約束   作:江夏ケイ

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白服の北海道上陸を阻止する作戦の中、イタチは強引に未来視を使い、大きな代償を払う事になる。


代償

『船着場を破壊する。』

 奴等からカムイを守るためであれば、当然そうすべきだ。しかし船着場は地上と海を繋ぐ場所でもある。

 そこを破壊して善たる人間の営みを破壊するのは果たして是か否か……。借りた上着の温かさを思い出しながら、出来うる限り人間の営みは護りたいと思う。

 ただ、船着場を使えなくする他、今の俺たちにはカムイを守る方法がないのもまた事実だ。

 人間とカムイ、俺はどちらを護るべきか……村を出たばかりの頃ならば迷う事はなかっただろう。

 破壊すると、言った鬼鮫の背に手を置いた。

「他の方法がないか……考える猶予をくれ。」

「……具体的には?」

 船着場に寄せては引いていく波を見つめる。

 決めなければならない。時間は限られている。

「……明けの明星がその姿を見せるまで。」

 破壊してしまえば再建までに時間がかかる。それまで人間は海に出る事は叶わない。船着場の機能を一時的に無力化できればそれが一番だ。だがどうやってそれを実現する。

 人間にとって脅威となりうるとすればそれは……天候。激しい風雪……ただ雲も雪も風も気まぐれだ。それに激しい風雪は善たる人間の生活をも困難にする。

 船着場の機能だけを一時的に……波……水……。

「……鬼鮫、俺を海の底に呼んだ時、あれは何をしたんだ。」

「あれは……イタチさんの周りに空気の壁を作りました。」

「その空気の壁はどの程度の強度が?」

「残念ながら船を止める程の力はありませんね。」

「……そうか。」

 俺自身の力は白服には及ばない。だが鬼鮫は現実の物質を操る。空気を操れるならば……。

「水も、操れるか。」

 鬼鮫は人差し指を立てて、そこから小さな水の球を作り出し、尖った歯を見せて笑った。

「如何様にも。」

「……如何様にも、だな。」

 巨大な波で転覆させる……それには奴等の航路の特定が必要だ。では大潮で船着場を水の中に沈める……ここまで海を渡ってくるような者どもがたたかだか数日の大潮で諦めるとも思えない。

 ……水と空気……空気、水……霧。

「鬼鮫、霧はどうだ。視界が利かないほどの濃霧を作れるか。」

「……成程、濃霧で港に船が戻れない、というのはままある話です。しかし無限に濃霧を作り続ける……というわけにもいきません。……そうですね。」

 またあの手書きの地図を取り出した。海の部分にも何か書き込んである。

「この辺りは西の海に属するので私の管轄ではありませんが、海の中のことは概ね心得ています。彼等の協力も得られれば……一ヶ月は濃霧を展開出来ます。そしてその霧に含まれる水は私や彼等の目そのもの。霧の中にどのような船がいるのかもわかります。」

「つまりは、白服の船も見つけることができる、と考えてもいいのか。」

「西の海の協力を得られれば、です。私一人では少々心許ない。……その方針で、よろしいですか?」

 船を区別できるなら、この地に住む漁師たちは護れる。漁師を待つ港の女性たちも、その子どもたちも。標的はただひとつ、白服の船だけ。

「……ただこの方針には懸念点があります。白服の船がこの地の漁船に扮していた場合に見逃してしまう可能性が。私はともかく西の海の者たちにその区別がつくか……。」

 ……そうか、漁船にも大小ある。大きい船なら10人は乗れる。大きい船だけを霧の中に閉じ込めたとしたら、その中にはこの地の漁師も含まれてしまう。

 乗っている者が漁師か、そうでない者かを見分けられなければ理想通りにはいかない。

 ……見分ける方法……。

「鬼鮫、少し実験台になってくれないか。」

「……少し、と言いますと?」

「ほんの数分だ。身体に危害は加えない。ここに横になってくれ。」

 鬼鮫は腰を下ろして背中を地につけた。何が始まるのかと俺の顔を見つめるその目を赤い瞳で見つめ返す。

 鬼鮫は目を見開いた後、その瞼をゆっくりと閉じた。

 カムイ相手でも、この眼の力は使える……!

 自らの目で見た白服の姿を、鬼鮫の脳裏に焼き付けてパン、と手を叩いた。弾けるように起き上がった鬼鮫は俺を見て口元を歪める。

「……あなたが白服を憎む訳はそこでしたか……はっきりと見えました、あのあどけない……。」

 口元だけでなく、その眼差しもギラギラと猛っていた。これは……あの時の俺の感情までも鬼鮫に?

