人間の姿で目的地を目指して歩くのは3回目だろうか。ただ、今は隣に鬼鮫がいて、相変わらず何かと話しかけてくる。雪の積もる量だけでなく、そのために歩みが軽くなっているような感覚がある。
以前は一人だったが今は違う。
漁師の一人が言った言葉を思い出す。人が一人増えると、二人分ではなく三人分、四人分の仕事ができる。人手というのはそれだけ大きな力になる。この歩き旅は作業ではないが、ただ一人共に歩く者が増えただけで、こんなにも心強く気持ちも軽くなるものだとは思わなかった。
「対象は霧の中に棲む、もしくは霧そのもの……海で霧が自然に発生する条件は?」
「基本的には海上の霧は暖かい季節……春から夏頃に発生します。まだ寒いこの季節には海上での自然発生はあまり考えられませんね。」
「では、作るしかないな。地上もやはり暖かいのが条件なのか。」
「すみません、地上のことは詳しくなく。ただ寒暖差があれば、今の季節なら、夜の底冷えと日中の暖かさで水が蒸発……つまり雨と逆の現象が起こり地上に霧が発生する可能性はあります。」
「温かさ……それを故意に作り出したら霧が発生する可能性はあるということか。」
「炎……を考えていますか? 炎では恐らく熱すぎますね。」
「小さな炎を点々と広範囲に配置する……これでは無理か。」
鬼鮫を見上げると、顎に手を添えて周りを見ながら考え込んでいる。その鬼鮫が見ている周りは山だ。小さいが山がずっと続いている。
「その方法であれば可能性はゼロではありません。私があらかじめ大地に水を振り撒きます。小さな炎が暖流となって山に沿って上空へ向かう時に一緒に大地の水分も山へ上がっていく……と、霧になります。うまくいけば、ですが。」
霧が作れたとして、その人工的な霧の中に果たして鬼が現れるかどうか、か。
海上で鬼鮫の霧に現れないか確認。これには丸一日かける。現れなければ大地で確認。これは夜の冷えた時間から日中の温かさを借りる朝方でなければ出来ない。
ここで、疑問が生じる。
「鬼鮫の霧は地上では作れないのか。」
「ある程度までなら自分の身の水分で作れますが、何もないところから水を生み出す事は出来ません。海辺なら可能ですが、完全に陸地では難しいですね。」
逆に考えれば、陸地でもため池のような物があれば作れるということか。……しかし海が近い土地でわざわざため池など作る者はいないだろう。天然のそれがあれば話は別だが。
歩きながら、数時間に一回上空から行き先を確認して船着場がないか確認し、ないとわかってまた歩く。その繰り返しの中で、やはり一人で歩くのとでは全然違うと感じる。温かさや雪深さもあるが、隣に鬼鮫がいて時折話しかけてくる、それだけでもう一人ではないと感じ、そして背負うものもまた自分一人だけの想いではないと改めて考える。
「ところでイタチさんの夢を見せる力……それはどんな夢を見せるんですか?」
「夢を見せる……にも2種類ある。ひとつは幻覚のようなものだ。俺が見せたい映像をその目に焼き付けることで夢として見せる。鬼鮫に一度使ったことがあるあれだ。もうひとつは対象が求める夢を見せるもの。夢屋やウコチルプに使ったのがそれだ。」
「幻覚……それは生き物にしか使えないものでしょうか。濃霧の作戦では夢として見せられることに海のカムイ達が同意していましたが、この先出会う本土の神々は抵抗を覚えるかもしれません。それでは奴等の異質さと危険性を十分に伝えられない可能性があります。例えば、ですが。私が作る霧にその映像を映し出す……イメージとしては、テレビのように。……というのはいかがでしょうか。」
普段は対象の目に焼き付ける……その対象を霧に。試す価値はありそうだ。
「今どの程度の霧を作れる?」
「人の頭を覆う程度、ですね。やってみますか。」
鬼鮫が手を前に伸ばす。その腕から細かい霧が少しずつ中空に現れて丸い形の濃霧が現れる。その濃霧に赤い目を向けた。幻覚を見せる要領で映像を……流し込む。
濃霧の中心に光が現れた。それは炎のゆらめき。イメージしたのは焚き火。霧が小さいからか、燃える木までは見えない……が、……使える。
霧散した霧が鬼鮫の体に収束していく。
