ひたすら歩いた。海を眺めながら、ただ歩いた。歩くことによって、疲れというものを経験した。足の痛みも、靴擦れも。
人間が作った硬いアスファルトの道は、車が通るために最適化されていて、歩く者には優しくはなかった。
踏み固められていない端を歩けば、積もった雪に靴を埋めてその冷たさが靴の中にじわじわと染み込む。
足は冷えると感覚がなくなっていき、前へ踏み出す力が弱くなる。
上着の襟首を手で掴んで寄せながら、吐く息の白さにこの身体が熱で動いている人の身だと実感する。
夜になれば暗闇に包まれ道のどこを歩くべきかわからない。それに、疲れや空腹も何かで補う必要がある。
海を眺めながら、サスケと村の子どもたちと一緒に湖に釣りに行ったことを思い出した。
ただ釣竿はないし岸のすぐそこに食べられる魚がいるとも思えない。焼くための炎は出せるが食べられるものがない。海と反対側の道の端に移動して石と木の枝を集めて炎を吹き、せめてと凍える体を温める。
人間の身体を手放せばこんな苦労をする事はない。けれど……。
上着の袖の中に手を入れる。
この上着を置いていくわけには、いかない。
炎の明るさに照らされた地図は、次の集落までまだ半ばほどしか進めていない事を知らしめる。
……いや、半分までは来たんだ。同じだけまた歩けば良い。
小枝が燃え尽きて熱い石が残る。これがあれば多少は寒さを凌げるだろう。
北海道の端を進むだけでこの早さでは、アメリカに辿り着くのに何年かかるのだろうか。飛行機とやらに乗るのが恐らくは賢い方法だ。ただそれに乗るには多額の金と身分を証明するものが必要だと教わった。カムイの身に人間の身分などない。別の方法を考えなければいけない。辿り着くだけで疲弊していては、助けられるものも助けられない。
……サスケは無事なんだろうか。母さん、父さん、イズミ……捕まった後皆は無事でいてくれるのだろうか。
……眠ろう、この身体には休息が、必要だ。
翌る日も翌る日も、歩き続けた。空腹に腹が音を鳴らす。前へ踏み出す足は力無く、自分が弱っている事はわかっていた。でも、どんなに遅くとも足を前に出し続ける事はやめなかった。
後方から車の音が聞こえてくる。
雪の積もった道の端に移ろうとして、雪に足を取られて膝をついた。
後ろからやってきた車は、その俺の傍らに止まった。
見てみれば、大きい……荷物を運ぶための車なんだろう。窓が開いて男性が肘をかけて身を乗り出す。
「おい、あんちゃん、大丈夫かい。なしてまた、あずましくないとこ歩いてるのさ。」
顔を上げると、驚きと心配の色を見せる表情が何かを感じ取ったらしく、ドアが開いてその人は降りてきた。
「……港に、行くため、に……この、海沿いを、……歩いて、います。」
言いながら、カチカチと歯が鳴る。冷え切った身体に雪の冷たさが身体を震わせる。
「港だべ? 歩きだば何日かかるかわからんぞ。ちょうど俺も港行くんだわ。乗ってけ、乗ってけ!」
「いい、ん、ですか……」
「倒れかかってるのを見過ごすほど、人間終わっちゃいねえべさ。ほれ、手貸してみれ。」
関節が、硬くなっているのがわかる。手を伸ばそうと上げた腕は重く、差し出された手に届かなかった。その手首を温かい手が握り、力強く引っ張り上げる。
もう手も足も、力がほとんど入っていなかった。
「……、り、がとう、ござ……い、」
「あんちゃん、なした? とりあえず助手席乗れ。身体あっためれ。身体こわすぞ!」
男性の力は強かった。普通の車よりも高い場所にある車の椅子に乗せられてドアが勢いよく閉まる。
反対側から運転席に乗り込んできた男性は、ドアを閉めてシートベルトをつけると、ゆっくりと大きな車を運転し始めた。
温かい風が凍った身を溶かしていくように身体の中の熱と繋がっていく。ガタガタと止まらなかった震えは、鳴り止まなかった歯は、十数分で落ち着いた。
「助かりました……ありがとうございます。……お礼を、したいのですが……何もなく……。」
「本当になぁ、俺がここ通らなかったら、あんちゃん死んでたべさ。なしてまた、そったら無茶やったのよ?」
どうして……上着を、返すため……と言っても、きっと伝わらないだろう。
「他に方法が、思いつかず……歩くしかない、と。」
「どっから来たんだか知らんけど、そったら歩くなんて、わやだわ。ヒッチハイクなり、なんかあったべや?」
「ヒッチハイク……?」
