海の運命の輪の中に誘い込まれ、海の秩序を守る者の存在を知り、イタチはまた旅立つ。
最後に来たその男性はささっと食べ終えると、皿を洗い終えた俺を指さして綱手さんに声をかけた。
「ちょいと、イタチ借りてもいいべか?」
「ああ、いいよ。昨日話してた地図の件だべさ? イタチ、もういいから行ってきな。」
ちょうどキリのいいタイミングでもあった。
「わかりました。」
布巾で手を拭いて、借り物の上着を羽織り、男性についていく。
てっきりすぐに地図を渡されるものかと思っていたが、男性は船着場に足を向けて、そのうちの一つの小型の船に乗るよう促した。
船着場と船を渡す板の上をそろっと歩いて船に乗るとゆらりと揺れる。重量で傾いたようだ。努めて船の中央に立つようにしたが波で船はぐらぐらと揺れる。それは海と人間の境界線の薄さを感じさせた。男性が乗り込んできて、また船が大きく揺れる。
板が仕舞われて、船着場と船を繋いでいた綱も外されて巻き取っている。
「こっち座れ」
運転席の隣をポンポンと叩かれた。そこにしゃがむと、ゆっくりと船が動き始めて、港から少し離れるとエンジンが音を響かせてその速度を上げた。
俺が漁船に乗りたがっていたから乗せてくれているのだろうか。それとも何か別の理由があるのだろうか。
男性は何も語らないまま港町が遠くに見える場所で船を止めて、エンジンも切られた。
「さて、何から話すべきか……そうだな、まずは礼を。昨日は夢を……ありがとう。若きカムイよ。」
アイヌ、の、言葉……そして、俺が夢を見せたことも知っている。この人は一体……?
「あなたは……何者ですか。」
男性は深い皺のある人間の姿からカムイの姿に変わっていく。船が俺のいる方に傾いて、俺も元のカムイの姿に戻した。
「かつてはアイヌの民からウコチルプと呼ばれていた。ただ、海ではカムイもまた死という運命の輪、海の掟から外れることはできない。俺は人間に捕まり、あの港町で死を待つだけとなった。」
「海の掟、とは……?」
「海は食べるものと食べられるものが共存する場所。何かを食べるものは、何かに食べられるものでもある。食べられたものは新しい命の中でそのものの血となり肉となる。そうして海では全てが循環している。その生と死の循環、運命の輪を乱さない……それが海の掟。」
つまり、死にそうなものを助ける行為は海の中では掟に逆らうことになる、ということか。
でも、それでは何故この人は死んでいないんだ。
掟に従うなら人間に捕まった後食べられているはずだ。
「でも、あなたは生きている。」
「そう……死を待つだけだった。しかし港で働く一人の女性に一目惚れをしてしまった。俺は掟を破り、死という運命の輪から外れ、人間に化けてその女性に求婚した。俺は海に戻らず、妻と共に人間として生きる事を選んだ。」
……カムイが、人間として生きる、なんて。そんな選択肢が……。不可能ではない。けれどカムイとしての自己を捨ててまで……その女性を愛することを選んだのであれば、きっと相当な覚悟があってのことだ。
「だが妻は流行病で床に伏せた。俺は隣町の医者を頼って連れてくることにした。しかし、病の方が一歩早く、妻は死んだ。海では生き死になど当たり前だった。しかしその運命から外れ妻を愛した俺は……妻が死んだ事を、悔やみ続けた。助けられる方法があったかもしれない。救急車を呼ぶ、という方法を知っていれば。あるいは流行病のことをもっとよく知っていれば。……悔やんでも悔やみきれなかった。」
話を聞きながら、まるで見えていたのに防げなかった悔いを持つ自分自身のことを言われているように思えた。何も行動を起こさなければ、きっと俺もまた、悔いを抱えたまま生きることになる。
「港には……潮の流れに乗っていろんなものが流れ着く。妻の死も、潮の流れの導き……運命だったのだと、皆が励ましてくれた。掟を破り、運命の輪を外れても尚、運命からは逃れられない……俺は妻の生きた証を陸に遺して海に戻ろうとは思わなかった。戻ったところで海の秩序を守る者は掟を破った俺を赦さないだろう。人間として生きようと改めて思い直し……気がついたらこんな年になってしまった。」
運命……いや、やっぱり俺とは違う。あの白服に同胞を攫われたのは、運命なんて言葉で言い表すことはできない。海のカムイだからこそ運命を重んじているんだろう。俺たち森のカムイと、海のカムイはやはり違う。何よりも、「海の秩序を守る者」という存在は、森にはいない。
「ただ昨夜見せてくれた夢で、幾年ぶりだろう、妻と話をした。俺は詫びたが、妻は笑っていた……俺と過ごした数年間は宝だと。夢の中で長い長い時間語り合った。……改めて、礼を言わせてくれ。……ありがとう。イタチのおかげで何十年と抱え続けた悔いがようやく消えた。感謝する。若きカムイ。その真の名を聞かせてくれないか。」
