「結論から言います。霧と共に現れる海の鬼は、海の中に棲む者ではありませんでした。」
3日かけて得られた成果はそれだけだと、鬼鮫は肩を落とす。
「海ではない、ということは大気中か地上に身を置いている……あるいは霧そのものが鬼の正体か。」
「……そういう事になります。この海は潮の流れがいくつもぶつかり合っており、潮の流れを使って移動する事が困難でした。時間がかかった要因のひとつです。激しい潮の流れのためこの地にとどまる者がほとんどおらず情報収集に手間取ったのもひとつ。そしてそもそも海の中に棲む者ではなかったため情報が得られなかった、これがひとつ。すみません、あまり力になれず……。」
「……いや、十分だ。3日分の成果はある。」
霧が起きる条件は鬼鮫が知っている。もしくは鬼鮫が作り出す霧の中にその者が現れるかもしれない。いつ出会えるかわからない海を巡る者よりも、海上のどこかを拠点にしている者の方が探しやすいだろう。
その姿は黒い影、としかわからないがそれは人間の目で見た姿だ。
場所に関しては住職の話だと「あっちの方」と表現していた。少なくとも2〜3集落以上は南だ。鬼鮫が南へ向かった潮の流れも激しかったと考えれば、更に南かもしれない。
鉄道の方に戻って、南へ行く路線があれば電車で移動した方がいい。電車での駅から駅までの距離は集落4つ分程だ。次の駅で降りれば恐らくは近いところまで行ける。
「少し待っていてくれ、駅の地図と路線図を見てくる。」
次は俺が動く番だ。炎をそのままにしてカムイの姿に戻り、あの寺の屋根が見えた駅に向かった。
しかし、目に映ったその光景に愕然とする。
駅舎はある。確かに存在している。ただ、人が利用している気配はない。柱には色褪せた植物の蔦が天に向け絡み上がっており、その外壁はほとんどがその蔦で埋め尽くされている。埃と木の葉が積もった床、ホームに出るとアスファルトに俺たちが降りた足跡だけが残っていた。ホームの下を覗くと雪で覆われていてとても電車が毎日通っているとは思えない。線路は一応南に向け伸びてはいるが……。
俺たちはどうやってこの駅まで来た? 青森駅から3回乗り換えた。最後の乗り換えは……何を見て、どうやって……。
それに俺たちはなぜこの駅で降りた……地図の印を目指すならばもうひとつ先の駅にしたはずだ。
最後に乗り換えた駅も、もう使われていない駅、だったのか。ならばここまで俺たちを導いたのは一体、誰だ。
全てのものに神が宿る……と住職は。これは、まさか……鉄道に宿る神、なのか。
寺が見える駅で俺たちを降ろしたのは、住職と巡り合わせる為? 日本の神々はすでに俺たちのことを知っていて手助けを? ……それともそんな意図はなく気まぐれに?
思えばこの駅を降りてから、人間とすれ違うことはなかった。唯一の接触者である住職もまた、今はもうこの世のものではなかった。
……そうだ、俺たちは本土の信仰に詳しい者に話を聞きたいと電車の中で話し合っていた。そしてそれは、叶っている……。
すうっと胸に冷たい空気を吸い込む。
「ここまで俺たちを導いてくれたこと、感謝します。再度導いてもらうことは叶わないでしょうか。更に南へ向かいたい……この場に誰かがいるならば、どうか応えて頂けませんか。」
線路に、駅舎に向けて声を張り上げたが、ただしんと静まり返るだけで誰も応えるものはいなかった。
しばらくその場に留まり、返ってくる声がないと確認すると静かに駅舎の外に出て、その古びた建物に向けて深く頭を下げた。
「……ここまでの導き、重ねて感謝します。」
この先は自分たちの力で……歩いて行く、となると何日かかる。南に向かう道路を探さなければ……いや、線路が南に伸びていたのだから、線路の上を歩くのが良いだろう。
「……歓迎されているのか、そうでないのか、よくわかりませんねぇ。」
戻って見てきたものを伝えた鬼鮫の第一声に沈黙を返す。
本土の信仰を知りたい、という俺たちの求めるものまで導いてくれたのだから、その考えには少なくとも歓迎してくれたと思っても良いのではないか。住職……寺は俺たちを温かく迎え入れて知識を授けてくれた。
ただ俺たちのことを全面的に支援してくれるわけではない。海を渡ってきた者が自分……本土の神に興味を持っていると知ってその思いに応えた、ということではないか。
