「また新しく入っているな」
オカ研の研究室前にある、匿名OKと書かれたお悩み相談ボックスから、凛は一枚の折られた紙を取り出した。一辺だけ千切れたようになっている、横にボーダーの入った紙だった。千切り方も雑で、所々ボーダーと平行に破れている部分もあった。
「一枚だけ……とりあえず見てみようか」
研究室の鍵を開けて部屋に入る。部屋の気温は夏の到来を予感させた。こもっている熱気を逃そうと、急いでカーテンと窓を開けた。外では運動部がもう部活動の準備を始めている。
紙を机の上に広げる。一行目、簡潔に調査依頼と書いてあった。
「調査依頼か。これは……どうやら友人の素行調査のようだな。
友人である宮永朱里がたまに深夜外出している可能性がある。トラブルに巻き込まれていないか心配だと。宮永朱里か。今度は差出人の名前もちゃんとあるな、斎藤涼香か。正人は知っているか」
「うん。斎藤さんはクラスは違うけど同級生の図書委員だよ。去年ちょっと話したくらいで普段は話す機会もないから、それ以上の事は分からないけど」
「宮永朱里は素行不良をするような生徒なのか」
「いや、そんな生徒には見えないしそんな噂も聞いたことがないかな。凛も剣道部での練習で話したことがあると思うけど、そんなことするような人には見えなかったんじゃないかな」
「それもそうだな。ふむ」
佐藤さんが呟く。
「何か気になることでもあるの」
「なんでもない。それより、その涼香とやらに具体的な話を聞きに行こう。図書委員なら今は図書館にいるのではないか」
「うん……そうだね」
平蔵さんに言われた事は気にかかる。しかし自分1人では斎藤さんの依頼は達成できそうにないと思う。去年も図書委員から依頼があったが、それも全て恵子さんが解決したのだから。
図書館は相変わらず静かだった。高校生だけではなく、レポートに追われている大学生も利用している大型図書館は、そこらにある図書館とは桁違いの蔵書量を誇る。そのため欲しい本はほとんど読むことができる。しかし反面、滅多にない事ではあるが、よくわからない本だったり、さらにはいわくつきの本が紛れていることもあった。
受付には何人かの図書委員に紛れて、斎藤さんがいた。彼女は僕たちの姿を見ると、奥の部屋に案内してくれた。
「久しぶりね団くん。それとそちらは佐藤さんね。初めまして」
「初めまして」
凛はにっこりと笑顔を作った。まるで凛が2人いて入れ替わったように錯覚するほどに、ごく普通の生徒という裏の顔が現れた。
「それで、ここに来たっていうことは頼み事を聞いてくれるっていうことでいいのかしら」
「うん。俺でできる事なら」
「そうよかった。まあ前回の失踪事件とは違って、アレと比べたら迷い猫を探してほしいみたいな簡単なものだから安心していいわ。真部さんが卒業してしまったからね。今回は紙にも書いたとおり、朱里ちゃんの素行調査をしてほしいのよ。それ以外は頼まないわ。もしトラブルに巻き込まれていても解決欲しいとは言わないから。
朱里ちゃんが夜に外出してるって気づいたのは最近だけど、思い返せば半年くらい前からね。だいたい週に2日くらい休み時間中ずっと眠ってる日があるのよ。最近は殆ど毎日ね。それでちょっと夜更かしして調べてみたら、何時からかはわからないけど4時くらいまで外出してたのよ。だからその間にどこで何をしているのかを調べてほしいの。もちろん私もついていこうと思うわ」
「いや、あなたはついてこなくていいよ」
裏の顔に少し表の顔を混ぜて、凛は斎藤さんを見た。