俺が見せた夢が、……この人の救いになった、なんて。地図の恩を返すためだったのに。人を助ける事は海では禁忌……だけど人間として生きているこの人は、運命の輪の外にいる。
「トゥスニンケの一族が一人……名はシラㇺスイ。俺たちは何かを得る代償として何かを渡す。……夢は、地図をくれると言ってくれた代償だ。ありがたがることじゃない。当然のことをしただけだ。」
「当然、だとしても俺はその夢で救われた。地図の代償としてはあまりに大きい。同じカムイとして、俺からもその規則に則り、贈りたいものがある。」
波で揺れる船の上で、その人は船の縁に腰をかけ、そのまま後ろに背を倒して行き、静かに海に落ちて行った。
思わず駆け寄って海の中を覗く。が、その姿はもう見えない。
海の秩序を守る者は、禁忌を犯したあの人を罰するかもしれない。それをわかっていて何故、海の中へ……贈りたかった物とは、一体何だ。
しばらくの間、船に取り残されたまま。波で揺れる船の上で、彼が消えた海を見つめ続けた。
船の操り方は見ていたから恐らくは一人で戻ることになっても何とかなるとは思う。でも俺に何かを贈ろうと海に入ったあの人を置いて一人港に戻るのは躊躇われた。
腰を下ろし、波を感じながら過ごすこと何刻経っただろうか。太陽が少し傾いた頃、船の反対側から水が跳ねる音がして振り返る。あの人だった。
「……無茶なことを。あなたは禁忌を破ったのに、」
「それでも、あの夢を見せてくれたシラㇺスイに恩を返したかった。禁忌を破った俺を、海の秩序を守る者が罰しに来るかもしれない。それでも構わない。俺は人間として十分生きた。心残りも、もうない。」
「そうまでして、一体何を俺に……」
船が傾き、足に力を込めた。ウコチルプは、人間の姿に戻っていた。
「いずれわかる。イタチ、お前が求めていた海の情報、海のカムイ、それらに触れる機会を作る手助けをした。……そうだ、これも。」
カバンの中から、10枚ほどの紙を取り出す。それは地図だった。北海道の地図、そして道がわかるもの、最後に……見たことがない、陸と海が描かれたもの。
「この先まだ旅をするんだろう? どこに向かうかは知らんが、海について知りたがっていたから道標となる海沿いの地図を出しておいた。それと最後のは世界地図だ。」
世界の、地図。北海道の場所を探した。ほんの小さく描かれているそれを見つけた。……世界は、こんなにも……広くて、そして……海に、囲まれている。
「海は繋がっている、陸と違ってな。世界中を回遊魚が旅をしながら方々の情報を運んでくる。海の中は世界と繋がっているんだ。イタチが知りたがっていたアメリカの事も……海の中の出来事であればいずれ海の秩序を守る者の耳に入るだろう。」
つまり、俺が目指すべきなのは、海の秩序を守る者に会いに行く事。そのために命をかけてくれた。
「……ありがとう、ございます。」
……俺は。
助けられてばかりだ。
人間の温かさに、カムイの心配りに。
この恩は、いずれ返さなければいけない。同胞を救い出すことができた、そのあかつきに。
「すみません……ありがとう、以外の言葉が、浮かばず……。」
「年寄りが若ぇ衆を導くのは、歳食ったもんの責務ってやつだ。なんも、そう気にするな。」
その深い皺が刻まれた笑顔は、さっぱりしたような顔だった。温かい人間の笑顔。この人は……もう、人間として生きることを決めた人だから、こんな顔ができるのだろう。
願わくば、この人が秩序を守る者に罰せられる未来が来ないことを……。
港に戻って、もやい綱が杭にかけられる。それを引っ張って岸に寄せて、あの板が船と陸を繋いだ。
そっと板の上に足を置き、陸に上がると揺らぐことのない大地にほっとする。
「港ば頼りながら行くといいべさ。港っちゅうのは、流れ着く先なんだわ。何が流れ着いたって、港の人間はなんも気にせず受け入れるから誰も詮索なんてしねえ。イタチにはその方が都合いいべ?」
流れ着く者を受け入れる、それが港……だからここの人たちは皆。
「……綱手さんに、挨拶をしてから行きます。」
「おう、旅の無事を祈っとくべ。人間の身じゃあ、なんの加護にもならんけどな。」
綱を縛り直しながら笑う、その深い皺が刻まれた顔を……きっと忘れる事はないだろう。そしてこの港町でお世話になった人たちも。
食堂には、綱手さんが待っていた。俺を待っていた、かのようににっと笑う。
「綱手さん、」
「わかってるわ、行くんだべ? その上着は貸しといてあげるから……いつか返しに来なさい。そのときはまた、なまら美味いもん食わしてやるからさ。」
「……はい、きっと返しに来ます……! ありがとう、ございました。」
頭を深く下げる。人間のお礼のやり方。
この町で色んなことを学んだ。色んなことを得た。俺が前に進むために必要なことを。
頭を上げて、扉の向こうに一歩踏み出す。
またひとりで道を行くことになる。でも俺の手には地図がある。そして人間の温かさを忘れない限り、この胸が寒くなる事はない。
