人々は、月がまだ高い場所にいる頃から家の戸を開け港に向かい始めた。人の姿のままでいるべきか、カムイの姿に戻るべきか逡巡している最中、背後から大きな声がする。
「わや! ちょっと待ってってば!」
人間に見つかった、こんなにも暗いのに。振り返ると、女性と男性がこちらへ向かって歩いてくる。女性の方は駆け足で、首に巻いている襟巻きを外し、俺の目の前までくるとそれを俺の首に巻きつけた。
「こんなとこで何してんのよ……って、待てさ、こっち来い。お父さんは先行ってれ!」
腕を掴まれて早足で歩く女性の後をついて行かざるを得なくなった。こんな風に人間と接したことなどない。どうしたらいいのかわからないままついていくと、港の端にある建物の扉の鍵を開けて、四角い塊の上部に指を添えた。ピッという音と共に、チチチチ、ボッとそれが動き出し、温風を吹き出し始める。
「あんたはそこに座ってなさい。動いちゃダメだべさ。」
そこ、と指で示されたのは椅子だった。目の前には大きな机。どうやら4人が座って食事を共にするための椅子と机らしい。
「あの……」
「なんも、なんも! こんな時間に腹すかせたわらしが一人でいるなんて、何か事情あるに決まってるべさ。いいから、わやになるまで食べれ。あんたの今の仕事は食べることだべさ。」
畳み掛けるように言われて思わず黙った。力が強いとかそういうものではない、圧というのか、強さを感じる。忙しなく動きながらチン、トン、トン、トン、グツグツ、と音を立てているのを聞いているうちに、いいにおいが漂い始める。
「魚……?」
「港だもん、魚しかねえべさ。でもなまら美味いから、もうちょびっと待ってれね。」
そうして待っていると、目の前にお盆に乗ったお椀がふたつドンと置かれる。白いお米と……何だろうこれは。海と似た匂いがする、茶色の汁物。
「なん、珍しいのかい? これあら汁だべさ。魚の出汁なまら出てるから、ご飯入れてもいいし、とにかく食べれ。」
"食べろ"という有無を言わさぬ強い圧を感じて、箸を手に取り手を合わせた。
「……ヒンナ。」
熱そうなあら汁のお椀を手に持ち、ふう、ふう、と冷ましてひとくちすする。それは、今までに食べたことがないくらい、美味しかった。深みがある汁に、おそらく魚の味が混ざって、緑色の……草、なんだろうか。これが海の香りを鼻腔に運ぶ。
白いご飯も、こんなにも甘いものなのかと衝撃を受けた。言われた通りにご飯を汁に混ぜて食べるとまた格別に美味しい。
食べる様子を見ている女性に目配せすると、彼女はふっと笑った。
そこで俺は大事なことを思い出す。
「あの、俺はお金を持っていません。」
女性は目を丸くした後、また目を細めて、俺の頭に手を伸ばしてガシガシと撫でた。
「母親っちゅう生き物はさ、腹すかせたわらし見たら放っておけないもんなのさ。なんも気にしないで、なまら食べれ。」
さっきからよく意味のわからない言葉が出てくるが、どうやら"わらし"というのは"子ども"を指す言葉のようだ。
母親……母さん……。
いや、今は考えるよりも、温かいうちに食べなければ作ってくれたこの女性に失礼だ。なによりも、この美味しい食事をもっと食べたい。
「いい食いっぷりだべさ! なまら美味いべ? おかわりもあるから、いっぺ食べれ!」
最初に動かしたものがこの部屋全体を暖かくしていく。そしてこの食事と、女性の語り口は、凍ったように寒かったこころまで温めてくれているかのようだった。
「ヒンナ……ええと、とても美味しかったです。ありがとうございました。ご馳走様でした。」
手を合わせて箸を置くと、俺をじっと見つめている女性の目とかち合った。
「したけどアイヌの子、それもあんた、山の方の子だべさ。なんでまたこんなとこに一人でいたのさ。」
「何故アイヌだと……?」
「その腰のマキリ、いいべさ。おばあちゃんアイヌだから教えてもらったんだね。普通の子はマキリなんて持ち歩かないっしょ。」
マキリ……村の人を真似て持つようになった俺たちの誇り。……村の外の人はこういうものは持たないのか。
「……わけありなんだべね、まあ詳しくは聞かないわ。したけど、港に来たからには、金ないなら働かないと食われないべさ。」
金がない……働く……、働けばお金を得られる、ということか。それなら。……この町でやることがひとつ決まった。
「地図を買いたいんです。そのためのお金を稼ぎたい。何でもやります。働かせて下さい。」
前のめりになって女性に訴えた。女性はふぅ、と息をつく。
「したけど、働くったって、わらしは船に乗せられんからさ。私らと一緒に、揚がった魚の仕分けとか、そんなんなるけど良いかい?」
「船には、どうやったら乗れますか。」