「近頃この街に怪物が出るっていう噂があってね、結構危険だと思うんだ。オカルト研究部の資料にはそんなのに対抗する手段とかもあるから、私たちなら大丈夫だよ。だからここは私たちに任せて。正人君もそれでいいよね」
「ああ、うん」
急に振られて少し吃驚してしまう。そして頭に引っかかることが多くあった。怪物とは何だろう。そんな噂は聞いたことがない。いつからあるのだろうか。もしかして俺が見た魚人だろうか。少しだけ止まった頭に情報が放り込まれて、機能が落ちる。
「あらそうなの……じゃあお願いするわね。これであの本の貸しは無しだから。お願いしたわよ」
「うん」
何とか返事をした正人は脚を動かして図書館を出て行った。
「聞きたいことがあるのだが、いいか」
普段の状態に戻った佐藤さんが訊ねてきた。同意を求めているはずなのに、声色は有無を言わさない威圧が含まれていた。外は暑くなり始めているというのに、少しずつ周囲の気温が下がっているように感じる。
「俺の方も聞きたいことがあるんだけど」
「そうか。ならまずは正人の話から聞こうか。凡そ想像はついているが、なんだ」
「……怪物のことかな。そんな噂は聞いたことがない」
「ああ、噂があるというのは方便だ。いや、そろそろ隠し切れなくなっているだろうか。おっと……まあ、ああでも言わないと、涼香もついてくるのではないかと思ってな。それに怪物がいるのは本当だ。というか正人も見ただろう、魚人を。あんな海洋の怪物がこの街には出没するのだ」
魚人。確かにアレは怪物の類だろう。海洋の怪物という事は、デビルフィッシュのような形の怪物もいるのだろうか。他にもいるのだろう、魚人もそうだがそんなものが揚陸して呼吸は大丈夫なのか。それとも怪物には形が重要で、呼吸みたいなものは関係ないのだろうか。
そんなくだらないことを正人は考えた。彼の脳内ではB級ホラーや口伝などに見る十分に恐ろしい怪物の姿が浮かんでいたのだが、自身はそれほど恐ろしいとは感じていなかった。だから変なことを考えてしまった。
「私の方もいいか」
凛の一声が無駄な思考から脳を現実に戻した。
「ああ、ごめん」
「私が聞きたいのは前回の依頼の事だ。お前と真部恵子が何を依頼されどのように解決したのか、説明してもらおう。失踪やら不穏な言葉があったのでな。気になるのだ」
「わかった。えっと、図書館には読むと次の日には失踪してしまうっていういわくつきの本があったんだ。それで、去年大学部のある学生がそれを面白半分に図書館の中で読んだんだ。まあ中身は見たことのない文字で書かれていたから何が書いてあったかわからなかったらしいけど、案の定その学生は失踪した。最近は怖がって誰も読まなかったらしいから、ただの噂話で本当に失踪するとは思わなかったんだろうって。それで本を調べてほしい、さらにはその人がどうなったかも調べてほしいっていう依頼がオカ研に届いたんだ。これがだいたいの依頼の経緯だよ。
恵子さんが快く引き受けて本を調べたところ、どうやら中身はある海の神様について書かれているらしい事がわかった。その神話の一節に、人が海に呼ばれて海に還るっていうのがあったから、もしかしたら本を読んだ人は本当に海に呼ばれたのかもしれないって恵子さんが結論付けたんだ。どうしてか恵子さんは失踪しなかったけど」
「おい!いまその本はどこにある!」
突然だった。凛は突然正人の胸倉を掴み上げて烈火の如く迫った。
「ほ、本は危ないからって恵子さんがもらっていったから、たぶんまだ家にあるんじゃないかな」
「そうか」
手を放し、言葉を吐き捨てるとそのまま背を向けて大股で歩き出した。普段の余裕ある落ち着いた雰囲気とは違う。焦っている.
