華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
華たちの中の蟲
スワンプマンという思考実験をご存じだろうか?
曰く不運にも雷に撃たれて死んだ男と全く同一、同質形状の生成物の男が別の落雷が沼に落ちた時の化学反応で生み出されてしまったのだという。だがそのふたつは原子レベルで同じ構造をしており、勿論脳も同一のため記憶も知識も全く同一である沼男…スワンプマンが雷に撃たれて死んだ男の生活の続きを始める。スワンプマン自身も、スワンプマンであることを知らず
この時、スワンプマンは死んだ男と同一人物と言えるのだろうか?という問いだ
ちなみにこの答えは『別人である』と結論が出されている
物質や情報が全く同じでも男は既に死んでいるという因果の歴史がある。つまり幾ら似ていようともスワンプマンは元の男ではないのだ
ではここで少し当て嵌めて考えてみよう
ここに一人の少女がいるとする。その少女は不運にも死んでしまったとある男と全く同一の知識や記憶、経験を持っているという。だが少女と男の間にはなんの関係もなく、また一切の面識もない。しかしその少女は、その男しか知り得ることのない情報を知っており男の死の瞬間まで覚えている
この時、少女と男の間に因果関係はあるのだろうか?
◇
「アンタがメンバーと上手くいってないとか、移籍するとか変なうわさが立ってるってこと」
「それは、」
「………本当なの?」
沈黙が吹き荒れる。本来なら屋上という直射日光が当たる場所の風は生温い熱気を孕みながら夏の到来を告げるはずが今この場に吹き荒れる風はそんな熱気とは程遠い肌を逆立たせるような冷気を纏い吹雪の如き空気が私と愛莉の場所を渦巻いて蹂躙しているようだった
…弁解をするのなら、愛莉の言っていることは間違いではない
確かに長い事他のメンバーと会話らしい会話をしたことが無いし、上はもうグループという垣根が『日野森雫』というブランドの重石になると考えている。だがこれはどちらの言い分も分かるのだ、同じグループの子からすればリーダーらしい事もせず、干渉することもなく個人活動に比重を置いている私は目の上のたん瘤にも等しい
だが上からすれば三強にするはずだった『桐谷遥』は精神的に、『桃井愛莉』はプランディングの失敗により残っているのは『日野森雫』だけになった。空いたブランドの穴埋めの代わりになるのが私しかいない、というのが現状でそれ故に『日野森雫』を遊ばせておく理由などない。
「………………」
「はっきりしなさい!あの時みたいなこと、今回も繰り返すの!?」
残酷に分かりやすく言うのなら、これ以上の損失は許されないのだ
『桃井愛莉』の失敗を踏まえてグループという無益な横の繋がりを切り、『桐谷遥』という失敗を踏まえてアイドルだけではない別のステージで新しい栄養を取り入れさせる。つまり『日野森雫』というアイドルにこれまで以上の投資がされている。
早い話、『日野森雫』は期待されているのだ
『桃井愛莉』の代わりを、『桐谷遥』の代わりを、『日野森雫』の続きを
「雫ッ!」
「…愛莉ちゃん、声が大きいわ」
どちらの言い分も分かり、そして同情できてしまう
そして『日野森雫』も『キャラクター』の産物に過ぎないのならば沈黙が正しい答えだと究極の選択を貫いた、いやこれはどこまで行っても言い訳の後付けだ。私はもっと碌でもなく、どうしようもない理由で放置した
そう。
間違いなく悪い癖だ、悪い癖だと分かっているのに今もこうして周囲に顔を向ける。…ほら、と一瞬視線と視線がぶつかり合いそして私の方から視線を逸らす。物陰に立つ二人の少女の姿、よく見覚えのある青い髪の少女とはじめましてとなる茶髪の少女が立っている
「!!誰かいるの!?」
『MOREMOREJUMP!』の『メインストーリー』が進行する場所は主にこの屋上だ。屋上での運命的な出会いが舞台となる、こうしてまるで蜘蛛の糸が私たちの運命を絡み取るように物語は【シナリオ】通りの結末へとむけて回り始める。
