理由を聞かされてもなお納得のいく答えにはなっていなかった。強い意志は確かにあると思う。だけど海の秩序を守る者が、その責務を捨てて俺に付き添いたいと言う理由にはならない。
「目的は……何ですか。」
端的に尋ねた。その願いをするに至った動機がまるで見えない。
干柿鬼鮫はすっと立ち上がった。
「ここでは誰の耳に入るかわかりません。海の中へ。」
その「誰」は何者を想定した「誰」なのか。漁師なのか、他のカムイなのか、あるいは白服の仲間がもしかしてうろついているのか。
ただ、海へと言われても泳いだ経験はない。特に、今は人間の姿だ。水の中では息は出来まい。
カムイの姿に変えた干柿鬼鮫は、静かに海の中に入っていく。その名の鮫のカムイらしい。均整の取れた肉体にヒレのある姿は海の王と思える威厳があった。
「俺は海に入れません。」
「大丈夫ですよ、空気の球を作りますから。」
海の中に入ったその手がこちらに伸ばされる。大丈夫、という言葉を信じて海に一歩足を踏み出した。
海に落ちることなく、踏み出した足は宙に浮いている。なのにしっかりと地に着いている感覚。……これが空気の球……。
完全にその中に入ると、干柿鬼鮫と俺の周りを包む空気の球は水底へ向かって行った。
どんどん光が届かなくなっていく海の奥深く。心なしか空気の球が小さくなっていっているように思えた。砂浜のような底に足がつく。正確には、空気の球越しに。悠然と泳いでいた干柿鬼鮫もその海底に足をつけるとこちらを振り向いた。
「海の中は落ち着きます。イタチさんも森の中にいた方が落ち着くのではないですか?」
そんな世間話はいい。早く本題に。
「陸での続きを。目的は何ですか。」
余裕を見せるかのように上げていた口角が下がり、真剣な面持ちに変わる。
「……私が守っている海の中に、奴等は突如やってきた。カムイの力を封じる不思議な道具を用いて北の海に棲むあるカムイの一族を根こそぎ連れ去った。……私の耳に入った頃には西の大海に出ており追跡できず、西の海の者から情報を聞き集め、奴等がアメリカに渡った事を知りました。」
……白服は、俺たちだけではなく他のカムイも……?
「海の秩序を守る者として、奴等の蛮行を許すことはできません。しかし私は役割を果たす為北の海からは出られません。更に言えば、海での情報は集まっても、西の海の向こうまで行くことは叶わない。」
……例え西の海の向こうまで行けたとしても、陸地の情報がなければその先が追えない。海を知る者だけでは白服にたどり着くには限界があるという事か。
それにしても、他にも攫われたカムイがいたなんて。……白服は一体何を企てているんだ。
「だからあなたの目を見て決めたんです。あなたについて行けば、あなたはいつか必ず奴等の元に辿り着く。その執念をその目に見ました。」
辿り着く、あの果てしなく遠い場所に、俺が? 行く方法も見当がつかないのに……買い被りだ。
「俺はそんなに強くはない。森の中の小さな村で生きてきた、人間のことも世界のことも何も知らない者だ。」
「……知らない、だからこそ人間と共に港で過ごし知識を得ようとした。カムイを頼り情報を得ようとした。あなたは行動する。そしてやり遂げる人です。だから私はそんなイタチさんに付き添いたい。……そうすれば、奴等に鉄槌を……下すことが出来る。……という、私の勝手な都合ですが。」
鉄槌を下す、というのは、カムイの中では「死に至らしめる」とほぼ同義だ。干柿鬼鮫も俺と同じように、復讐を考えている。上位の存在だったその者が、隣に降りて来たような感覚を覚える。
でも、それをするということは。
「憎しみのこころで人間を殺めたら、ウェンカムイに」
「なってやろうじゃないですか。アメリカの地で災禍を振り撒く存在になれるのであれば本望。それ程に私は怒りと憎しみを秘めています。」
ウェンカムイに、なってでも。……その心算も同じ。
同胞以外にこの言葉を使う日が来るとは思ってもみなかった。この者は、俺と同じだ。白服に仲間を連れ去られ憎しみを抱く……仲間。
しかし俺は、この者の言うように本当に辿り着くことが出来るのか。
「……まだお悩みですか? では具体的に。あなたに不足しているのは情報。私はこれまでに得た人間、その生活や文明、そして海の情報を惜しみなく提供します。それを手がかりにしてイタチさんは白服にたどり着くまでの道程を作る。……あなたにとって、悪くないことだと思いますが。」