「俺みたいなのに声かけて車乗せてもらうんだわ。運良けりゃ一発で目的地まで行けるべ。よくある話だ、礼なんかいいから。気持ちだけで十分だ。」
……人間は。
何の見返りも求めずに誰かを助ける……それを何度も見てきた。俺たちは、力を貸すならば代償を求める。その物々交換であの小さな村は廻っていた。
俺も人間の身としてここにいるからには、困っている人がいれば何も考えずに手を差し伸べなければ人間の流儀に反する。
でも人間の身である俺にできることなんて、ほとんどない。
助けられてばかりいる自分が情けない、それと同時に人間の温かさは尊いと感じる。
「なんも持ってねえってことは、食いもんもねえんだべ。港まで我慢汁だぞ、着いたら腹いっぱい食え!」
港……食事。ああ、食べたい。腹が一杯になるまで温かいご飯を……。温かい車の中で、眠気が頭を覆っていく。
「……そう、します。……少し、休んでも、いいですか。」
「なんもだ、気にするな。着いたら起こしてやるから、今は休んでれ。」
瞼はもう落ちかけていた。お礼を……伝え、……。
「あんちゃん、生きてるか? 着いたぞ、起きれ。食堂開いてるべか……わからんけど、行ってみれ。俺は仕事だわ。またどっかで見かけたら乗せてやるから、今はともかく飯食いな!」
身体を揺り動かされて、気がついた。眠っていた……ようだ。体は温まっている。けれど濡れたズボンはきっと外に出るとすぐに氷のように冷たくなるだろう。
食堂にストーブがあれば乾くだろうか?
「ありがとう、ございました……!」
車から降りて頭を下げ、港の端に見つけた食堂らしき建物の戸を開ける。洗い物をしていたらしき女性が目を見開いた。
「あれま、見ない顔だこと。」
「……すみません、食べ物を、何でもいいので……食べさせて貰えませんか。」
「ちょっと待って、いいから座り。残りもんで何かしらこしゃってやるから。」
港には色んなものが流れ着く……港の人は流れ着くものを詮索しない。ここでも、同じだ……あの話は本当だった。椅子に座り、テーブルに前腕を預けて俯きながら待っていると、大きな……丼に何か色々なものが載ったものと箸が差し出された。
「残りもんの方が美味しいかもしれんねぇ。あるもんでチャチャっと作った『なんでも丼』だ。腹ペコだべ? 早く食べれ!」
箸を手に取り熱い丼に手を添えた。下に白いご飯、上には何だかわからないが揚げ物が載っている。
それを見た瞬間箸を丼に差し込みご飯をすくっていた。食べなければ。食べなければこの身体は持たない。丼を半分平らげたところで女性はどこかへ行った。俺はこの食事しか目に入っていなかった。早く食べすぎたのかしゃっくりが出るのを喉で堪えながら、いつの間にか丼は空になっていた。
腹は……満腹だ。小さい魚や海藻の素揚げ、よくわからないけど多分魚、それに甘辛いタレがかかっていた丼だったと、食べ終わってから気がつく。
そして食堂の中の女性を探すために視線を上げると、奥の方で、誰かがテレビを見ているのが見えた。
空腹のあまり、周りが見えていなかった。そういえば俺は、いただきます、と言っただろうか?
「すみません、ありがとうございました。突然の訪問に温かい食事、感謝します。とても美味しかったです。ご馳走様でした。」
調理場の中から顔を出した女性が笑う。
「なんも、たまにあることだから気にしなくていいわ。飯代、100円だけ置いときな。」
「それは……安すぎます。きちんとした対価を払わせてください。」
女性はまた目を見開いて、そして笑った。
「いやぁ、本当珍しい客だこと。したっけ、お代は一千万円だべさ!」
いっせんまん……それはいくらなんだ?
言葉に詰まっていると、奥でテレビを見ていた人がふっと笑ったのが聞こえた。
「女将さん、彼にはそういう冗談は通じないようですよ。私が一千万円払うので勘弁してやってください。」
大人の男性の声だった。落ち着いていて、訛りもなく、そして敬語。港では見かけなかったタイプの人だ。
「したっけ、それでいいわ。あんたもニュース終わるんでしょ?ほら、さっさと行った、行った!」テレビが真っ暗になる。立ち上がったその身体は巨大で2メートルほどありそうな巨漢だった。こちらに向け歩いてくるその顔は青白い。穏やかに口角を上げる口元、そしてその目を見て、その男が人間ではないと感じる。
「あなたも早く出て行った方が良いですよ。女将さんはせっかちですからねぇ。よろしければ一緒に行きましょう。」
人でない、ならばカムイ?