「……鬼鮫、"呑まれていないか"。」

 鬼鮫はハッとして自分の手のひらを見つめ、その手を握りしめた。

「成程、……副作用もある訳ですね。」

 いつもの笑顔に戻り、また俺の方を向く。

「これで行きましょう。……イタチさん、くれぐれも必要な情報だけを。」

 白服への憎しみで自制できていなかった面は否めない。俺たちが見せる夢にはそれ程の力がある、ということか。夢を見せる者の感情までも植え付けてしまう。

 冷静なつもりでいた。

 でもこの胸の憎しみはいずれ制御できなくなるのではないかと不安を感じる。森の憎しみを、海の憎しみを背負って俺たちは今ここにいる。だがその憎しみに呑まれてはいけない。呑まれてもいいのは奴らをこの手にかける時だけだ。

「……少し、休むか。」

「そうですね、少しだけ。」

 

 海と陸の境界であるここは、理性と感情の狭間のようだった。波のように寄せては引く感情を、コンクリートで固められた船着場という理性が押し留めている。

 硬い地面に背を預けて空を見た。太陽が昇り始めて群青が淡くなっていく。この地にしては珍しい雲があまりない空。完全に夜が明ければキンとした空気と抜けるような空に大地の熱が奪われて氷の世界が形作られていく。

 ……サスケはこんな空気の日が好きだった。村の子供たちと遊べると喜んで釣りに出かけたり木の実や皮を採りに行ったり……。

 感情の波が波止場に打ち付けられる。

 ……冷静さを失うな。

 それが白服への近道なのだから。

 

 果たして一ヶ月後、事前に夢を通じて海のカムイに伝えた白服の姿、大型の漁船に扮したその船を海の者と鬼鮫が濃霧の中に閉じ込めることに成功した。

 足止めはできた。しかしこの先はどうする。白服の船を海の底に沈めるのは簡単だった。ただそれをすると、白服がどこから来たのか分からなくなる。

 俺たちは腰を据えて奴らが疲弊し隙を見せるのを待った。二週間が過ぎて食糧が尽きたのか、釣りを始めたが海の恵みなど与える訳もない。

 甲板で一人膝をついた白服。すかさず実体化した鬼鮫がそいつの頭を蹴り飛ばすと同時にその頭部の装備が吹き飛んだ。この機しかない。

「鬼鮫、倒れたらあとは頼む。」

 俺はそいつに赤い眼の力を最大限に使った。

 血を飲まずに行う未来視。……見える。

 上陸を諦める。

 海に浮かぶ巨大な船に釣り上げられる。

 白服と黒い服の者が入り混じる船内。

 異国の言葉の中に「クンネチュプ」という言葉。

 指示を出す者。

 その手元の、印のついた地図。

 船が巨大な船着場に着く。

 大きな車に白服が乗り込む。

 鉄の網で囲まれた白く四角い建物。

 一定間隔で並ぶ扉。

 階段を上がった先の部屋。

 黒い服。

 異国の言葉。

 また「クンネチュプ」という言葉。

 ……だめだ……これ以上は……見えな、……。

 

 気がついたときには、森の匂いの中で臥していた。眼が……見えない。それが眼の上に布を載せられているからだとわかったのはしばらく経ってからのことだった。

 血……人間の血を……飲まなければ……

「イタチさん、気が付きましたか。」

 聞き慣れた声……ああ、鬼鮫……か……。

「樹木ならばイタチさんを助ける事が出来るのではと……思いましたが。すみません。もっとよく作戦を練るべきでした。」

 ここは……身体が、動かない……。

「人間以外の血でも良くなるのであれば、私の血を飲んで下さい。……体液の摂取以外に……回復する方法はないと聞きました。」

 口のすぐ前に何かが……口すら満足に……動かせない……。未来視……の副作用……か。せっかく見たのに……これでは……。

「……難しい、ですか。そうであれば……。」

 血の匂い……これは人間では、ない……鬼鮫の……?

 顎をヒヤリとした指が支えて開いた口の中にボタ、ボタタ、と熱いドロリとした液体が落ちてくる。それを飲み込み、飲み込み、ふっと胸が思い出したかのように呼吸を始める。

「……は、……はぁっ、……は……」

 重いが、腕が動かせる。目を覆う布は湿っていた。匂いからして樹液が染み込んだ布らしい。ただ……布を取ったのに眼が、まだ見えない。鬼鮫の姿も。すぐそこにいるのに。

「……助かった、……が、眼がまだ……。」

「……人間の血を多量に必要とすると言ったのはご自身なのに、全く無茶をされる……。まあ、私も人の事は言えませんが……あなたほどではありません。」

「……悪かった、ただ」

「イタチさんあなた、死んでいたらどうするつもりだったんです。冷静さを欠いてはいけないとあれほど互いに言い聞かせ合ったというのに。」

 俺は……今説教をされているのか……?

