「こんばんは、凛。準備はいいかい」
「ああ」
5月下旬。春から夏への移り変わりの季節、夜は2ヶ月前に比べて随分と過ごしやすくなった。そのためか夜間に火野守で遊ぶ人間も少し増えてきた。
正人と凛もそんな人間の内の一人だった。しかし彼らの服装は街にくり出して遊ぶ人間の格好ではなかった。正人は髪をきちんとセットしてフォーマルなスーツを、凛は薄い水色のごく普通なドレスをそれぞれ着ていた。
「それじゃ行こうか」
正人は凛を車に乗せて、自分も隣に座る。それを見た運転席に座る園崎さんが車を発進させた。正人は隣に座る凛を見ながら、こんなことになると2カ月前は思いもしなかったと考えた。
5月26日。それは団正人の父、団優一郎の誕生日であった。普段は滅多に実家を訪ねることがない正人も、この日だけは父が母を黙らせることで正人が実家に入ることが許されている。
二週間前に団家から正人に連絡が入った。例年通り、ただの誕生日に開催されるパーティーへの招待かと思われたが、一部だけ異なっていた。それは佐藤凛も招待せよというものが付け加えられていた。
そうなると凛を招待しないわけにはいかない。しかし正人は凛を招待することに抵抗があった。何せ正体不明で明らかに真っ当ではない人物である。その点でいえば真部恵子もそれに該当するのだが、彼女の場合は正人に必要だった人物であることと、これが最も重要なのだが、実家に関してあまり興味を示さなかった。だが凛は団優一郎に関心のある態度を示した。それは正人にとってあまり好ましくないものだった。話を聞いても、世話になっている同級生の親には挨拶しておきたいものだろう、と言われるだけだった。同級生で一年からの友人である佐々木隆太に相談したものの、知らんの一点張り。結局は実家からの伝言を無視するわけにもいかず、凛を招待した。わざとギリギリに伝えた。予定があってくれと願った正人だったが、その願いは叶わなかった。
学園内では普通の人間でクラスにもよく打ち解けている分、非難しづらいというか邪険にしづらいというか。
正人は隣でにこやかな笑顔を浮かべている凛を見た。
「どうしたの」
「いやなんでもないよ。それより緊張とかはしてない?」
「ふふっ、心配してくれているの。こういうのには慣れてるから大丈夫よ」
「ならいいんだ。けど気分が悪くなったらすぐに言ってね」
「ありがとう」
凛がにこりと笑う。
怖いと思った。真部恵子から教わらずとも学び取った、女は恐ろしいという事を知らなければ、それを怖いとも思わなかったろう。
そのうちに車は団家に入る。言ってしまえばただの一軒家ではあるが、そう言うのは憚られるほど大きなガレージにもう何台もの車が停まっている。園崎さんも同じ場所に駐車すると、正人たちと一緒に屋敷に入った。曰く「古い同僚と会う」だそうだ。
室内にはもう多くの来客の姿があった。正人が把握している限り、団優一郎はそれなりどころの話ではない企業のそれなりどころの話ではない役職についている。そのために何人かニュースなどで見た顔もあった。そんな人たちが和やかに会話している。その裏にはどんな黒があるのか分かったものではない。
特に話す相手などいなかった二人は、飲み物を取って壁際に立った。すると彼らに話しかける人がいた。長兄、団
「やあ正人じゃないか。久しぶりだね、2ヶ月ぶりくらいか。それでそちらのお嬢さんは」
「優兄さま。お久しぶりです。こちらは私の同級生の佐藤凛さんです」
「初めまして、佐藤凛です。どうぞよろしく」
凛は物怖じせずにお辞儀した。慣れているというのは本当の話だったらしい。
「初めまして。僕は正人の兄の団優です。よろしく。そうだ、2人ともちょっとこっちへ」
白い歯を輝かせながら、慣れた笑顔を浮かべる団優。彼は2人を少し離れた別の壁際まで連れて行った。
