。仏さんの教一つとっても、うだでぐ奥深いもんだ。神様以外にも、物怪、化げ物、鬼……色々な、人でねぇものが棲んでるのが、ここ、日本だ。 」
海を知ったとき、その広大さに驚いた。しかし本土の信仰について知り、別の意味でその広大さに驚く。幅広い神以外にも人でないものが棲む、それが日本の本土……信仰は薄いとは言うが、もしかしたら人間の数よりもそうでない者の方が多く棲むかもしれない。神の国と呼んでも遜色ない。……俺たちはとんでもない場所に足を踏み込んでいるのではないか。
その神の国から神を奪おうとしている白服達は、この国そのものを蹂躙しているに等しい。
「……この近くに、何か神や鬼などの信仰が深い場所はありますか。人々がどのように祀っているのかを実際に見たいんです。」
「はっはっは! んだな! 鬼の話だば、この津軽の山々の数ほどあっからな。どこから教でいいんだが、俺も迷っちまうわ。岩木山の守り神の話が良いか? それとも、村を荒らした化け物の呪いの話が良いか? どごから聞きたいんだ?」
鬼、でも人ならざるものだ。しかし、山の数ほど鬼の話がある、となると……絞るのが難しい。白服が狙いそうな鬼……特殊な力を持つ者……。
「鬼、とは、何か特殊な能力を持っていますか。もしくは、特殊な能力を持つ鬼の話はありますか。」
笑っていた住職が、すっと真面目な顔つきになり、机に腕を置いて身を乗り出す。
「……太平洋側の鬼は『海と風を食う鬼』だと言われてら。南部の海岸沿い、霧が深い日にな。海の底から、黒い影みてぇなものが出てきて、荒れる波を自在に操る鬼が現れるっていう伝説があんだ。こいつは、『記憶を霧に変える力』を持ってると言われてる。海で迷った船乗りが、こいつの姿を見ると、自分の故郷への道も、自分の名前すらも霧の向こうに消えてしまうんだとよ。だから、あっちの方の古い漁師は、海で霧が出ると、絶対に沖の方を向いて名前を呼ばねぇし、誰かが呼んでも返事をすんなって言う。」
霧自体は鬼鮫にも他の海のカムイにもある能力だが、記憶を霧に変えて消してしまう……それは、……狙う可能性が、高そうだ。
「……鬼鮫。」
「お任せを。」
「海で霧、は危険なわけですね。心得ておきます。他にも危険な存在は?」
水に引き込む怪異、朽ちた船の怪異、他にも色々な話を聞いたが、白服が狙いそうなものではなかった。
それにしても、この住職が物知りなのか、それとも神の国だからなのか、この場所だけでもこんなに人でない者の情報を得られるとは思ってもみなかった。
この先南下して行くことになるが、同じようにこれほどの情報が出てきては何を白服が狙うのか特定が難しい。今回の鬼は海の中に棲む者のようだ。前回のように濃霧で白服の船を閉じ込めたとしても、そこがその鬼の領域と重なっていればその鬼は自らの力で撃退しようとするかもしれない。だが恐らくそれでは奴らの思う壺だ。濃霧で守るどころか逆に呼び寄せてしまう可能性があるならば同じ手を使うわけにはいかない。
鬼鮫がどうにかして海の情報網でその者と接触し説き伏せることができればいいが……人間が神の力を無効化するなど、荒唐無稽な話だと捉えられかねない。
……情報網。これだけ神や人でない者が多いのであれば、独自の情報網を持ってはいないだろうか。それがあるのであれば、警告するように呼びかけるのが有効かもしれない。ただ、俺たちの言葉を本土の者が聞いてくれるだろうか。
……鬼鮫の海の情報網、まずはここからだ。奴等は海から来る。海の者に警笛を鳴らすのは有効なはずだ。
「色々なお話、大変興味深く聞かせて頂きました。ありがとうございます。本土には様々な伝承があるんですね。」
「そりゃあ日本の人間だば、なんでも受け入れる器を持ってら。神様も仏様も、こまけぇこど言わねぇで両方拝む。その土地土地に伝わってら言い伝えも、大事に抱え込んで生きてきた。そりゃ、この国が山と海に囲まれてらからだ。大陸みてぇに、他国と明日の命を削り合うような争いは少ねぇばって、代わりに、この『自然』そのものが怖ろしい脅威でもあり、生きるためのかけがえのねぇ恵みでもあるからな。アイヌの連中だって同じだべ。山や川を神と見て、畏れ敬って生ぎてる。人間なんてのは、自然という巨大なものの上で、ただ息をさせてもらってるだけのちっぽけな存在……そう思えば、異なる神様だって、異なる伝承だって、喧嘩せずに隣同士で置いておくのが一番なんだべな。」
自然という巨大なものの上で、息をさせてもらっているだけのちっぽけな存在……。
人間は……もっと自らの技術力や文明にあぐらを描いているものかと勝手な想像をしていた。しかしこの住職の言葉はアイヌの考えに通づる。海を隔ててはいるが、本質的な考え方はアイヌと同じだ。
「もっとお話を聞きたいのは山々ですが、次の宿も決まっていないのでそろそろ失礼します。ありがとうございました。」
頭を下げて、草の香りがする部屋を出る。板敷の廊下は足がひやりとするがどこか温かい。自然と同居し、自然の上に間借りして住む……この場所は信仰の地だからか、その考えが建物にも色濃く現れているように思えた。
玄関の外に出て、また頭を下げた。
「気つけて行げよ、アイヌの神の小や。」
降ってきた言葉に顔を上げる。手を合わせて、頭を下げていた。手を合わせる……食事をいただくときの動作。でもこれは……違う。信仰の証としての。
この人はいつから俺たちのことを……?
