何かが居る……いや、在る……?
霧の中に入ったが、鬼鮫の霧とはまるで違う感覚があった。空気が重いのか、それとも霧の神の領域に入った事で異なる次元に入ったのか。
「念のため、名前は呼ばないようにしましょう。」
右上にある鬼鮫の顔を見上げて頷く。
鬼鮫はそれから黙ったまま、濃霧の中心部の手前で止まった。水に親しい者にしかわからない何かがそこに在るのだろうか。
「霧の神はここに居られますか。」
喉から出た言葉が木霊のように自分の頭の中に響く。何だ……これは。まるで俺自身に向けて言ったかのような……。
『……我を眠りから目覚めさせた者達……』
周囲のあらゆる場所から声が響いてくる。これは、この神は「霧の中にいる」のではない。この霧そのもの、なのか。
「霧の神、貴方に告げるべき事があり俺たちが貴方を呼び覚ましました。」
言葉はやはり頭の中で何度も響く。この声の主と同じように。
『……聴こう……何故我を目覚めさせた……』
対話はできそうだ。だが霧は少しずつ山に沿って上昇している。その頂の上まで昇ってしまっては恐らくもう霧としての姿を保たない。
……早めに済ませなければならない。
「アメリカという異国が、我らのような人ではない者を捕らえ使役せんとしています。北の大地では3つの神の種族が捕らわれました。その者どもが次に狙っているのは、貴方です。」
『……其れ等が形を持たぬ我を捕らえると……?』
「その者どもは神の力を無かったこととする絡繰を操ります。そして人ではない姿のない者を捕らえる特殊な網を使います。これを……見て頂きたい。」
目の前の霧に、線路で話し合った映像を投影する。投影するだけではない。音も、声も、その幻……俺の記憶の中にあるものが全て霧の中に再現される。網の中のサスケに伸ばした手まで、ゆらゆらと揺らめきながら。
映像が終わると、霧がぐにゃりと揺れて笑いを堪えているような息遣いが聞こえてきた。
『……まこと興味深いものよ……人間たる者が我を捕らえんとす……か……この力をどうするつもりか……まこと興味深い……』
……廃村……使われていない船着場……この神は長らく人々からの恐れも敬いも受けていない。自分の力を存分に使えることをむしろ喜んでいるかのような言い回し。……不味い、見誤った。
そこに、懐の葉がカサと動く。……ゼツの葉を今、出すべきか……どうする。
取り出すまでもなく、ゼツは話し始めた。
『嗚呼……嗚呼……何たる事……同胞は皆意識を奪われた……最早奴等の言葉通りに動くのみの人形と化してしまった……あの中に入れられた何かが彼等の全てを支配してしまっている……我等にはもうどうすることも出来ぬ……。』
それを聞いた瞬間、俺の身体は全身が熱くなり沸騰しそうだった。意識を全て奪われて人形のように……それはサスケも……!?
肩に置かれた手。ヒヤリとしているはずのその大きな手が、熱を持っていた。……鬼鮫も同じ。
……堪えろ、今、俺がすべきことを。
「ゼツ、奴等は仲間を操って何をしている、何を企んでいる。」
『疫病を撒き散らす……最早ただの装置として……そしてその病を癒す装置として……我らの力を利用せんと何度も同じ事を繰り返している……。』
鬼鮫が身を屈めてゼツの葉に顔を寄せる。
「人を陥れる兵器として力を使われている、そう思ってもいいでしょうか。」
『人間のことはわからぬ……だが攻撃を目的としている……それは確かに感じる……嗚呼……我等が人間に仇成す存在に……! 嗚呼……何たる事……』
「ありがとうございます、神を……カムイを攻撃の手段として考え、その為に自我を奪っている。……合っていますか。」
『我にはわからぬ……其方らに託す……必要ならばその後も見続けよう……だから必ず奴等を……。』
ゼツの声が遠くなっていく。
俺たちはこの先を託された……奴等が行っているのはカムイ……神の兵器としての利用。強大な力、未来を見通す目、疫病、そして。
「……霧の神、貴方の持つ記憶を奪う力を、奴等は我が物とせんとしています。この葉……樹木の神の仲間は捕らわれて自我を奪われました。貴方も奴等に捕らえられれば、人間にその自我を奪われ利用されるだけの存在となります。」
空気が揺れる。やりとりを全て聞いていたであろう、霧の神はくっくっと笑った。