「あそこはまだお母様がお話ししていない人たちだからね。何もないとは思うけど、トラブルはなるべく起きないようにしないと。
じゃあ僕は仕事があるから行くよ。たぶん誰も話しかけてきたりはしないと思うから、ゆっくり食事でもしながらいるといい。でも帰ってはいけないよ、お父様は家にいる正人が見たいんだから」
「うん、わかったよ」
「そうか、えらいぞ。全部終わったら戻ってくるから、また話そう。それじゃあな」
団優が手を振って歩いていく。そしてすぐさまどこかの恰幅のいい男と会話し始めた。あれが今この場での彼の仕事だった。養子であり更には実家から離れている正人にとってはあまり関係のない事であるが、昔はその姿を見習って周囲の人間と会話しようとしたこともあった。しかしそれは止められてしまった。
グラスを返却し、2人で料理を選んで壁際に戻る。
「久しぶりね、正人」
「由佳姉さま。お久しぶりです」
丁度そのとき、団優と同じくパーティーに参加していた長姉団由佳が2人に話しかけた。
「さっきお兄さまと話したのだけれど、あなたが佐藤凛さんね。私は団由佳。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
団由佳の微笑みに、凛は身を固くして頭を下げる。それが幼い頃からの訓練による、団由佳が持つ最大にして唯一の武器であった。凡そほとんどすべての人間にとってその微笑みは強力な媚薬として作用する。声のトーンから瞳の形や口角の角度など、全て計算されていると正人は昔に聞いたことがあった。
「そうだ、健兄さまの姿が見えないのですが、どこにいらっしゃるか由佳姉さまはご存じですか」
「ああ健ね」
その名前を聞いた途端、先ほどまで極上の微笑を浮かべていた団由佳の顔が、険しいものになる。正人は、聞いてはいけないことだったかと焦った。
「健の事なら知らないわ。お兄さまやお父さまの事が嫌いだからあまり家にもいないし、ましてやこのパーティーなんかには参加しないでしょうから、今頃どこかで遊び歩いているんじゃないかしら。全く」
団由佳が小さな声で愚痴を連ねる。
「おや、正人君と凛さんではありませんか。一か月ぶりですね。お元気そうで何よりです」
団由佳の愚痴がいっそう加速しそうになったとき、パーティーに参加していた森谷敬一が2人を見つけて声をかけた。
「こんばんは。森谷さんもパーティーに来ていらしたんですね」
「はい。私は優一郎くんの友人ですから。友人の誕生日は祝わなければなりません」
団由佳ほどに精錬されたものではないが、十分に人好きのする笑顔を浮かべる森谷敬一。
「どなたなの」
正人の耳元に口を寄せて団由佳は話した。
「森谷敬一さんと言います。以前に父様と2人で食事しているのを見かけて、その時に父様に紹介していただきました。お名前以外は何も」
短く小さな声で答える。聞いた由佳はそうとだけ呟いて森谷敬一に顔を向けた。
「初めまして、森谷様。団優一郎の長姉、団由佳と申します。今後ともよろしくお願い致します」
先程と同じ微笑みを浮かべる由佳。しかし森谷敬一の反応は普通と比べて少々冷めたものだった。
「よろしくお願い致します。お噂通り、いえそれ以上にお奇麗ですね」
森谷敬一も再び同じ笑顔をする。ただ、由佳にとっては面白くなかった。奇麗だと言われるのは由佳にとって日常の事である。しかもそれに留まらない。その美しさに直面したものは、打ちひしがれる、あるいは陶酔するというレベルまで到達することもしばしばだ。それは彼女がただ単なる美しさではなく、不敵の美しさを持っていたからに他ならない。強さと言っても差し支えないだろう。彼女はたとえ1000の10倍もの人間から稲妻のような視線を浴びたとしても、一人一人を全身で見返す事ができる。それが団由佳に無敵の美しさを与えていた。
「ありがとうございます」