「水があれば……使えますね。水がないと今の大きさが限界です。」
「次に会うのは霧の中の鬼だ、これでいけるだろう。」
ただし会うことが叶えば、の話だ。
少しずつ辺りが暗くなっていく。太陽が沈んで暗闇を炎で照らす。照らさずとも俺たちは暗闇を見ることには慣れている。だが鬼鮫はこうして火を灯すことで周辺の神々に「ここに俺たちがいる」と主張したほうがいいと判断した。そのため今、目の前、少し先を揺らめく炎が進む道を照らしている。
「イタチさんの炎はどのように出しているんです? 燃やすものがないのに燃えているのは不思議です。」
どのように。考えたこともなかった。炎を灯したい場所にふっと息を吹きかける……だけだ。
「理屈はよくわからないが……俺たちの出す炎は普通の火とは少し異なる。水をかけようが消える事はない。俺たちが消したいと思えば消えるしつけたいと思えば灯る。燃やそうと思えば燃やせるし燃やさないこともできる。」
「燃やすことも燃やさないことも……?」
「大盤振る舞いしているが、本来は神聖なもので滅多に使うことのない力だ。」
白服達にも使った。あの時は燃やすために。でも白服は何ら問題とすることなく炎の中一族の者を連れ去っていった。
カムイの力を無効化する技術だろうか。それともあの白服には炎にも耐性があるのだろうか。
鬼鮫の霧のように現実の物質を扱えれば俺もこの炎を役立てられるのだが……。
「白服に対してはその炎は効果がなかった、という事でしょうか。……カムイの能力だから、もしくは海に入れるように炎にも耐えうる……と。しかしイタチさん、炎がもたらす副次的効果は使えるかもしれません。私が空気の壁で奴等を閉じ込める。イタチさんがその中に燃やす炎で埋め尽くす。燃えない服であろうと熱までも全て防ぐのは難しいでしょう。そして燃えるという事は、酸素を二酸化炭素に変える事でもあります。空気の壁の中で燃やし続ける事で、熱による蒸し焼きに加え、酸欠による衰弱を狙えます。難点としては、私が作れる空気の壁はせいぜい人二人程度の大きさである事、ですが。」
長年生きているからだろうか、鬼鮫の知識量、すぐにそれが発想として出てくるのは凄い事だと思う。
「……鬼鮫が共にいれば、空気の壁と炎で白服を殺せるということだな。」
今まで白服を倒すとはいえ具体的な方法は見つかっていなかった。濃霧に閉じ込めるのも海のカムイの協力があってこそ実現した事だ。
だが、鬼鮫の話を実行に移せば……ひとりずつでも構わない。白服を、殺せる。
肌がヒリヒリとする。体内の熱が表皮に漏れ出ているかのように。……これは白服を殺せるという喜びなのか、それとも森や海の憎しみなのか……。
「イタチさん。」
落ち着いた声が右上から降ってくる。
「今日はこの辺りで身体を休めましょう。」
月はすっかり上に上がっていた。いつの間にそんなに時間が経ったのだろうか。
「……そうだな。」
線路脇に荷物を下ろした。
今どの辺りまで歩いてきたのだろうか。
一日歩き続けた脚を労る。明日もまた歩く。その為には適度な休息が必要だ。
話を交えながら丸2日と少し歩いて、船着場を見つけた。しかし今では使われていない古びた船がひとつ繋がれただけの小さな船着場だ。周囲に集落もない。家はぽつぽつと建っているがどれも古く人の気配がない。小さき命が駆け巡っているだけだ。
「廃村……ですかね。」
「そのほうが都合がいい、鬼鮫。」
「承知しました。」
鬼鮫の荷物を預かる。カムイの姿になった鬼鮫は海の上を駆けて行った。説明通りに、海に霧が発生する気配は全くない。しばらくして、遠くに突如巨大な濃霧が発生した。自然にできたものではない、鬼鮫の霧だろう。俺も荷物を下ろしてその霧に向かった。
霧の中に入るとほとんど視界はないに等しかった。ただカムイの目であれば鬼鮫の姿は見える。鬼鮫も俺が霧の中に入ってきたことに気がついたらしい。「こちらです」と声がかけられる。
しかし鬼鮫以外に人ならざる者の気配は感じない。海での邂逅を期待して丸一日使う事は事前に決めていた。腹を据えて待つだけだ。
「記憶を食うと呼ばれる者よ、私たちはあなたに警告を伝える為会いにきました。この海に居るならば姿を見せて頂けませんか。」