「ともかくこの先は……文明の力は借りられない。何日かかるかわからないが、霧の鬼の住処に向けて線路沿いに歩くのがいいと俺は思うが、鬼鮫はどう思う。」
「イタチさんについていく、そう言ったはずです。イタチさんの考えに賛同します。」
「……わかった。3日も海の中で探し周り疲れただろう。朝になってから起とう。」
服を着込み終わり、人間の姿での旅の困難さを思い出す。ただ幸いなのは、季節は春に向かっていて、青森は俺たちが住んでいた村よりもずっと温かいことだ。
鬼鮫が海に潜っている間も、炎の温かさだけで二度の夜を越す事ができた。
誰かを待つ……という事はあまり経験してこなかったかもしれない。思っていたよりも戻るのが遅かったが、鬼鮫が海の中で危険な目に遭うとは思わなかった。何か事情があるのだろう。そう思いながら残された服や荷物に目を向ける。
それでも、戻ってきた瞬間にはほっとしている自分がいた。鬼鮫なら大丈夫、そう確信しながら無事に戻った事に安心する矛盾。……細かい分析は後でいい。今重要なのは身体を休めて明日からの行程に備える事。
時間が経つ、という事は白服もまた次の標的に向け動いている、という事だ。なるべく早く対象と接触したいが……疲労し、腹も減るこの身で何日かかるだろうか。
「焦りは禁物です、地道に行きましょう。人間がいない地ならば、八百万の神とやらとの接触も期待できます。本土の情報は少しでも多い方がいい。……とは言え白服が来ると思われるまであまり日もありません。急ぎつつ、焦らない。このふたつは両立できます。」
朝日が昇り、出立の準備をする。鬼鮫の姿が服だけ残して見当たらない、と思ったら海から上がってきた。昨日と同じように、魚を水の球に入れて。ついでにもう片方の手には木の板がある。
「イタチさん、炎ではなく煙で炙ってもらえますか。」
持っていた板を組み合わせて、家のような形にする。煙を出すには生木が要る……周囲を見渡した。藪の中に何かしらあるだろう。生木の枝を何の礼の儀式もなく頂くことは例え本土であろうと抵抗がある。丈夫な草がその代わりになってくれるはずだ。
集めた草をその家の形をした板の中に入れて小さな炎で炙ると、狙い通りにもくもくと煙が上がった。
鬼鮫がやりたいのは恐らくシュッカラだろう。煙で炙ると腐りやすい生魚が保存食になる。
そういえば、本土に来てから食べられる植物はほとんど見かけない。いや、知らないだけであるのかもしれない。生態系の違いだろう。ただ急がなければならない旅路でその辺りの草や実を食べるのは避けるべきだ。鬼鮫のやり方の方が正しい。焦って何の準備もなく出立したら食うに困ることになる。「急ぐが、焦らない」のは正解だ。
「さて、改めまして……行きましょうか」
「……そうだな。急ごう。」
ごつごつとした石が敷き詰められた線路には少しだけ残った硬い雪で歩きやすくなっていた。……これも加護なんだろうか。
南に向かう線路は海と少し離れた場所をまっすぐに伸びている。その先、次の駅がある場所までは――この鉄道の道を、お借りします。
「……昨夜の鬼鮫の考えだが、納得がいく。キリスト教だったか、その神以外は神ではないとする考えがアメリカの信仰なのであれば、我々など敬うどころか利用価値のある何かだと考えているのだろう。」
「そのアメリカの中でも我々を捕らえる絡繰を作れる者達……恐らくあれの開発にはかなりの知識、技術、そして我々のような人間でない者を詳しく知る者が必要だと思います。……。」
鬼鮫が何かを言いかけて止めた。……何故止めたのか。不確か過ぎて推論にさえ出来ないようなことだったのか、それとも俺に言えないような何かなのか。
不確かでも構わない、奴等の行動、目的のヒントになるかもしれない。
「続きは。」
隣を見上げる。鬼鮫はまっすぐに伸びる線路の方を向きながら、視線だけこちらに移し、そしてまた線路の先に向けた。
「かつて日本はアメリカと戦争をしました。そして結果として、負けました。その大きな要因となったのは原爆と呼ばれる新型爆弾です。たったひとつの爆弾が、14万人もの日本人の命を奪いました。アメリカはその原爆を2回、日本に落とした。そしてその爆弾は大地に呪いを振り撒く特殊なものでした。」