「海のことなんて、なんも知らんでしょ。危なっかしくて、わらしに漁船は無理だべさ……こんなとこまでわざわざ来たっちゅうことは、海に何か用事でもあるんかい?」
「……はい。」
……アイヌだとわかっているなら、カムイについて知りたい、と言っても納得してもらえるだろうか。しかし、何故知りたいのかという質問への返しを考える必要がある。この女性はどうやら詮索はしないでくれるようだが他の人間もそうとは限らない。
「……この地にも、カムイはいるのですか。」
「あらま、アイヌの子らしいこと聞くねぇ。ここらのカムイっちゅうと……そうだねぇ、あえて言うなら海そのものがカムイだべさ。」
「そう、ですか。」
海そのものがカムイ、それは太陽がカムイだと言っているようなものだ。対象が大きすぎる。
もっと小さなものに宿るカムイはいないのだろうか。
女性は食べ終わったお盆を持ってまた料理をしていた場所へ戻って行った。
「ああ、そうそう。私の名前は綱手、千手綱手。この食堂の女将やってるのさ。漁船が戻ってきたら男らがドバッと食べにくるから、それまでに仕込みして、まかない食わせるのが仕事だべさ。」
……食堂、食べにくる、食わせる、つまりここは食堂という名前の、食事を求めにくる人に食事を提供する場所か。通りで美味しいわけだ。
そしてこの食堂には、海から戻ってきた男たちが集まる。その人々から何か情報が得られるかもしれない。
「働いたら、あんたにもなまら美味いもん食わせてやるべさ。ええと……名前なんて言うのさ?」
「シ……イタチです。うちはイタチ。今日は食堂の手伝いとして働かせて貰えませんか。」
「断る理由なんもねえわ、好きにすればいいべさ。」
人間のふりをしながら、人間の生活にも馴染めるようになったほうが後々役立つだろう。言葉も道具も何もかも村の中では見たことのないものばかりだ。
山の中での暮らしに不自由は感じていなかったが、今の俺は知らないことが多すぎると実感した。人間のことも、もっとしっかり知らなければならない。この港町で、出来る限り身につけながら海のカムイについて探っていこう。
綱手さんが調理をするのを見守りながら、働かせてくれと言いつつ何を手伝えばいいのかわからなかった。ただ、調理をしながら汚れた調理器具が増えていくのを見て、これを綺麗にしたら助けになるだろうか、と綱手さんに尋ねる。
「これの洗い方を教えてください。」
綱手さんはこちらに目配せする。
「いいやる気だねぇ。したけど、手取り足取り教えてやれるほど暇でないから、最初はひたすら見て覚えな。何か手出すのは全体の流れ掴んでから、明日からでいいべさ。」
儀式を学ぶときと同じ、最初は見るだけ……なのか。この最初でしっかりと何をどういうふうに使うとどうなるのか、物の配置、その配置の意味までを綱手さんの動きから見て学ぶのが、今日の仕事だ。
この町の人々は、皆綱手さんのように俺に対してどこから来たかとか、なんで一人なのかとか、そういう事情を聞こうとする人はいなかった。
皆何も言わずに受け入れてくれる。そして働かせてくれと言えば、まずやって見せ、覚えさせ、そしてやってみなと実践させる。
何かしら働いて綱手さんの食堂に行けば、温かく美味しい食事を食べさせてくれた。
食堂で働いているときは、漁から戻った男性が震えながら"ストーブ"の前で手を擦り合わせる。一人、二人とどんどん増えて食堂が人で溢れている中、綱手さんは笑顔で一言二言話しかけながら、カウンターの上のお盆に大きなお椀を載せる。それを机まで運ぶと男性たちは「ありがとよ!」と威勢よく言う。
村でも感じていた、けれどこの港町に来て、改めて感じる。
人間の営みは……温かい。
だからこそ。
この温かさを壊した白服を、俺は許さない。
誰もがささっと食べて出ていき、次の人が入ってくる。その流れを邪魔しないように食べ終えた食器を片付けながら、カウンターに座る男性が俺の肩をちょんとつついた。
「兄ちゃん、地図探してるってか?」
「あ……はい。地図を買うお金を貯めたくて。」
「お、本当に山から下りてきたんだな。したっけ、どんな地図欲しいんだい?」
「西の海の向こう側にある、異国のことまでわかる地図です。」
「ありゃ、なまらデカい地図がいるんだな。ちょっと待ってな。今探してやるべ。」
深い皺が刻まれた顔がニカッと笑い、皺が深くなる。カバンから取り出したのは薄い板だった。その表面を指で触ると、板が光る。……ここにくる途中で助けた父親が持っていたものと似ているが、それよりもかなり大きい。
「……これは……」
「タブレット。見てみ、ほれ。」
光る板の表面に絵……これは道? 山……ここは、海……?