ザザ、と波打つ音しか返ってこない。それでも鬼鮫は時間を置いて呼びかけ続けた。しかし一向に返事は返ってこない。
眠っているのか、ここには居ないのか。そもそも今は霧が立つ季節ではないのだから居ない可能性の方が高い。だが居る可能性はゼロではない。鬼鮫も同じ考えなんだろう。
しかし、呼びかけ続けても返事が返ってくる事はなかった。その気配もない。
陽が落ちかけてきたところで、海から撤収することにした。
人の記憶を奪う鬼だ。人が住まなくなったこの地から居なくなったのだろうか。しかし地図にはこの場所に印が付いている。白服共も何かしらの根拠を得てこの地を狙う事にしたはずだ。
鬼鮫は海から巨大な水の球を持ってきて、陸地に雨のように振りかける。明日の朝、この地に霧を作るための仕込み。そしてその地に足を運び、炎を作る場所を確認する。山の麓を歩いていると、枯れた池と小さな社を見つけた。その脇に木製の小さな看板、これは……文字のようなものが書いてあるが、読めない。
「これは……崩し字ですね。かなり古いもののようです。私でも読めない……何百年と前に書かれたもののようです。」
長年生きている鬼鮫にも読めない字、であれば古い神がここに祀られていた……枯れた池から察するに水に関連する神。
「気配はないな……しかしここに確かに信仰が存在していた。鬼鮫、池に水を持ってこられるか。」
「お待ちを。」
鬼鮫がその姿を消す。その間に一番近くにある家屋の中に入った。荒れてはいるが、台所には食器が残っている。探したら酒も出てきた。湯呑みに酒を入れてまた枯れ池の前に戻り、その社の前に酒の入った湯呑みと、残っていた魚を供える。
そこに鬼鮫が戻ってきて、池を水で満たした。
膝をついて、その小さな社に手を合わせる。
「古き神よ、どうかこの地の記憶を授けて頂けないでしょうか。」
本土での神の祀り方……住職から聞いた方法を試してみたが、海と同じく、応える存在は現れない。
「イタチさん、近くの家屋をお借りして夜を過ごしましょう。明日は太陽が昇るまでに仕込みをしなければなりません。」
それならこの食器と酒を借りたあの家を……拠点にしよう。
荷物を持って、その家に上がり埃臭い部屋の窓を開けて軽く掃除をした。布団もあったがこれは使わずに畳の上に腰を下ろす。
屋根がある分、線路脇と比べたら上等だ。
新しく鬼鮫が取ってきた魚を、台所で調理できるだろうかと思ったが水が出なかった。人間の家の全てが蛇口をひねれば水が出るというわけではないらしい。その魚はそのまま焼いて食べる事にした。
食べ終えたらすぐに横になる。3日程度ではあるが、疲れは溜まっていたらしい。すぐに眠りの深淵に落ちて行った。
……深淵を覗く者は、深淵からもまた見られている……
目が覚めて、脳裏に残っている声に周りを見渡す。鬼鮫以外誰もいない。今のはただの夢なのか、それとも何者かの声だったのか。……確かめる術はなかった。
外に出ると空が明るくなり始めている。部屋の中に荷物を残し、カムイの姿でその集落一帯の其処彼処に小さな炎を絨毯のように敷き詰めていく。
鬼鮫が撒いた水に加え、この土地に積もるささやかな雪が溶けて大地から蒸気として熱が上ってくるのを感じる。予定通りに事が運んだ事に安堵した。あとはこの火を絶やさない事、そして霧が発生するのを待つ事。
徐々に空が明るくなり、朝になる時細かい霧が辺りを覆い始めた。……霧を作れた。あとはこれらが集まって濃い霧になれば。鬼鮫も同じくカムイの姿で現れた。
「イタチさん。」
何か言いたい事があるらしい。
「あの古い社の主……恐らく現れます。」
「……ならばそちらへ行った方がいいか。」
「いえ、このまま霧が濃霧になるのを待ちましょう。」
意味がありそうな言葉の選び方だ。あの社は霧と関係のある神……ということか。ならば記憶を食う鬼の事もわかるはずだ。
「炎はそのままで、この感じであれば30分も待てばしっかりとした霧になるはずです。」
鬼鮫の言う通りに待つこと数十分、山に沿って上っていった霧はその中腹で濃霧となった。
「……行きましょう。」
俺たち2人は、その作り出した霧の中心に入っていった。