約束   作:江夏ケイ

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海の底で鬼鮫と誓い合った後、鬼鮫の家に行き、鬼鮫の考え方や知識の源泉、人間に対する複雑な思いを知る。


対話

 その家までの道中、似たようなやりとりを繰り返していた。

「鬼鮫さん」

「鬼鮫です」

「では俺もイタチと呼んでください」

「それはできませんイタチさん」

「なら鬼鮫さんと呼びます」

「やめて下さい、鬼鮫でいいですって」

 何度か繰り返していたらそのやりとりを見かけた通りすがりの漁師が豪快に笑う。

「にいちゃん、こいつに何言っても無駄だべさ。変なとこでがんべなんだわ。ここは負けてやってくれや。」

 がんべ……?

 干柿鬼鮫もまた豪快に笑う。

「さすが、よくわかっていらっしゃる。」

 文脈的に……頑固、の事だろうか。

「と、いうわけです。諦めてください。」

 こちらを振り返った干柿鬼鮫の顔は意地の悪そうな笑顔だった。意志を曲げるつもりはないらしい。

「……鬼鮫。……これで満足ですか。」

「もうひと押し、敬語も不要です。」

 何の目的でそう呼ばせようとしているのか。それとも海の中ではこれが定着して徹底されていたのだろうか。秩序を守る、という上位の立場でありながら低姿勢で相手を尊重するような振る舞いをする鬼鮫は奇妙に映った。

 ……秩序を守るものが森には存在していなかった。だから想像するしかないが、北の海はそうやって秩序を保ってきたのだろうか。あの肉体……強靭な強さを思わせた。そんな力を持ちながら、力で押さえつけるのではなく、あくまで対等の立場で相手を尊重しながら必要な時には処罰を与える。

 だとしたら、北の海に棲む者たちにとって畏怖の対象というよりもよき為政者だったのだろう。

 しかし年上でそんな立場にいた者に呼び捨てで敬語も捨てろと言われても抵抗感は拭えない。

「鬼鮫がそう望むのなら、努力はしよう……。だが簡単には、……慣れない。」

「安心してください。イタチさんはそういう方だと思っていますので、慣れるまで待ちますよ。……あの家です。」

 鬼鮫が指で示したのは、思っていたよりも立派な家だった。表札にはちゃんと「干柿」と書いてある。その軒先に、本物の干柿が吊るしてあるのは何かの冗談のつもりなのだろうか。

 ……一度だけ、食べたことがあった。本土に出稼ぎに行っていた村人が帰ってきた時の手土産が、そのまま儀式の際に供えられた。サスケと半分ずつ食べたあの干し柿は優しい甘さで、美味しいな、とふたりで笑い合って……。

 吊るされたそれを目の端に映しながら、鬼鮫が玄関の鍵を開けるのを見守る。ガラス戸を開くと、がらんとした玄関。でも手入れは行き届いた室内。地上で、しかも人間の領域なのに、頻繁に出入りしているのが見て取れた。上がらせてもらうと、すぐ左の部屋は本や紙の束がたくさん置いてある。反対側の部屋に鬼鮫は入っていった。

 そこは居間にあたる部屋らしい。

 いくつか服がかけてある一角から三角形の針金を取り出して、もう片方の手を俺の方へ向けた。

「上着はここでお預かりします。」

 寒さから身を、こころを温めてくれた上着を脱ぎ、鬼鮫に手渡すと、それを丁寧に針金にかけて服が並ぶ一角に添えられる。

「向こうの部屋にあった本や紙の束は何だ?」

「……ああ、世界の事情を知る為のものです。紙の束は新聞という、毎日発刊される人間の世界の出来事が記された物です。」

 テレビ、だけでなくこんなにも情報を……集めることが海の秩序を守るのに必要だったのだろうか。

「基本的に海は海の運命の輪に従い循環していますが……時に人間は運命の輪を乱す蛮行に出ます。密漁船等がよくある例ですね。」

「……森にも密猟に訪れる者がいたと聞いた事があります。」

「イタチさん敬語。」

「……聞いた事がある。アイヌの者とは装備が違うのですぐにわかる。その者が何を狙って来たのか森のカムイ達は注意深く観察をして、狙いが護るべき種であれば不幸を仕掛け断念させていたとか……。」

 鬼鮫が本や新聞のある部屋を見つめる。

「成程、森のカムイは皆で森を護ってきたわけですね。海の場合は……対応は後手です。被害を受けた後、私が人間の町で情報を集め、時に北の果てにある異国まで行き、その船の特徴を掴んで周知する。……しかし海のカムイはその広さに対して数が少ないんです。周知したところで蟹などの小さき者達を全て護る事は出来ません。」