男性が指を動かすと、その絵が小さくなってその周囲まで絵が広がる。
海……に囲まれた、四角いような、でもガタガタと線はいびつなものが映し出された。
「これが北海道だべさ。俺たちが住んでるのは、このへんだ。」
指で示した場所を広げるように動かすと、確かにこの港町を上空から見た道の形、家、港がそこにある。
これが、地図……。
「したっけ、これをこうやってぐぐっとな。縮めるとこうなるんだわ。」
指がまた動く。逆の方向へ。どんどん"北海道"が小さくなりその下の曲がった陸が見えた後、左側にどこまであるのかわからない陸、右にどれだけあるのかわからない海、どんどん周りが広がっていく。そして右端に陸が見え始めた。"北海道"は小指のさきほどの大きさになっている。
「西の海、これは太平洋っちゅう世界で一番デカい海だ。その向こうにあるのがアメリカっちゅう国だべ。ここは、そのアメリカでもちょっと飛び出たなりしてるアラスカっちゅう場所だわ。」
「……遠い……。」
「船で行くなんてのは、豪華客船くらいしかねえべさ。アメリカ行くって言ったら、普通はまあ、飛行機だわな。」
「ひこうき?」
「いっぱい人と荷物乗せて、空飛ぶ鉄の塊……なんて言ったら、兄ちゃん、腰抜かしてひっくり返っちまうべな! ははは!」
鉄、の塊は町の中のあちこちで見た。車もそうだ。船も木の船じゃない。ストーブも、この薄い板も……人間の町には鉄がたくさん使われている。それだけじゃなくプラスチックという物も。でも、鉄は重い。それが空を飛ぶなんて……いや待て、そうか。あの雪で立ち往生した親子を助けに来た、空を飛ぶものと同じ原理なのか。大きな羽を回して翼の代わりにしたら、鉄でも空を飛べるということか。
「わざわざ買わなくても、こうして見られるからいつでも見せてやるべさ。何なら印刷して、明日持ってきてやるかい?」
いんさつ……持ってくる、ということは持てる形でこの地図を貰える、ということか。でもさすがにこれだけの情報をタダで、というわけにはいかないだろう。
「お代は……?」
「なんも、そんなもんいらないべさ。よし、明日持ってきてやるから楽しみにしとけ。」
頭をわしわしと撫でられた。人間の中では、俺はまだ未成人だからか時々こうされる。
でも何の代償もなく、自分では得られないものを頂くのは気が引けた。……そうだ、夢。血を飲んで未来を見なくとも、その人が見たいものを、俺たちは見せることができる。それがその人にとって過去なのか、実現したかった理想なのか、知りたかった真相なのか、俺たちにはわからない。けれどここまでの事をしてもらって何も返さないのは……カムイとしての在り方では、ない。
寝る場所として借りている食堂の一角、月が高く上がった頃、そっと辺りを伺ってカムイの姿になる。
目指すべき場所は身体が自然に運んでくれる。あの深い皺が刻まれた男性の家は、町のはずれにあった。
眠っている事を確かめて、その額にすっと指を入れる。この人に、良き夢を。見たい夢を。朝まで……。
そして夜半過ぎ、漁師たちが活動し始める時間になる前にその場を去って元の食堂の片隅に戻った。綱手さんはまだ来ていない。早く目が覚めたふりをして布団をたたんでいると、扉の鍵が開く音がした。
「おはようございます、綱手さん。」
「あらま、今日はなまら早いんだねぇ。寝られなかったかい?」
「いえ、よく眠れました。」
綱手さんはいつものように厨房の中に入って、昨日取れた魚を冷凍庫から取り出して解凍を始める。
仕込みをして、味見をして、ご飯を炊いて、そして漁から帰った男たちを出迎え、温かい食事。
そして……あの男性は、一番最後にやってきた。