しかし数歩進んだところでこっちを振り向いた。カツカツとまるで軍隊の行進のような迫力で歩み寄られる。
「恵子の実家を教えろ」
そのまま痛いくらいにぐっと強く手を握りしめられ、引きずることができるほど引っ張られる。
「正人はどうやら我々が考えていた程度の人物ではないらしい。この街もそうだ。それにその恵子という女もだ」
どうやら不要ではないトラブルには巻き込まれているらしい。
「この本について見覚えはあるか」
受けた依頼もそっちのけで、部室からひったくるように鞄を取った凛は、正人を引きずるようにして恵子の家に向かう道中。凛は自分のタブレットを操作して、正人に1つの画像を見せた。
画像には本だけが写っていた。見るからに分厚そうな本だった。本は全体的に青系の色が使われており、文字も同じ系統の青で書かれていたが少しも読めない。表紙の中央には開いた蓮の花とその上に天秤が描かれていた。
「あっ、これだ。確か依頼された本はこんな感じだったと思う」
本を受け取るときに一度だけ見た。中身は見せてもらえなかったが、似たような絵が描かれていた。けれどあの本とは色や装飾など系統こそ同じだと思われるが、全く同じかと言われると細部が少し違っていた。
「けど、あの本はもっと色が濃かったかな。真っ青か……まるで大海を真上から覗いたっていうくらいに。あと蓮の花とか天秤はもっと装飾されてたと思う」
「やはりそうか」
凛はタブレットをカバンにしまうと、再びぐんぐんと歩き始めた。
「恵子が言ったように、図書館にあったという本は海の神について書かれている本で間違いないだろう。そして私が今見せた本もな。言うなれば聖書と同じだが、読んだ際の効果は全く違う。聖書はせいぜいが全身に聖痕ができるくらいが関の山だが、その本を読んだ者は例外なく必ず海に呼ばれる。
いや、恵子という例外がいるが、それはあの女に問いただせばいい。海に呼ばれた者は体が変化していき、魚と人間の合成物のようなものに成り果てる。お前と出会った夜に見たものも、おそらくはそれだろう。
読む本のレベルによって変化に係る所要時間も変わる。私が見せたものは大体3ヶ月。しかしお前が見たものでは1日と持たないだろうな。
何故恵子が読んで無事だったのだ。そもそも、何故読める。それにこの本が図書館に置いてあったことも気にかかる。
そう言えば涼香は先程、本の貸しと言っていたな。あれは本の借りの間違いではないのか。爆弾よりよほど危険な本を引き取ったのだ」
凛は早口でまくしたてるように言葉を紡ぐ。それに応じて歩行速度も変化した。正人は初めて凛が本当に焦っていると考えた。
「それが、あの時は先生には紛失したって報告したんだ。一応図書館の本だから、個人にあげたとは言えないから。そしたらかなり怒られたんだ。それはもうめちゃくちゃに。1ヶ月くらいずっと本を探させられてたんじゃなかったかな」
「なんだとっ。ならばそいつも……ちっ!」
おもむろに立ち止まった凛は、手をぐっと握りしめてゆっくりと開けた。そして深呼吸を一回する。しかしまだ凛は落ち着いていなかった。傍から見てそれは尋常ではなかった。呼吸は荒く肩がせわしなく上下する。正人はそんな凛の様子を初めて見た。
「おい!どうしたんだ」
正人は正面に回って肩を掴んだ。そしてそこで正人は初めて凛の顔を見た。途端に全身が強張る。彼はそこで様々なものを初めて見た。怒髪、青筋、焦点の定まらない瞳、震える唇。
怒髪冠を衝く。それはもはやキレているという段階ではなかった。
「まずは恵子さんのところに行こう。あの人なら何でも知ってるから」
落ち着かせようと何度も背中をさする。肩を優しくぽんぽんと叩く。まるで親が子をなだめるように、正人の古い記憶にあるその行為を凛にもしていた。
二分もすれば、ようやく凛は落ち着いた。あれほどの取り乱しようなら、まだまだこのままだろうと思っていた正人は意外に思った。
先ほどのは決してポーズではないことは見て取れた。
「そうだな。そうしよう」
遂には平常に戻った凛は再びずんずんと歩き始めた。先ほどよりもなんだか足取りは軽くなったように、正人は感じた。
「フィールドワークなどと言って外泊届を貰ってきたが、こういうときオカルト研究会という名目は便利だな」
まさに閑静な住宅街と呼ぶべきその一角に、恵子さんの家があった。ネームプレートには真部とある。それは特筆する部分のないステレオタイプの家だった。白い壁や三角の屋根など、ただ普通の家だがそこに何とも言えない安心感があった。