『……我が記憶を喰らうと知って我が中に飛び込んだか……主らは既に我に喰われておるかもしれんぞ……? ……試しに思い起こしてみよ……主らは朝何を食べた……?』
これは……敵対か? それとも試練? 自分の声が頭に響いたのは、この神の中に入り込んでいた為か。朝食べたもの……問題ない、覚えている。俺たちは喰われていない。
敵、とはなりたくないが、そうなったときに備えていつでも炎を出せるように準備する。巨大な火の玉を作ればこの霧は霧散するはずだ。
「お答えします。俺たちは朝食など食べていません。貴方は異国の人間に使役される事を望みますか。それともこの地で静かに過ごす事を望みますか。あるいは他の地に赴き記憶を食べる事を望みますか。次は貴方が答えを。」
周囲の霧が渦を描くように動き始め、俺たちはその渦から離れるように霧の中から出た。濃霧はあと10分もすれば山頂まで届く。
『……人間を喰らうのも一興……しかし我はこの地を循環するのみ……他へは移れぬ……喰らうは良いが……我でなくなるのは望まぬ……』
霧の中から出たにも関わらずその声、空気の振動はなおも周りから聞こえてくる。
この地を循環……これは、霧じゃない、霧だけでなく、この地の水そのものがこの神の正体。……という事は、鬼鮫が言っていたあの小さな社の主は、この目の前の。
神でもあり鬼でもあるこの者は、人間に害を及ぼす存在であり敬われる存在でもあった。
そして人間の記憶を食う事は今でも好んでいる様子……危険ではあるがそれ故に余計に白服共に利用されるわけにはいかない。
しかし、この者が納得したとしてどのように白服から守るべきか。この場から動けない、というのは単なる水ではなくこの土地に何かの縛りが存在するのか?
その縛りとは何だ。神を縛るものといえば綱や札、境界線、記憶を喰らう鬼を恐れこの地に閉じ込めたと仮定するとそれをするとしたら漁師……しかしこの危険な神をこの地から解放しても大丈夫なのか。……否、だ。ここまで話を聞いた感触では。
『……炎を操る者……主の声を聴こう……して如何様に敵を遠ける……』
循環する……つまり霧の姿になれなければただの水だ。いかに技術を持った白服でもこの地の水分をさらうことは出来まい。……いや、この地の水そのもの全てがこの神であるのなら、海の中の水もまたその一部はこの神だ。
そもそも、記憶を食う力は霧が発生していなくとも使えるのか
「霧の神、貴方は霧の姿でなくとも記憶を喰う事はできますか。」
『……我の中に入り込む者だけ……霧か水に入る者のみ……其方らのように我が姿を作り出さねば……人は喰らえぬ……』
俺たちと同じく記憶を喰う霧の怪異として奴等が捕らえに来るならば、奴等も霧の姿を作り出す物を用意してくる可能性は高い。であれば、もう一度白服を海上で足止めして蒸し焼きにする。ひとりであっても牽制にはなるはずだ。
「……その喰った記憶は、その人間はどうなるのですか。」
『……全てが我の胎の中よ……共にこの地を循環し、雨となり霧となり海の一部となり雲へ昇る……我を縛るあの社がある限り……この地の循環から我は抜け出せぬ……』
……あの祠……小さな社が霧の神をこの地に縛る物、か……!
崇拝する者がいなくなってもなお霧の神をこの地に押し留めているあの社を壊されると、霧の神は自由を得てしまう。白服はそれに気がつくだろうか、祠がある限り何をしてもこの神を捉えて連れていく事は叶わない。それとも奴等の力は祠の結界をも破壊できるのだろうか。
「共に、というのは喰った記憶をそのまま持っている、という事でしょうか? 例えば奴等のうち一人を差し出したらあなたはその記憶を全て知る事ができるんです?」
霧の中の渦が一層激しく動く。霧の神の感情が動いている……?
『……我に供物を捧げるか……良き……良き事ぞ……』
これはこの神の喜び……なのか。明らかに声色が違う。喜び、楽しみ、高揚……それが霧の渦として表現されている。
「供物を捧げます。その代償として我らの望みをひとつ叶えてくださいませんか。」
『……良かろう……言わずともわかる……その者の記憶が其方らの望みだな……良かろう……』
鬼鮫の機転、神の反応、そして供物の代償、これは大きい……!