かつて日本がアメリカに……負けている。呪いを振り撒く新型爆弾……1つで14万人もの死者……。
「……いつの話だ。」
「ざっと……80年ほど前ですかね。当時日本の頂点にいた天皇と呼ばれる太陽の神の子孫の系譜にある人間……現存する神として信仰の対象だったその天皇が、アメリカによって神の地位を奪われました。政治に関わることも禁じられました。……アメリカは既に、過去に日本から天皇という神を奪っています。」
「それは、……あの部屋の書籍から知ったのか。」
「いえ……こう見えて意外と長生きなもので。……戦争に負ける、という事はアメリカの支配下に置かれる、という事でした。今でもこの国のあらゆる場所に、アメリカの軍隊がのさばっています。新型爆弾はその威力故にその後今に至るまで一度も使われていません。しかしアメリカは一度に十万人以上の人間を殺す術を開発しました。他の国でもその研究はされていたようですが最初に実用化し使用したのはアメリカです。そして日本に勝った事で日本のあらゆる場所に軍隊の基地を作って今も堂々とそこにいます。今アメリカと日本は対等な同盟国などと謳っていますが、……この国は今もアメリカの支配下にあると言っても間違いではない。」
日本が、アメリカの支配下にいる……。キリスト教、だけでなく、アメリカが俺たちの国を軽んじて利用する決定的な理由はそこなのか。
「なので白服に舐められたまま、再度好き勝手させる訳にはいかない……という私の私情がある訳です。単純に海のカムイを攫われただけではなく。敵がアメリカだと分かった瞬間から私は怒りと憎しみで……いえ、この話はもう、いいでしょう。」
……鬼鮫はいつから人間の町に住むようになったのだろうか。神を奪った存在……あの部屋にあった新聞や書籍は……単に海に棲むものを守る目的だけではなかった?
海の秩序を守るものとして、カムイを攫われたことに怒りを覚えるのはなんとなく理解できた。しかしウェンカムイになってでも、という憎しみがどこからきているのか……謎といえば謎だった。そのカムイと親しい間柄だったとも聞いていないし、それほどまでに憎むくらい北の海を大切にしてきたのだろうと、納得しようとした。しかし、思っていたよりも鬼鮫は長く生きていて、そして過去のアメリカの蛮行を知っている。そして今の日本とアメリカの関係も。……鬼鮫はいつから海の秩序を守ってきたのだろうか。
毎日テレビでニュースを確認していたのは、新聞で人間の世界のことを知ろうとしていたのは、書籍で知識を積み重ねてきたのは、もしかしたら次にアメリカが蛮行に出た時のことを考えてのことだったのか。
それとも呪いを撒き散らす新型爆弾が使われることがないかを知るために?
「……人間は時に、海に甚大な影響を及ぼします。災いを海に吐き出す工場、新型爆弾の呪い、そして呪いを閉じ込めた箱の海への遺棄……。人間の情報網は潮の流れよりも早くその情報をもたらす事があります。海の管理者にとって人間は注意深く見張らなければならない対象です。特に、アメリカ……あの国の動きには。」
その目は線路の先を見ながら、瞬きを忘れたかのように睨みつけていた。
「他にも何か……あったのか。」
「……西の海……太平洋の恵みの地で、新型爆弾とよく似た爆弾の実験を行っています。ビキニ水爆、と呼ばれるそれは海に多大な犠牲と呪いを残しました。」
「新型爆弾は日本以外には使われていないと……。」
「人間を標的として……という意味です。ビキニ水爆は実験として行われ、多くの漁船に被害をもたらし、恵みの地は一時死の海へと変わり果てました。……率直に申し上げます、私はアメリカという国を憎んでいます。ですから、白服の事もまた……。」
握り締める手……冷静なようでいて、鬼鮫は時々怒りや憎しみを露わにする。その憎しみの根源は80年以上に渡り海を守り続けた者としての、そして海に棲む者の意思を色濃く反映してきたために抱いてきた怒り……。
「……ならば、次も白服の蛮行を許す訳にはいかないな。」
「そうですね。……必ず阻止します。」
天高く登った太陽が、ゆっくりと雪を溶かし始めていた。