 あの量の本や新聞……相当に調べてきたのだろう。全て北の海の秩序を守るために……。

「悪しき人間から海に棲むもの全てを完全に守り切る事は出来ません。私はそれをも海の運命だと受け入れざるを得なかった。人間にとって海に棲むものは恵みです。カムイや海のものは監視できても人間の動きまでは読み切る事が出来ない……と、仲間を奴らに連れ去られた際に痛感しました。」

 その顔から笑顔が消えていた。無表情、だが少し俯き、睨み上げるように向こうの部屋を見る目には憎しみが秘められているように見えた。

 秩序を守る者として、鬼鮫は精一杯のことをしてきた。それでも悪しき人間に太刀打ち出来なかった……見守っている海の中がそういう人間に荒らされるのはさぞ悔しいだろう。それも、いわゆる食べるための海産物ではなくカムイが狙われたのだから。

 ……それだけ広く様々なことを見聞きし経験してきた鬼鮫が、俺なら辿り着くと判断した。

 静かに、拳を握る。

「……辿り着きます。必ず。」

「そうですね、イタチさんなら必ず……辿り着きます。この上着はそれまで、ここに。」

 鬼鮫の大きな服と並ぶ、袖が少し擦れた上着。

 ……綱手さん。時間はかかるかもしれない。だけど必ずいつか。それまでは……しばしここに。

「ではさっそく、向かうとしましょうか。」

 玄関に戻っていく鬼鮫の後を着いていく。軒先の干柿が揺れているのが目に入った。

 干している……のだから日持ちはするのだろうが、これはこのままで良いのだろうか。

 干柿に視線を向けながら玄関の外に出ると、鍵を閉めながら鬼鮫は尖った歯を見せて笑った。

「大抵の人はこれを見ると笑ってくれるんですよ。自分と同じ名前のものがある、と思うだけで嬉しいものです。これは干し始めたばかりなので、このまま置いておきます。」

「存分に干した後でないと食べられないのか?」

「そうですねぇ。干柿は元々は『渋柿』と呼ばれるほどえぐみが強くて食べられたものじゃないんです。それがこうして天日に干しているとだんだん甘くなっていきます。人間の知恵には驚きますね。食べられやしないものをも、食べられるように加工する。」

 確かに人間は常により良くしようと努力している。便利な道具の数々は数多の開発者が知恵を絞り模索を繰り返しながら出来上がったものなのだろう。

 逆に言えば、悪しき人間はどうすればより悪しき事を効率的に行うか研究をしている……のだろう。そうでなければカムイを捉える絡繰など作れるはずがない。

 

 それにしてもこの男は俺が一話しかけたら九返してくる程よく喋る。うるさいわけでも鬱陶しいわけでもないが、鬼鮫は俺に話しかけていて楽しいのだろうか。

 ふたり連れ立って、今度は俺が前を歩いた。人間がまばらになって完全にいなくなる場所まで歩くと、カムイの姿に戻る。人間の身でここから森まで行くのは道路でない分困難が大きい。それに人間の姿では森のカムイが協力してくれないかもしれない。

 ふわりと身体を浮かせて上空からどこを目指すべきか探す。少し遅れて、鬼鮫も上空にやってきた。

「飛ぶ、という体験ははじめてですが、やってみればできるものなんですねぇ。」

「……カムイが空を行き来できるのは、地上に住む命の灯火が集まり大きな炎のうねりとなっているからです。燃ゆる火の粉が空に向かうように浮き上がり飛べるのだと……母から聞きました。」