その人ならざる者についていくと、波止場に腰を下ろした。……腰を下ろしてもやはり、かなりの体格だ。
「あなたは、何者ですか。」
その者は海の向こうに視線を向けたまま口を開く。
「さて、どう名乗りましょうか。わかりやすくいきましょう。私の名は干柿鬼鮫。あなたと同じカムイです。」
やはり、カムイ……! それも、海に由縁のありそうな名だ。何か知っているかもしれない。
「失礼しました、俺が先に名乗るべきところを……。うちはイタチ、森で人間と共存していたカムイの一族の一人です。」
「知っています。」
「……え?」
「仲間を悪しき人間に奪われ、唯一生き伸びた者。」
そんな事はウコチルプにも話していない。クンネレッカムイは陸の上、森の中しか見守っていないはずだ。それなのに、干柿鬼鮫とやらは何故……どこでそれを知ったんだ。
「そして、隣町の港から無謀なことに人間の姿のまま歩いてここまで来ようとした若者。」
まさか。
干柿鬼鮫の正体はもしかしたら。
そう思わざるを得なかった。そこまでいろいろな事を知っているなんて、そうとしか思えない。
「……あなたは、海の秩序を守る者、ですか。」
干柿鬼鮫は海を見つめたまま答える。
「そう呼ぶ者もいますねえ。ただ、私が見ているのはこの北の海……オホーツク海だけですが。」
やはり……!
この者は、俺のことをいつからなのか知っている。俺は気付かなかったが、海から何者かが俺の様子を見てこの者に伝えていた。あるいはもしかしたら、俺はずっとこの者に見られていたのかもしれない。
ただ……入江のカムイは、海の秩序を守る者は海を巡っていてとどまることはないと言っていた。
先ほどの食堂の様子は、まるでいつもテレビを見に来ているかのような様子だった。
「……私のことが気になりますか? あなたは私に何を一番に聞きたいです?」
聞きたいことは山ほどある……けれど一番聞きたいのは。
「……俺の同胞を攫った白服の悪しき人間が乗った船が向かった先を知りたい。海は世界と繋がっている、ならばあなたはご存知ではないですか。」
干柿鬼鮫は海を見ながら、その口角を上げた。
「一番……が、それですか。悪くないですねぇ。ええ、決して悪くない。答えて差し上げます。その代わりに私の願いを聞いていただけませんか。言葉通り、聞くだけでも結構。叶えて頂ければ光栄。……いかがですか?」
海の秩序を守る者、の、俺への願い……?
一体何なのか想像もつかない。けれど聞くだけでもいいのであれば、断る余地はない。
「聞きます。答えを。」
干柿鬼鮫はこちらを振り向いた。やはり青白い肌は独特だ。開いた口から覗く歯はギザギザと尖っている。
「あの船はアメリカの北の大地、アラスカに行きました。途中で大きな船に乗り換えています。西の大海の者から聞いた話です。」
アメリカ、あの地図で見た遠いあの場所……やはり、あそこなのか。……遠い、どうやって行けばいいんだ。
「次に願いの方をお伝えします。……うちはイタチ、いや、イタチさん。あなたの道程に私も付き添わせてくれませんか。」
俺は、何を言っているのか理解するのに数秒を要した。海の秩序を守る者が、俺に対して「さん」と敬称をつけて呼び、俺に付き添いたいと、確かにこの者はそう言った。
「すみませんが――何故そう願うに至ったのか説明を頂けませんか。」
「……海の外にいる者は、海の中から何者かが見ていても光の屈折により気がつかないことが多い。イタチさん、あなたの行動は全て海の者たちが見ていました。隣町の港まで行く様子も、港での様子も。……しかしカムイの姿ではなく人間の姿のまま歩く様子は不可解でした。でもお目にかかることで理解できた。……その上着、人間から借りた物ですね。返しに行くとでも約束したのでしょう。カムイの姿に戻らなかった理由は約束のため。しかし人間の姿で移動する限り飢えて衰弱する……。」
……洞察力、全てを知るだけでなく、その背景をも見通す頭脳……。そんな存在が、何故俺に。
「衰弱と飢えの極地にありながら、あなたの目は白服への復讐と仲間の奪還、そのためならば何でもする……という強い意志を宿していました。……これが理由です。私の願いは聞き届けられましたか?」