「……あなたにカムイの加護が在らんことを。」
丸い石が敷き詰められた中を歩く。この石が丸いのも何かの意味があるのだろう。古い、しかし立派な門を潜りその前に続く石の階段を降りて行く。
「……イタチさん。」
後ろを歩く鬼鮫に呼び止められ、振り返った。そこにはあの立派な木製の門がなくなっている。代わりにあったのは、朽ちて崩れた門の残骸のようなもの。
息を呑んだ。
今俺たちが潜った門は? 上がっていたあの建物は?
あの顎に髭を蓄えた住職は?
「どうやら、私たちは既に……この地の加護を受けていたようですね。」
それは、かつてこの地に存在した者達だったのだろうか。それとも人でないものが気まぐれに見せた幻だったのだろうか。
どちらにしても、あの住職は俺たちに道標を示してくれた。
「……行くぞ。……この地の神を守らねばならない。」
階段を足早に駆け降りて、海の方へ向かう。道はあれど、アスファルトの隙間からは草が生え、周囲に人の気配はない。ここに来た時、この道はこんな光景だっただろうか。生い茂る草に囲まれた道を進むと眼下に広がる海が見えてくる。
住職が海の怪異を多く語った理由がわかった気がした。複雑に入り組む崖に叩きつける波の音。この海は恵の海ではない、厳しさを知らしめる海だ。
「イタチさん、荷物をお願いします。ちょっと――いえ、どのくらいかかるかわかりませんが、行ってきますので。」
鬼鮫がカムイの姿に戻り、持ち物がどさどさ、とその場に落ちる。切り立った崖の上から、鬼鮫は海の中にその身を投じた。
……俺に今できるのは、荷物の番、そして……この日本地図につけた印。地図には地形のようなものが書かれている。日本列島、というものは山を中央に据え、その裾野を伸ばしたような島国。つまりは、この島に住む人間はどこにいても山からの恵みを、時に厳しさを受けながら生活していると考えて良い。だからこそ神が存在する。だけでなく付喪神のような小さき神々が存在する。同時に、神でない異形の者達も。
……大陸、というのは世界地図で見ることができる巨大な陸のことだろう。その地図には日本列島はほんの小さく描かれているだけだ。西の海……太平洋の向こう側にあるのがアメリカ。アメリカもまた、大陸に属する国だ。
そのままこの地で待ち続け、鬼鮫が戻ったのは3日後だった。土産とばかりに魚をいくつか水の玉の中に入れて地面に降り立つ。
「すみません、少々手こずってしまい。とりあえずは食事にしましょう。」
人間の姿に戻り、上着を羽織りながら目の前で水の玉が弾けて、魚がビチビチと踊り始める。
「刺身が美味いでしょうが、包丁がないので無難に焼き魚、ですかね。」
マキリがあればある程度は捌けるが……綱手さんのようにはうまく切れないだろう。
「そうだな、焼こう。」
炎ならばいつでも出せる。串刺しにできればより良いが串を作れそうな植物は周りになさそうだった。
「いや、参りました。北の海も険しかったのですが、この海は潮の流れを読むのに苦労しました。もう少し南下した場所に少し落ち着ける場所をようやく見つけまして、そこで情報を。」
魚の周りに炎を燃やしながら、鬼鮫とあの日本地図を見る。
「……あの住職は九州にキリスト教の信徒が多いと言っていましたね。見てください、ここが九州です。印がひとつもない。キリスト教はアメリカが信仰する宗教でもあります。その特徴は一神教、つまり奴等――アメリカ人にとってキリスト以外は神ではない。日本の神々など、奴等にとっては神ですらないのでしょう。だからこそ蛮行が罷り通る。しかし同じくキリスト教を信仰する者の多い九州には、その魔の手を伸ばさない。……偶然、かもしれませんが。奴等の行動原理がこのキリスト教という宗教に基づくものであれば、カムイを捕らえる技術は単なる科学であり叛逆ではない。人間が馬や牛を生活のために使役するのと同じ感覚で我々を見ている可能性があります。」
駆け足気味に鬼鮫が話すのを聞きながら、魚が焼ける様子を見る。魚の皮がジジ、とめくれた。地図を握る青白い手に、己の手を重ねる。
「……鬼鮫、食べ頃だ。」
鬼鮫は口を止め、地図を地面に置いた。そして、手を合わせる。
「……ありがとうございます。」
灯りとして残す以外の炎を消した。青魚の焼ける匂いは食欲をそそる。
「鬼鮫の言う事もしっかり吟味する必要がある、重要な分析だ。」
カリ、とした皮、更にかじるとじゅわっと魚の油が口の中に広がる。
「ただ、今一番重要なのは……記憶を奪う鬼に警告が伝わっているかどうか。」
鬼鮫は手に焼いた魚を持ち、それを見ながら答えた。
「……そうでしたね」