道路沿いを歩いていると、見たことのない一際大きな車が横に止まった。
「兄ちゃん、なしてそんなとこ歩いてるのさ? 乗ってけ、乗ってけ!」
それは、人がたくさん乗れるように作られた車だった。
「乗るにはいくらかかりますか?」
「このバスはここらのわらしを学校に乗せてくバスだべさ。乗車賃なんてなんもいらねえわ。遠慮せんでいいから、早く乗りな!」
見ると、俺よりも幼い子供が何人か乗っている。
「では行ける場所まで、乗らせてもらいます。」
一番前の席、運転席の後ろに腰掛けた。バスはゆっくりと動き始める。下は凍った雪だから、丸いタイヤを転がす車は慎重に進むのだろう。それでも歩くよりは早く、何よりバスの中は温かかった。
学校へ向かう曲がり道の前で止めてもらい、お礼を言ってバスを降りる。
人間はこんなにもやさしく温かいのに。……白服は。あれは本当に人間なのか。いや、人間である事は間違いない。
善たる人間がいるのと同時に、悪しき人間も存在する……ということか。
地図を見て、今の場所を確認する。数日飛べば次の集落には辿り着けそうだ。カムイの姿になれば。けれど、この上着は人間に見えない姿になると持っていけなくなってしまう。
俺は歩くことにした。何週間かかろうが、この借りた上着を返す約束をしたのだから。人間の姿のまま、寒さの中、風に吹かれ、また雪に埋まるかもしれない。だけどこの上着を置いていく事は出来なかった。
歩きながら、遠くに砂浜があるのを見つけた。ずっと切り立った崖沿いに歩いていたから、間近に海を見られるその砂浜に興味を惹かれた。
もしかしたら、海の者と出会えるかもしれない。ウコチルプはその機会を作ったと言っていた。
石と砂が混ざる少し窪んだその場所に、道から降りていく。水際に木の破片だかプラスチックの容器だかが打ち上げられている。生き物の気配は感じない。
「ここには……いないか。」
『……ふむ、いないとも言える。いるとも言える。』
どこからか響いてくる声に辺りを見回した、が、やはり生き物の気配はない。となると、海の中からの声?
『我は岩、我は石、我は砂、我は波、我はこの小さな入江そのもの。噂に聞いた若いカムイはお前だね。』
噂……それはもしかして、ウコチルプの。
「この海の秩序を守る者に会いたい。どこに行けば会えるかご存知か。」
どこにかけたらいいのかわからない声を入江に向けて張り上げる。
『大声は不要よ。秩序を守る者か……あれは北の海を巡っている。とどまることはない。何故その者に会いたいのか。』
凍える手を握り締めた。
「海のことを全て知る者だと聞いた。海で起きた出来事について聞きたい。……とどまらないならば、……会うことは、叶わないだろうか。」
近づいたと思ったら遠ざかる。まるで波打つ海のように。俺は答えを知りうる者に近づく事は出来ないのか。それとも何か方法はあるのか……。
『そう、巡りながらあれは海のことを知り行く。お前のことも。あれの気が向けば、あれからお前に近づいてくるだろうよ。』
気が、向けば。向かなければ……一生会えないかもしれないと、そういう可能性もあるということか……。
「ならばその者に巡り会ったら伝えてくれ。俺がその者に会いたいと願っていることを。……聞き届けてくれ。」
静寂が包む。少しでも、何だっていい。きっかけを。機会を。この入江に俺ができる事は何もない。ゴミのようなものを拾うくらいしか。でもこの地形にはひとつふたつゴミを拾ったところでまた何かが流れ着くのだろう。
打ち上げられた、プラスチックの容器を拾い上げた。人間が捨てたのだろうか。それとも気まぐれな風に飛ばされたのだろうか。
そう、自然というものは気まぐれだ。森も、山も、湖も、そしてそれらに棲むカムイたちも。人間と共存していた俺たちは珍しい部類だった。
……気まぐれが、俺の方を向いてくれたなら……。
『……ふ、噂通りの者よ。潮の流れはこの入江には届かんが…… 承った。巡り合わせがあれば話をしよう。』
手に持つ容器から顔を上げる。
「お願いします……!」
それきり、声はしなくなった。
この入江のカムイもまた、気まぐれという事なんだろう。
少しだけゴミを拾って、それを岩の上に集めて口から炎を吹く。
燃え上がったそれはすぐに黒い痕を残して風に飛ばされていった。
……運命に流されるのか。それとも、抗うのか。
その答えを、俺はまだ知らない。
※ウコチルプ:海の者が交わる(交尾する)という意味だが人間に恵みをもたらすものとしての意味を持つ。
※シラㇺスイ:静寂を意味する。または荒れた海に対して穏やかになるよう祈る際に用いられる言葉。この話ではイタチのアイヌ名。
※入江のカムイ:特殊な地形もカムイとして信仰されていた。岬や崖などが多い。カムイとしての固有の名を呼ぶアイヌがいなくなってからも、そこはカムイとして在り続ける。