インターホンを鳴らす。しかし何の反応も返ってこなかった。
「いないのか」
「たぶんいないかな、連絡を入れたんだけど、その返信もまだ返ってこないから。既読にすらなってないんだ。どうしたんだろう」
携帯を確認してもまだ反応はない。気になって電話を掛けても、繋がらなかった。
「私としては直接話を聞きたかったが仕方がない。とにかく本の確認をせねばならん」
凛はそう言うと敷地内に入っていった。何をしようとしているのかはすぐに分かった。
「ちょっと、勝手に入ったらダメだよ」
立派な住居侵入罪である。しかし学校での様子で正人は少し予想はついたことだったが、凛を止めたところで止まるはずもなく、ドアノブに手を掛ける。凛がノブを回すと、するりと回ってドアが開いた。
「……日本はこんな都心の住宅街でも鍵を閉めないのか」
妙な不安感が胸の奥から湧き上がった。
「そんなことはないと思う。家にいたって鍵をかけるはずだけど」
正人は凛を追い越して玄関に入った。中は電気がついておらず、カーテンも閉め切られているから時間帯も相まって、怖いくらいに暗かった。生活音も全く聞こえない。
「何か妙な感じだ。気を付けろ」
凛が前に出る。腕で正人の体を押さえて、彼の体が前に行こうとするのを防いだ。日野山と同様に正人を守っているように見えた。
「案内しろ。まずは恵子の部屋からだ」
あまり他人に家の内情を伝えるのは憚られると思ったが、恵子さんの心配が勝った。連絡が取れないことと鍵がかかっていないことが、正人の不安を搔き立てた。
凛の背後から階段を上るなど指示を出す。普通なら一分もかからない経路だが、警戒している凛の足取りは重く、五分かかってようやく恵子の寝室に到達した。鍵はかかっていなかった。
慎重に開く。室内を見渡すと彼女の机に一枚のメモがあった。その上にはこの家の合鍵もある。
「家を空ける。勝手に使っていい。連絡は取れない。後の事は任せた。頑張るように。ちなみに家には人払いの結界を張っているので安心だ。真部恵子より団正人へ」
「そうかこの空気は人払いの結界か」
思い当たることがあったのか凛は周囲を見回した。ずっと警戒していたのはこのことだったのかと、正人は考えた。
正人は恵子に連絡が取れない理由が分かったのか一息ついた。これまで張りつめていた緊張がほぐされていく。
「勝手にこの家を捜索してもよいという事でいいな」
「まあそうなるかな」
「なら私は勝手に探す。なに、空き巣のようにするわけではないから安心しろ」
凛はそういったものの、正人は心配だったので再び凛の背中を追った。手早くしかし荒らさないように丁寧に部屋を隈なく探す。といってもそれほど大きくもない家の一階と二階を捜索するのに、それほど時間はかからない。6時を過ぎるころには一通り見終わっていた。
2人はそこでようやく空が暗くなり始めているのに気が付いた。
いくらカーテンを閉めていても外の光は入ってくる。カーテンを閉めて室内灯を点けているだけでも、朝昼夕夜は分かるものだ。家を訪れたときはまだ夕方だったが、今は夜に差し掛かっていた。
「そういえばこの家は自由に使っていいのだったな。なら今日はここに泊まろう。ここからなら深夜の日野守を歩くのにちょうどいい。それにまだ本は探したいからな」
「そんなことしても……って、心配するのはいまさらかな」
その提案には少しばかり驚いたが、凛が本を探したいならば都合がいい。あの本はあれほど凛が取り乱すようなものなのだ。無下にはできない。それに恵子さんのメモもあった。それに以前に訪れた凛の家よりは、ここの方が中心に近い。
「なら晩御飯作らないと。えっと冷蔵庫に食材は……」
「なかったぞ」
キッチンに向かう正人を凛がすげなく止める。もしかするとそこまで凛は探したのだろうか。
「じゃあ買いに行こうか」
「そうだな」
2人は連れ立って近くのスーパーに向かった。
幼い頃から恵子と似たようなことを繰り返し続けているからだろうか、年頃の男女がそのようなことをしている割に、正人はあまり緊張していなかった。
「行くぞ」
日付が変わるころ、正人達は行動を開始した。正人は運動靴を履いて黒っぽい服に凛から渡されたこれまた黒い外套を羽織った。凛は正人と初めて会った夜と同じ装備をしている。同じ装備というのは雰囲気も含めてであった。凛の言葉、一挙手一投足すらが正人の姿勢を正させた。
