4月中旬金曜日。正人は特に何もない普通の学生生活を送っていた。4月頭以来実家からの呼び出しはなく、魚類の怪物に出会う事もない。一番の懸念事項であった佐藤凛も、教室では仲のいい友人と話し、放課後はごく真面目に部活動をしているだけだった。いわゆる普通の学生生活を満喫していた、少なくとも正人にはそう見えていた。
正人の前では仮面を外している凛だが、それでもあの夜に見た勇者の纏う決意に似た雰囲気から、少しずつ学校で他の生徒と同様に学ぶ日常の雰囲気に寄りつつあった。それはうまく学園生活に馴染めているということだった。
しかし佐藤凛が日常に馴染んでいく一方で彼女の活動をどうするかという問題があった。これまでは本人も慣れない学生生活に四苦八苦しているように見えるし、新入部員がいないこともあって正人の部活動に余裕はあった。凛が暇を見つけて部活に来ても、これまでの活動を見て勉強することがほとんどだった。しかし新年度が始まって早一週間ほど、そろそろ凛の部活動にも着手せねばならないと思い悩んでいた。
正人が放課後の掃除を終えて部室に向かうと、一足先に掃除当番ではなかった凛が部室にいた。彼女は特に恵子さんの本がお気に入りなようで、部室に残されていた冊子を注意深く読み込んでいる。机の上にはこれから読むだろうものが積まれていた。
凛は正人が入室してきたのを知ると、冊子を置いて正人に声を掛けた。
「正人か、遅かったな。掃除でも長引いたか。それで、今日の部活動はどうする」
「うん、今日はこれからの方針を決めようと思う」
実際のところ、正人は掃除が終わってから少しこの問題について考えていた。だから部室に来るのが遅くなったのだが、おかげで少なくとも本日の部活についてはめどは立った。それに明日以降の部活動も。
正人は鞄を机に置くと、そのままホワイトボードの前に立った。
「凛もいくつか先輩たちの研究成果に目を通しているから何となくわかってると思うけど、部活動の流れはテーマを決めてそれについて調べるなり活動するっていうのが基本なんだ。けどそんなにすぐテーマは見つからないし、調べ方なんかも実際にやって見なければわからないことも多い。だから、新入部員は先輩の活動を後追いしたり、手伝ったりして活動方法を学んだり興味が持てそうなテーマを探すんだ。ちなみに俺は恵子さんの活動を手伝ったかな」
言いながら、正人はペンでホワイトボードにすらすらと流れを書きだした。
凛がふむと顎に手を当てて考えこむ。今後の流れを想像するなりしてゆっくり咀嚼しているのだろう、しばしそうしているうちに顔を上げた。その口元は少し楽し気な笑みを浮かべていた。
「なるほどな。で、私は誰かの先行活動を後追いするのか、それとも正人の活動を手伝えばいいのか」
「それは一般的な場合だから、自分でやってみたいテーマとかがあるならそれを基に活動してもいいよ。ちなみに何かあるの?」
「ああ。神話の創作、とかはどうだろうか」
凛がニヤリと口角を上げる。俺はなるほどなと思うばかりだった。活動テーマとして誰かのファンタジー観を考えるならば、自分のファンタジー観を基に神話を書き上げてもいいはずだ。もちろんそういった場合には世界中の神話を研究することになるだろうから、部活動の大元からは外れない。そればかりか、でき上がった創作神話を基に、神話に対するイメージが育まれた土壌に関する考察もできるだろう、そういった活動の幅も考えられた。
「うん、いいかも。初めての試みだから俺もよく指導とかできないかもしれないけど、その方向でやってみようか。先輩たちの研究で神話を扱ってるのがここらへんに……」
研究成果がまとめられている棚から所望のクリアファイルを引っ張り出して、凛に手渡した。神話に見る人類の自然征服というタイトルが付けられたファイルを受け取った凛は、ああそういえばと続けた。
「正人。この紙なんだがな、扉に付いてある箱の中に入っていたぞ。差出人の名前は書いてなかったが、これはなんだ」
凛は紙をひらひらと振って見せた。
「ああっと、それは悩み相談とかの依頼の紙だね。去年から恵子さんが個人的に悩み相談を始めたんだ。たまに重たい相談も来るけど」
「ほう、あの人そんなこともやってたのか。ところで相談とはどういう内容だったのだ」
言われて正人は昨年の事を思いだした。
「占いとか恋愛関係の相談もあったけど、呪いの本とか都市伝説を調べてほしいとかもあったかな」
呪いの本を思いだしたとき、正人は何か引っかかりを覚えた。
「ならこれもそういうものか」
佐藤さんが机の上に紙をばっと広げる。そこにはノートのボーダーラインに沿って、『近所に住む子どもが失踪したんです。たぶん日野山に入ったからだと思う。私が前に、日野山は遭難しやすいから入っちゃダメって教えちゃったから。だからどうか修哉くんを見つけてください、お願いします』と書かれていて、その下に誰かの住所が書いてあった。
「子どもの失踪……日野山か」
佐藤さんが紙をじっと見つめた。
「凛は日野山のこと知ってるの」
「大凡は知っている。こっちに来る時に向こうで話を聞かされたからな。標高およそ300mほどの中腹あたりに神社がある山で、山中は立ち入り禁止だそうだな。
それで、こういう場合はどうするのだ。学校か警察に連絡するのか、ただ調べてこの子どもを見つければいいのか」
「いや、もうその子の学校や警察には親が通報してるだろうから、ただその子を見つければいい。けどどうするかな……」
日野山というのはなかなか厄介な存在であると、地元民と同様に正人は認識していた。なんでも戦後混乱期に今と同じく遭難した人間を救出するために警察や消防が大挙して捜索したが逆に全員が遭難したという事件があったらしく、それ以来警察も日野山に立ち入らないという。
実際にその子が日野山で遭難したなら見つかる可能性はないと言えるだろう。それにそんな場所を自分が調査できるのか。正人は頭を抱えた。
しかしそんな不安をよそに、凛は何げなく言った。
「明日の土曜日、調査に行こう。まずはそれからだ」
そのまま凛は紙を自分の鞄に入れてしまった。
「えっ、手伝ってくれるの?」
正人は驚いて凛の方を見た。
「ああ、私も個人的に興味があるからな。
さて明日に調査するといってもどれほど時間がかかるかわからない。一日で済めばいいがそうならない可能性は高いな。特定の時間帯だけ──例えば真夜中とかに──何かが発生しているということも考えられる。寮の門限までに帰れない可能性もあるな。外泊届を出して土曜日はそれぞれ実家に泊まるのがいいだろう。確か正人の家も近くだったな」
気が付けば凛の表情は、初めて彼女に会った夜の、まさに軍人だった彼女のものであり、その眼は正人を射竦めるような力を持っていた。
「そっ、そうだね。そうしようか」
正人は太刀打ちできずにたじろぐしかなかった。そのまま流されるように机に広げられた資料を手早く元に戻すと、荷物を持って施錠し職員室に行った。フィールドワークと称して外泊届をもらうと、凛は明日の事前調査をすると言って一足先に寮に戻った。