悪くないのは当然だ、人間に馴染みながら広く海の情報を知る干柿鬼鮫がこれからの旅路、隣にいてくれるならばこれ以上に心強い者はいない。
ただ、俺にとって都合が良すぎる。そんなに簡単に海の秩序を守る者が地上を歩く俺に着いてくるとは俄かには信じ難い。
何か裏があるのではないかと考えるのは、自然な流れだろう。
「……仮に、俺が是とした時、北の海はどうするんですか。秩序を守る者がいなくなれば、それこそ白服がやりたい放題し始めるかもしれない。」
干柿鬼鮫は、俺が返事を保留し続けていることに対して苛立ちもせず、むしろまた口角を上げる。
「北の海は後釜を残していきますので、ご心配なく。」
「あなたが俺の敵ではない証はありますか。」
「……お答えします。まず海の運命の輪から外れた者……あれはかつて海の秩序、運命の輪を乱した。本来であれば処罰の対象です。しかしイタチさん、あなたという存在を海の運命の輪に導いた。……私はあれを罰することはしません。これがまず一点。」
ウコチルプのことか……! 処罰することはない、という言葉に安堵する。あの人はこれからもあの港で人間として生きていくことが出来る。
……しかし俺を導いた存在を罰しなかったから、俺の敵ではない、と言いたいのか。これだけでは信じるに足る根拠にはならない。
「慎重ですねぇ、やはりあなたは良い目をしている。では二点目、こちらはどうでしょう。隣町の港から無謀にも人間の姿で歩いて来た結果、寒さと飢えで倒れかかったところをトラックの運転手が発見。……これは偶然運が良かった……と思っていますか?」
そう尋ねるということは、故意、だったと言いたいのか。
「一週間食べなければこの北の大地で人間が生きるのは難しい。私はこのままではイタチさんが死にかねないと見ていられなくなり、今朝の漁で人間に大盤振る舞いをしました。そして思いもよらぬ大漁に臨時のトラックが呼ばれた。それがあなたを助けたトラックの運転手だった、というわけです。」
言葉が出なかった。あの人がいなければ俺は確かに衰弱して倒れていただろう。俺の命を、干柿鬼鮫は握っていて、そして助けた。俺にとっては恩人と呼ぶに相応しい。だが俺を助けたのは「見ていられなくなった」、それだけが理由なのか。それとも他の狙いがあったのか。俺を助けた事で海の運命の輪は、干柿鬼鮫にとって何か良い効果があったのか。
……待て、この者は海の秩序を守る者であり、一人のカムイでもある。今俺は少しこの両者が整理できていないようだ。
「……あなたは個人的感情で動いていますか。それとも秩序を守る者として存在していますか。」
干柿鬼鮫は依然として口角を上げている。答えはもう決まっているようだ。
「最初は秩序を守る者として。海の中の出来事は潮に流されていずれ泡となり消えていきます。しかし私の中の憎しみは流れる事なくとどまり続けています。ですから回答は両方、ですが今は個人的な感情です。カムイは感情を持つべきではない。だから私はもうカムイではないかもしれない。そこにイタチさん、あなたの存在を知った。テレビのニュースで流れた吹雪で立ち往生していた親子が口にした、『神様が助けてくれた』という言葉に興味を持ち調べた。それからずっとあなたのことを見続けてきました。そして実際にあなたに会い、その目を見て確信した。あなたは奴らに辿り着く運命にある……潮の流れではなく自身で流れを作っていく。あなたはそういう人です。」
あの親子が、テレビに……。
カムイは感情を持つべきではない、父さんのような在り方だった秩序を守る者が今は個人的感情で動いている。後釜も用意して。俺を見続け、助け、そして海を去る段取りまでしている。
……この者の言葉に、偽りはない。
俺は顔を上げてその巨体の上にある顔に視線を向けた。
「試すような事を言い大変失礼しました。そして命を救ってくれた事も感謝します。あなたの願いを聞くかどうか、……答えは是です。」
「……ありがとうございます。イタチさんの旅路をご一緒できるとは光栄。詫びることはありません。むしろその用心深さに安堵しています。……この目に狂いはありませんでした。」
契約……いや、約束、が、成立した。
これから進む道はひとりじゃない、運命を共にする者、干柿鬼鮫が傍にいる。その心強さ。
「ひとつだけ……あなたはウェンカムイになりアメリカで災禍を振り撒くと言いました。……俺もそのつもりでいます。他のカムイをも攫っている白服を俺はきっと殺す。あなたがウェンカムイになるときは、俺もまたウェンカムイになる。」