「走る。ついてこれるな」
凛が振り返って正人を見た。ただ見たというのに、そのどんな日本刀よりも鋭いと思えるほどの双眸が正人を射竦めた。
「う、うん」
言葉通り凛はすぐに夜道を掛けだした。街明りに照らされないように道を選んで走る。少しでも離れてしまうと、正人はすぐに凛の背中を見失いかけてしまって、慌てて速度を上げる。凛は時々後ろを振り返って正人を確認していたが、当の本人にはそんなことに気が付けるほど余裕はなかった。
そのまま30分は走っただろうか、凛の待てという言葉が疾走の終わりの合図だった。
「驚いたな、まさかここまで走れるとは」
「そんなことない……すぅー-、はぁー-……こんなになったのは久しぶりだ」
凛が立ち止まったので、ようやく正人は休憩できた。倒れそうになるのを何とか膝に手をついて踏ん張る。しかし呼吸だけはどうしようもなかった。なるだけ息を潜めようと心がけるも、荒い呼吸はそんなのお構いなしだった。
「私もまさかここまでついてこられるとは思っていなかったがな。お前は自分がどれほど速く走っていたか自覚しているのか」
「そんなに速かったのか。でもいつも走ってるよりは遅かったから助かった」
恵子さんよりは遅かったからここまで走り切ることができたといってもよかった。しかし凛は、ばかなと言って顔をしかめる。
そういう凛は全く息を切らしていない。
「いや今はそんなことに構っている場合ではない。見ろ」
凛が暗闇から道路を指さす。
そこでは目を疑うような光景が繰り広げられていた。まるでファンタジーのような緑と土色の鮮やかなで派手な甲冑に身を包んだ人型が、これまた悪趣味な蛸とも烏賊とも似た触手器官と四方に裂ける口角を持った怪物に対峙していた。人型のほうは、立ち姿や剣捌きを見るに剣道をしている女性だと思われた。甲冑を着て真剣を扱うには少々動きの悪い、よく言えば打突を意識したような太刀筋だ。そして怪物に相対するときの、中段やや左に剣先が向く構えの癖は否応なく宮永朱里の姿と被り、それが彼女であると認めてしまえば、ほとんど違和感はなかった。真剣を扱うようになった故の動きの変遷を考慮すると、それが彼女以外の何物でもないように思えてくる。
「こうしているのは凡そ3か月ぶりか、懐かしいな。おっと、あまり身を乗り出すな。こちらには武装がない、気付かれれば危険だ。しかしやはりそうだったか。何度か竹刀を合わせたからわかるが、アレは宮永朱里だな」
「そう……だね。そうだと思う」
あまりの事に頭がパンクしそうになる。恵子さんとの話や彼女の執筆した本でいくつもの怪物の姿を見てきたが、現実に見るのでは話が違った。
本能レベルで知的好奇心が湧き上がってくる。一歩近づこうとするのを理性が必死に抑えた。本来ならそれだけで心中を全て埋め尽くすはずの恐怖心も確かに存在するのだが、好奇心に押さえつけられていた。そしてそれはおかしいと理性が叫ぶ。
「大丈夫か」
凛にぐっと体を押さえられてようやく視界がはっきりする。こんな状況なのにぼーっとしていたようだ。
「ごめん。もう大丈夫」
落ち着いて再び怪物の方を見る。宮永朱里と思われる戦士は剣を振るって軟体類の怪物の触手を打ち払いながら、一本の触手に斬りかかる。しかし直前で別の触手が朱里を弾き飛ばした。凛はそれをジッと見つめているだけだった。
「大丈夫かなアレ」
心配になって凛に話しかける。
「心配ないだろう。なんの力か知らんが身体能力が上昇しているようだ。普通の人間にはできんような動きをしているし、やつの持つ剣道の技術なら十分対抗できる。それに恵子の自宅ほどではないが簡易な人払いの魔術も使用されているからな。他の誰かを巻き込むこともない。
それよりまだ他にも確かめなければならないことがある。ついてこい」
そう言うとすぐに凛が走り出す。一瞬だけ遅れた正人も何とか追いついて走るが、今度の凛には容赦というものがなかった。正人の体力でぎりぎりついてこられるかどうかのライン上を正確に走る。もう少しゆっくりなんて言えるほどの余裕なんて、正人にあるわけがなかった。
途中。四月初旬に凛と初めて会った夜に見たのは宮永朱里だったのではないか、と正人は考えていた。
「おそらくな」
疾走を止めてゆっくりと歩き出したので凛に考えていたことを伝えると、あっさりとした返答が返ってきた。
「だがまだ断定はできん。あくまで宮永朱里のようだというだけだし、剣を使っている以外に共通項はない。それに他にも似たような存在がいるらしい」