自分の心待ちは一切出さずに再び笑顔で応える。
不意に袖が引かれた。正人はどうしたのだろうと凛の方を向くと、そこでは凛が少し困ったような顔をしていた。
「どうした。気分でも悪くなったか」
「ああ、そんなところだ。少しついてきてくれ」
耳元で凛が囁く。少しくすぐっく感じて、正人は皿を取り落としかけた。
「すまない。少し気分が悪くなってしまった」
会場から抜け出した凛は、正人にほんの少しだけ弱音を吐いた。
「末弟であり養子とはいえ、さすがは団家と言ったところか。正人はもうあまり注目されないだろうが、私にはとにかく好奇の視線が突き刺さった。わたしが何かヘマをすれば正人の評判が下がるからな、随分と気を張ってしまった気がするよ」
正人の隣で、団家末弟の側にいた女として相応しい立ち居振る舞いを続けていた凛の気力は、大きく削れていたようだった。膝に手をついてふぅと大きくため息を吐いた。淑女からはかけ離れた姿だったが、正人以外には誰にも見られていなかったのが幸いだった。
「そうか……ありがとう」
それは正人にも心当たりがあった。養子という事、団優一郎の隠し子だという噂、母である団菊代に嫌われているという事が重なって、幼少期はとにかく好奇の視線に晒されていた。幼い時分ながら、正人もまた団家の一員として相応しい振る舞いをしなければならないと感じていたから、その疲労はどれほどのものか、想像がついた。
「少し化粧直しをしたい。正人は先に戻っていてくれ」
「分かったよ。あーえっと、トイレは向こうの角を曲がった先にあるから」
「そうか、ありがとう」
凛と正人は手を振り合って別れる。正人は一度だけ振り返って凛を見たが、彼女はゆっくりと歩き出していた。これなら大丈夫だろうと、正人はパーティー会場に戻った。
それを凛は背後で察知していた。
大都市に人が集中すればするほど、周辺の町に人はいなくなる。人の喧騒が大きくなればなるほど、周辺は静けさを増す。光が強ければ強いほど、影は深まり濃くなる。
パーティー会場以外の団屋敷は、全く人気がなく静かでとても暗かった。ある目的を持ったある種の人種にとってはとても都合のいい状況だった。だからといって、それだけで館へ潜入するのは論外である。二流は罠であると看破してやってこない。そうと知りながら行動を起こし、失敗するものは三流であり、成功するものが一流であると言えよう。
凛は行動を起こした者の1人だった。そして彼女は一流だった。いや、一流という枠ですら収まらないのかもしれない。
正人の視界から外れた凛は、瞬く間にドレスを裏返しに着て闇に紛れた。そして、夕暮れ時に山から這い出て街を覆う闇と同じ速さで、闇の如く音もなく屋敷の暗闇を駆け始める。廊下から廊下へ、窓下の闇を伝って床を這い、階段を走る。闇に気配はなく特定の闇だけを見られる事もない。
今は夜なのだ。暗闇は屋敷全体を覆っている。凛が屋敷を隈なく調べ上げるのに時間は掛からなかった。
そして一つの扉に到達した。その奥は重要な部屋なのか、扉には普通の鍵穴の他にカードキーを読み込む装置がついていた。鍵などは持っていない凛に扉を開けることはできない。しかし凛の狙いは鍵こそにあった。凛は【A Piece of Electronics】と書かれた電子カードをカードの読み取り機械に当てた。そしてものの数秒後にはカードを戻して再び闇に紛れ、元の場所に戻った。そこはちょうど監視カメラの位置から外れた場所で、再びドレスを裏返しに着てよろよろと歩き出すと、もう数分だけ体調不良によって立ち止まっていた少女という風にしか、監視カメラには記録されなかった。当然ながら、それをリアルタイムで見ていた者はいなかった。そして少しはマシになったと言わんばかりの表情をしてパーティー会場に戻り、何事もなくパーティーは幕を閉じた。