「それは……単なる宣言ですか? それとも約束……誓い?」
宣言ではない。約束……とも違う。これから運命を共にする者との、これは。
「……誓いです。あなただけに手を汚させるような事はさせません。俺もこの手で、殺します。」
干柿鬼鮫はその尖った歯を見せて笑った
「……その時が来るのが楽しみです。では改めて……よろしくお願いします、イタチさん。」
差し出された手、人間が挨拶をするときに、または約束をするときにする儀式。空気の球の中に伸びてきたその手を、右手で握った。ヒヤリとした大きくごつごつとした手は、戦い……または争いに慣れている事を物語る。
「では、上に戻っていてください。私は海の者に用事がありますので。」
ふわりと空気の球が動く、徐々に天の光が届く場所まで上がっていく。
これだけ深い海が、いや、もっと深い場所もあるかもしれない。それが、世界の半分以上を占めているというスケールの大きさに改めて驚く。
西の大海……太平洋の向こう。そのどこかに皆が、サスケがいる。
遠い、けれど一歩ぐらいは近づいた。干柿鬼鮫が共にいる事で、きっと。
海から空気の球が出る。どんな仕掛けなのか、波止場にそろっと足を下ろすとそこは確かに硬い地面だった。
空気の球は無くなったのだろうか。元いた場所に手を伸ばすが、何の感触もない。ただの空気。
白服の向かった先を探してここまで来た。ここから先は……他にも同じ目に遭った者達がいないかを探る行程。陸地の真ん中には奴らは来れないだろう。広大な自然があるとはいえ、人間も住んでいる。あまり奥に行って人間に見つかるのは避けるはずだ。船と行き来する日数もかかる。隠密行動をとりながら事を起こすには、俺たちの村ぐらいの距離が限界のはずだ。
そして海で囲まれているとはいえ、西の海から東側に回り込むのも考えづらい。東側に奴らが現れるとしたら、海路ではなく陸路……あの荷物を運ぶ車のような大きな車なら、奴らは全員乗り込める。
「方針が決まったようで。」
いつの間にか背後に干柿鬼鮫がいた。気配を消すのが……上手いようだ。
地図を見る俺を背後から覗き込む。
「森に向かう。太平洋に近い森だ。」
森の中であればクンネレッカムイが見ているはず。手がかりはゼロじゃない。……向かう先は……森だ。
「鬼鮫さんはこの町の人にも挨拶をするんでしょう。行ってきてください。ここで待ちます。」
「…………鬼鮫さん、は耳に馴染まないので、鬼鮫と呼んでください、イタチさん。」
年長者で海の秩序を守る者が、自分は敬称をつけて敬語なのに俺には呼び捨てにしろ……とは、……変わった要求だ。
「あなたがイタチさんと呼ぶ限り、俺も鬼鮫さんと呼びます。」
「私は誰に対してもこうなので。イタチさんだけ特別扱いにはできませんねぇ。そして誰に対しても鬼鮫と呼ぶように言っているので『さん』をつけられると何とも言い難い感覚を覚えます。元の立場は考えず、私はあなたに付き従う者、あなたは私を導く者……としてお考えください。」
出会った時から……何となく思っていたが、この男はよく喋る。俺があまり喋らない方だからか、会話をしようものなら恐らく四分の三はこの男が喋っているだろう。……いや、五分の四くらいか。
でもうるさいわけではない。言葉を通して考えや感情を伝えてくれるのはわかりやすくてありがたい。……という事は、俺は何を考えているのかわかりづらい存在ということになるが……。
伝えたい言葉を向ける先は、……今、太平洋の向こうにいる。……必ず、取り返す。その果てがウェンカムイだとしても、サスケだけは。
「では、……鬼鮫。人間の身でこの地図のあたりに行きたいが、鬼鮫なら何日かかる目算をつけますか。」
「……死にかけたというのにまだその上着を気にしてるんです? 私の家……といっても大したものではありませんが、そこに置いて行っていずれ取りに来ればいいのでは?」
「……家、が、地上にあるんですか?」
「身寄りのない老婆を偶然看取ってしまいましてね、そのまま譲り受けたんです。あの家の中ならよっぽど大丈夫ですよ。」
鬼鮫は俺の悩みや懸念、疑問を次々と薙ぎ払っていく。約束のためとはいえ、この上着は旅においては枷でもあった。
この男になら、託せる。
「それであれば……預けます。敵の位置と殲滅が現実的になったら、またここに戻ってきて綱手さんに上着を返しに。」
それからアメリカに向かって俺と鬼鮫は。
鬼鮫は尖った歯を見せて笑いながら、目を細めて「そうですね」と俺をその家まで案内した。