「それはどういう……?」
「気づかんか……ふむ、なるほどな。まあいい、ここにも先ほどと同じ人払いの魔術が使用されている。ただ単に人がこちらに来る道は嫌だ、歩いていきたくないと思わせる程度の簡素なものだがな」
「ああ、本で読んだことがある」
昔に恵子さんから借りた本で見た。魔術というのは論理さえ分かっていれば案外誰でもできそうなものが多いように思う。人払いの魔術もその一つにはいる。もちろん低級で低俗なものに限るのだが、例えば人払いしたい場所に向かう道全てに汚物をぶちまけておくだけでいい。文字通り魔事である。魔術らしくと言えば、烏を使役して道端で鳴かせるとか、蟲を使役して道端に蠢かせるとかだろうか。そんなことを、恵子さんにテストされた記憶がある。魔術なんて言ってもそんなものだ。
「そんなことを書いてある本まであるのか。さてそろそろ魔術の中心部に近づく。気を引き締めろ」
「わかった」
気を引き締めるため意識的に前を向く。その時反動でわずかながら視線が上を向いた。
大通りを避けて路地を歩いているからか、都心から少しは離れているのに空が狭い。だけどビルディングはそれほど高くないから屋上の縁も見える。目の前にある建物の屋上の影が一部だけ少し盛り上がっていた。
あれっと思って目を凝らす。明りは少ない。けれども月に照らされて目が慣れてきて、それが人影であるとわかった。徐々にはっきりとしていく。
「平蔵さん……?」
「なに」
前を歩く凛が振り向きまた振り向いて正人の見ている方を確認すると、正人を引っ張って電柱の影に身を潜めた。人差し指を唇に当て、もう一方の腕で正人の体を抑える。
「よく見つけたな。確かに吉田平蔵だ……」
凛は影に潜みながら思考を巡らせる。
しかしその思考は直後に中断させられた。突如として巨大な魚人が音もなく2人の目の前を吹き飛んでいったのだ!あの夜に見たそれとは比べ物にならないほど大きな魚人が。
凛は声を上げるより早く脇に正人の顔を抱えてその口を塞いだ。そのおかげで正人は叫び声を上げずに済んだ。流れるように指を少し噛んでそれで血をにじませる。そのまま手袋を脱いで両手の甲に血で逆ペンタグラムを描くと、目にもとまらぬ速度で九字を切った。声を潜めながら、しかしはっきりと強い言葉が夜の地面に吸い込まれる。次いで新たな呪文を唱えた。それは正人にはほとんど聞き取れなかった。辛うじて、ま、ら、さ、という言葉は聞き取れた。それにその呪文は南無阿弥陀仏をなんまいだと崩したように、何かを崩していたから、正人にそれが何かわかるはずもなかった。
飛んできた魚人が地面を跳ね、もう一度跳ねるまでに行われたその一連の魔術は、どうやら成功したようで、魚人は明らかに視界内にいるはずの2人を見失った。
正人は酸素をうまく取り入れることができないでいた。じたばた暴れて何とか呼吸口を確保しようとするが、コンクリートで固められたように動かない。青年程度の力では凛を動かせることすらできない。
もがく正人は、次の瞬間に思いもしなかったものを見た。
魚人が吹き飛んできた方から、まさにステレオタイプの魔女といった格好の女が、これまたスタンダードな箒に乗りながらとんがり帽子を抑えて飛んできた。
魔女は2人の目の前で箒から降りた。彼らに気づく様子は全くなく、そのままローブをはためかせながら箒を振るい、人には発音できないような文字にも起こせないような音で呪文を唱えた。正人にはその呪文が二重に聞こえた。
「「でいあくとらちるだろんりい!」」
魔女が、言葉そのものに力が込められているかのような、便宜上文字で表した呪文を唱えるのと、体制を立て直した魚人が魔女に飛び掛かるのは同時だった。
魚人の狂爪が魔女の帽子に触れる。瞬間、魔女の周囲に魔法陣が展開され、その中心から幾筋もの稲妻が走って魚人の体を貫いた。
無音の絶叫がビルディングを揺るがす。打ち震える肉体めがけて、今度は鋭く尖った巨岩が魚人を突き刺し圧殺した。
またも無音の絶叫がこだまする。それは呪いの断末魔だった。無音だからか、絶叫であるのに物質ではなく精神を揺さぶった。
ぷんと強烈な血の匂いと魚臭さが周囲に漂った。
「ふう」
魔女は一仕事を終えて一息ついた。同時に爪が触れて切り裂かれたとんがり帽子がはらりと落ちる。黒いストレートの長髪が揺れる。その下から魔女の素顔が現れた。
正人はその顔に見覚えがあった。真波止学園高等部生徒会長、五島巴。