「人間の血を利用するつもりがないのなら、未来視は"本番"までもう使わないで下さい。わかっていますか? どれだけ心配させられたことか。」

 これは……説教だな……俺に説教……か。

「イタチさん、聞いてます?」

「……悪かった。」

「本当にそう思っていたら笑っていませんよ。」

 呆れた声色。笑って……俺が?

 ……鬼鮫の説教が、……嬉しいとでも……?

「ともかく未来視はもう使わないで下さい。代償があまりに大きすぎます。」

「そう、だな……。」

 ずし、ずし、と四つ足の生き物の足音が近づいてくる。この大きさと歩幅は……キムンカムイか……?

「私よりも生きている者の血の方がいいと思い、頼み込んだんです。冬の眠りについていないものに出会えた幸運を喜んで下さい。」

 硬い体毛が体に触れる。小さき生き物の血の匂いを纏ったそれは俺の隣に転がった。……温かい。

「……イヤィラィケレ……」

 鬼鮫のその言葉のすぐ後に血の匂いが濃くなる。木の器に液体がこぼれ落ちる音。……様子を伺うに、鬼鮫がキムンカムイに頼み込んで獲物を獲ってきてくれた……ようだ。頭を支えるヒヤリとした大きな手、口元に寄せられる木を削ったものの感触。そこから流れ込んでくる温かい……血。

 数日それを繰り返してようやくぼんやりと眼が見えるようになった。数日で、ようやくぼんやりと。

「イタチさん、人間の姿になれますか。」

「何故……人間に?」

「人間の血を輸血してもらうためです。」

「俺には……、人間としての身分はない。」

「騙されたと思って、人間の姿に。」

 起き上がるのも一苦労だ。人間に姿を変えると体力を余計に消耗する。にも関わらず人間の姿に……。

 騙されてみよう、人間のことをよく知る鬼鮫なら、何か考えがあるに違いない。

 人間の姿に変えて、荒く息を吐く。身体の熱が足りないのがわかる。何かを食べたところで内臓はそれを力に変えることすらできないほどに衰弱しているのが、人間の姿になったことで改めてわかった。

 その俺を鬼鮫はおぶって歩き始めた。森の中を歩き、道に出て、通る車に向けて手を挙げて、車に乗せてもらい、街まで着くとまたおぶってどこかを目指す。

 その大きな背中から下ろされたのは、透明な箱の外。鬼鮫は窮屈そうに箱に入り、何かを喋っている。

 顔を上げて何を話しているのか聞く余裕もなく重力のままに首を垂れてそれが終わるのを待った。

 しばらくして、けたたましい音と共に車が近くに止まる。

「救急隊です、名前を言えますか?」

 両肩を叩かれて重い瞼を持ち上げると、ヘルメットを被った人間が何人か。

「……うちは……イタチ、です……。」

 いつのまにか、背後を人間に支えられていた。膝もがっしりと掴まれている。

「イチ、ニノ、サン。意識はある、バイタル!」

 何かに載せられた、と思ったらガラガラと音を立てて運ばれていく。視界が揺れる。瞼が重い……目を、開けていられない……。

「あなたが干柿さんですね。同乗願えますか。」

「もちろんです。」

 腕に何かが……これは何だ……? 温かい場所に、入った……。

「イタチさん、もう大丈夫ですよ。私もいます。」

「……なにが、どう……」

「もう、休んで頂いて大丈夫です。目を閉じてください。」

 鬼鮫がそう言うのなら……大丈夫……なん、だ、ろう……人間の身は……やはり……疲弊、が……強い……。

 

 ピッ……ピッ……ピッ……

 規則正しく鳴る機械の音……顔に何かがついている……腕も……これは……針、が刺さっている……?

 目を開いた。久しぶりにくっきりとした世界が見える。白い天井、どこか人間の家、なのか。

 その視界に、青白い肌が映り込む。

 目の前で振られる手を視線で追うと、鬼鮫の顔が横から覗き込む。

「見えるようになりましたか、全くどれだけ心配したかわかってます? ……というのはもう少し元気になってからにしましょうか。」

「……鬼鮫、ここは……?」

 喋ったとき、こもった自分の声に、顔につけられているものが口元を覆っていることに気がついた。

「病院ですよ、人間の。意識が戻ったことを伝えますね。」

 手を伸ばした先でカチ、と小さな音が鳴る。続いて女性の声。

『どうされましたか?』

「意識が、戻りました。会話もできます。」

『お待ちください。』

 病院……ここが、人間の?

 こんなにも機械に囲まれるのは、はじめてだった。




※キムンカムイ:山のカムイ、通常はヒグマのことを表す言葉。人間を襲わないヒグマに対してアイヌは深い信仰心を持っていた。
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