「イタチさん」

 鬼鮫が背後からひょこっと顔を覗かせる。ただ身長差が大きすぎて俺は見上げる形になった。

「何ですか。」

「敬語。」

「……母から聞いた。」

 ため息をつきながら森をじっくりと見ると、木のひとつに大きなうろを見つけた。あそこには恐らく「何者か」がいるはずだ。海とは異なるが森には森の情報網がある。

「行き先を決めた。何もないのが一番だが……何かがあったのなら手掛かりになります。森には夜を見守る者がいる。森で起きたことは全て彼らが見ているので……」

「イタチさん」

「……。」

 真面目な話を中断してまで徹底させようとするなんて余程こだわりがあるらしい。言い直すのも面倒でそのまま続けた。

「夜を見守る者を探せば、森の中のことは全てわかる。そして森の者もまた、夜を見守る者がどこにいるのかを知っている。行こう。」

「燃え上がる命の炎のお話のおかげで、コツが掴めてきました。……なるほど、その理屈であれば海の上もまた飛べる可能性がある訳ですね。」

 海の上を飛ぶ……そういえば、白服を追いかけたときに海の途中まで追いかけている。だが西の大海を渡れはしないだろう。地図を見た限りではあまりに遠すぎる。

「海の上も、飛べます。」

 命の灯火の気流に乗ることは出来る。ただ移動するには多少なりとも体力を使う。歩くよりははるかに早いかもしれないが、飛ぶ力は万能ではない。

「すでに試し済みでしたか、流石イタチさんだ。海にはカムイは少ないのですが生き物は大変多く存在します。さぞ高いところまで飛べるのでしょうね。」

「……そうだな。」

 あたりをつけた場所に向かって宙を駆ける。はじめて飛んだという鬼鮫に配慮したが、いらぬ節介だったらしい。すぐにコツを掴んですぐ後ろを着いてきた。

 しかしそんな最中にも鬼鮫はまた喋る。

「ずいぶん遠くまで行くんですね。イタチさんは時折眼が赤くなりますがどれだけ何を見えるんですか?」

 一族の中で生まれ育ってきて他の者がどれだけ何を見えるのか、正直なところわからない。だからその問いにすぐ答えるのは難しかった。

 確かにこの赤い眼は色々なものを映す、そして人間に影響を与えることもできる。特殊な眼なんだろう。

「とてつもなく視力が良い、というだけでもないのでしょう。ああ、失礼。赤い眼を能力として保持しているカムイを見るのがはじめてなもので。」

「……他と比べてどれだけ、というのは説明が難しいですが……能力のひとつとして代表的なものは成人すると開花する『見通す眼』です。人間の血液を多く必要としますが、対象の未来を見ることができます。」

「イタチさん」

「……見ることができる。」

 鬼鮫が隣に来て俺の横顔を覗き込む。

「未来が、見えるんですか? 例えば、私の血を飲めば私の未来を? どの程度先まで?」

「俺たちは人間の血しか飲みま……飲まない。だからそれを試すことは出来ない。どの程度、というのは難しいが、少なくともその対象が必要としている未来だ。」

「……対象、ですか。血を飲んだ人間以外を対象とすることは出来るんですか?」

「出来なくはない……だが多量の血液を貰う以上、その対象は原則としてその人間だけだ。俺たちの未来を見るために人間から血を貰うことは……基本的にあってはならない。」

 目的地に近づき、高度を下げていく。この辺りでは樹齢が高そうな太いカエデの一種だ。大きなウロの中には何者かが棲んでいるようだが、今は不在らしい。この雪深い季節にはウロに棲むような動物たちが動き回ることはあまりない。

 つまり、ここに棲む者は動物ではなくカムイの可能性が高い。

 近くの木の枝に腰を下ろし、その者が戻るのを待った。その間も鬼鮫は何かと話しかけ、相槌を打ったり受け答えしながら、1日にこんなにも喋るのはこの日がはじめてかもしれないと思う。

 会話を避けていたわけではない。言葉にして口にするべきことを選んだ結果でもあり、何より一族の中には鬼鮫のようによく喋る者は居なかった。

 鬼鮫の元来の性格なのか、それとも海の秩序を守る者として対話が重要だったのかはわからないが、今後も鬼鮫と行動を共にすることを考えると相互理解が必要なのはわかる。だから出来る限り問われたことには答えた。

 村での生活のことも。あの夜のことも。追いかけたことも。海の途中までは追ったことも。

 鬼鮫は俺が二回目に白服の痕跡を辿って海まで出た所から俺のことを認知していたらしい。鬼鮫も「また」あの船が来たと知り駆けつけたところだったようだ。

 海を見つめる俺の姿を見てから、その様子を海の者たちに見ておくように指示をしていたと言いながら、悪ぶれる風もなく「すみません、見張るような真似をしてしまい」と笑いながら謝った。

 海の者から情報を得たいとずっと海沿いを進んできたが、海の中からは俺はずっと見られていた訳だ。……あまり気分は良くないが、それが鬼鮫との出会いに繋がったのであれば今となっては良かったと思える。

 人間と慣れ親しみ、人間としての家まで持ち、そして多くの情報を持つ鬼鮫の存在は森の中しか知らない俺にとってありがたかい。

 この先ずっと自然の中を行くわけではない。恐らくは人間の街にも行くことになるだろう。そうなったときに必要なお金の稼ぎ方も、鬼鮫の提案に乗ることにした。

 そうして過ごしながら、太陽が沈みかけた頃、鬱蒼と茂る森が闇に落ちかけたとき、そのウロの住民がそろりと戻ってきて中に入ったのを確認し、俺たちは静かに座っていた木の枝から地面に降りた。

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