「感謝します。必ず供物を捧げます。場所はあの祠でよろしいでしょうか。」
『……昨日満たした水に供物を沈めよ……久々の記憶じゃ……楽しみだのう……』
笑っている……笑い声は聞こえないがその声色は明らかに高揚し上気している。この神にとって記憶を喰う事はそれほどまでに渇望していたもの。……祠を破壊されたらこれが人の世に降りてくる。それを他の何者かに察せられたら災厄を解き放つことになる。
白服のひとりを祠に連れてくるまで、殺してはならないが喋らせてもいけない。可能な限りあの白い装備を剥いた状態で連れてくるのが望ましい。あの白服には他に何の仕掛けがあるかわからない。そしてあの池に沈める。
『……姿を保てるのもこれまで……楽しみを裏切るな……若きふたつの神……我は見ておるぞ……』
山頂に、霧が届く。その頂よりも霧が上がれば空に散っていく。だがこの神は水そのもの、空気中の水にも大地の水にもこの神の目が俺たちを見ている。
「……収穫は大きい、あとは白服のひとりを。」
「ええ、周到に用意しましょう。蒸し焼きだけでなく、この神の生贄に。」
「あの家に戻り、作戦を練る。行くぞ。」
木々で鬱蒼と茂る中にあるあの家に戻る。
拠点を作ったのは正解だった。この場所に荷物を置いておける、ということはカムイの姿で自由に動ける。船着場からここまでの動線、白服に気取られぬよう力を使う方法。今までに見た白服の特徴からあの装備の意味を考えて話し合う。
「霧とはいえ水の怪異です。水中に潜る装備を用意するでしょう。海の中でも息ができる何かを装着していると考えます。」
「病院で見た、口に繋がれていたもの……あれは空気を口に送り込んでいた。あれと似た形状ではないか。」
「それ、いい線ですね。ただそれなりの大きさがあります。船に予備があり、持ち歩くのはせいぜい2本ほどと考えていいでしょう。霧を作り出すという想定だとしても、あまりに重装備では機動性が落ちます。……カムイを兵器として利用しようとしているならば間違いなく相手は軍隊、ないし軍隊に関連する研究組織です。訓練された者なのは間違いありません。異なるパターンへの備えはするものの、機動性を落としてまで備えるとは思えない。」
「いや、第一陣に霧を作り捕らえる者達、第二陣に海に潜る者達を用意する……それも念頭に置いたほうがいい。そのパターンであれば第一陣から第二陣に行動が移る隙に第一陣の1人を空気の壁で捕らえる。」
「しかし霧を作り出すあの神がそこに閉じ込められた場合には……」
「祠の縛りがある限りこの地からあの神は動かせないと踏んでいるが……。」
「奴らの技術がその縛りを上回るかもしれません。何しろ神を捕らえるための訓練と装備を持つ者達です。」
「そうだな。……海上では恐らく警戒を強めている。前回海上で押し留めた、だからその対策をして来ているだろう。隙を見せるとしたら上陸中、もしくはその後。霧の神が仮に捕まったとしたら、俺の炎で霧の姿を解く。形がなくなればただの水、特殊な能力も持たない。神性がなければ奴等の網では捕らえられないだろう。」
「炎はどの程度遠くまで届きますか。近づきすぎると私たちが捕らわれかねません。」
「巨大な炎で構わなければ遥か上空からでも届く。」
「その力の代償は?」
「ほとんどない。恐らく鬼鮫が水を操るのと同じ程度だ。」
「では霧の神が捕らえられたところで炎で霧を霧散させる、急に発生した巨大な炎に少なくとも奴等の予定が狂う。その中で一番多く隙を見せたものを空気の壁に閉じ込めます。」
「鬼鮫はどの程度遠くからそれを作れる。鬼鮫が捕まっては元も子もない。」
「……そうですね、それでは……カムイの影を多量に作りましょう。森のように多くのカムイが出現すれば狼狽えるはずです。水は鏡、海の近くであれば私の鏡像を多く展開できます。その中に紛れる。カムイを見る目があっても、その真贋まで見分ける事はできないと踏んでいます。炎に続いて多数のカムイに囲まれれば奴等も隙を見せるでしょう。一瞬でもその場で騙す事ができれば一人攫うぐらい造作もありません。」
「連れていく先を知られてはいけない。祠の存在を知られるのは一番不味い。拿捕した白服を炎で包みながら同じ大きさの炎を無数に作ろう。そして散らせる。ここで一旦二手に分かれ錯乱させる。」
「そうですね、森の中を行ったり来たりしながら追っ手を攪乱するよう移動します。」
「あまり時間はかけたくないが、出来れば追うのを諦めさせたい。船を含む周囲のあらゆるものを燃やして恐怖を与える。船ならばエンジンと燃料がある。炎に耐性があるとはいえ、燃料に火がつく事は恐れるはずだ。」
「あらかじめ船着場近くに燃えやすいものを潜ませましょう。炎だけ、よりも爆発するものを用意する事でより恐怖を煽れます。」
「……よし、では白服拿捕の作戦をまとめよう。やり遂げるぞ。」
「……ええ、必ず。」