結末まで分かっている映画を見ている気分だと、流れる熱風さえもどこか他人事のまま世界のバックミュージックに耳を傾ける。この世は変わらず安寧の静寂を奏でて近い未来に迫った夏の襲来を届ける、なべてこの世は事も無しということなのだろう。ある意味無情でそれでいて残酷だ
「ASRUNの、桐谷遥……!?アンタ、この学校だったの!?」
ふと頭のどこかで冬将軍という単語はあるのに夏将軍はいないのかというどうでもいい事が頭に浮かんだ。厳しい冬を伝える寒さを冬将軍というのに、厳しい夏を伝える暑さを夏将軍とは言わないとは謎だ。なんて調べるまでもなく頭から消えていきそうな謎に思考を沈めていた時だった
目の前から真っすぐと確かな足取りでやってくる少女たち。その足並みに合わせて私の意識がゆらゆらと揺れて『切り替わる』…いや、これはどこか雨が降る前の気圧が変わって思考が纏まらないあの鈍痛を伝える感覚の一歩手前に近い。考えることを放棄させるような、ぼんやりと歪に意識感覚だけ残るような気色悪さ
「……
「っ…久しぶりだね。雫、この前の雑誌以来?」
ここまで強い『切り替わり』は久々でくらっと来てしまうのに身体は変わらず重心を保ったまま表情も薄く笑みを纏う。【シナリオ】においてまだ『日野森雫』の出番が比較的少ない今でもこれ、毎回こうなるのかと思えばあまりにも億劫だ
「…そうかしら?去年の収録以来、ああ、いえ。そうね、雑誌以来ね。桐谷さん」
「…………雫、それに名前呼び…」
この話の中心は『花里みのり』と『桃井愛莉』だったはずとぼんやり思いだした。確か、アイドルに憧れる少女と憧れに裏切られた『桃井愛莉』の話だったはず。【シナリオ】に直せばまだ第2話か3話程の進行だ。そう、眼前に広がる風景を見る
そういえば屋上が解放されている高校は珍しい。大体の場合は封鎖されていることが殆どなのに、だがこの場所から見える街を一望できる風景は嫌いではなく水平線の先で微かに形を成す空と海が混ざった青さは中々見ることが出来ない貴重な青さだ
「ちょっと!こっちが話してるのよ! コソコソ盗み聞きなんて、いい度胸じゃない!」
「盗み聞き?……貴女は、雫の友人ですか?」
「そうよ!そういうアンタこそ何用よ!」
ふと青空を仰げば空の青と雲の白のコントラストを汚す様に黒い影となって一匹の鳥が空を力強く駆ける。ふと何故か今朝見た渡り鳥の事を思い出した、あの鳥はどこまで飛んでいくのだろう?どうしてこの空を駆けていくのだろうか?
目の前で掴みかかるかのような形相で愛莉が桐谷さんに掴みかかろうとしている、流石にそこまで行くほど喧嘩早いわけではないし自制心も掛かるだろうけどこれほどまで怒気を露にしている愛莉なんて私が知る限りでは初めましての出会いで話しかけられた時以来ではなかろうか
「
「っな!知ったような口を…!それに、ダンス?ひとりで?なんでよ?」
気が強いというのが愛莉の美徳ではあるが桐谷さんの後ろで少女が震えているのを見るとそのまま喧嘩に発展しそうに見えるのだろうか。確かに二人ともどこか刺々しく痛々しい姿のまま口論を続けている、止めるべきだろうか否か
その一瞬の逡巡を置いて、世界は加速する
少女の名前を『花里みのり』彼女はアイドルを目指していてオーディションに50回ほど受けるが今まで二次審査を抜けたことも無いという【シナリオ】通りの変わらない物語の始まり。往々にしてこういう主人公はそう何十回も躓いても立ち上がるタフさがある
健気というべきだろうか
私にはこの子の素朴で、それでいて変わらず燃え上がるように輝き続ける光の方がチクリと刺して抜けない返し針のように刺さって抜けない。一口で可哀想と下ろしてしまうにはあまりにもその輝きが、泣きたくなるほど眩しくて
「もっと、もっと、もぉーっとがんばれば、きっと……!」
そうだよね。そうだった
諦められるのなら簡単に諦められるのなら夢や希望にはならなかった
「…………………」
「頑張っただけでなんとか、なるわけないじゃない……ッ!」
黙り込む桐谷さんと重々しくつぶやく愛莉に私はどこか他人事のように眺めた
そこにあるのは、現実への失意と怒りだ。変えたくても変えられなかったまだあまりにも若い情熱のひとつ、それに対して私にあるのはどこまで行っても無味無臭の【無い】事さえない様な…言うなれば、そう。虚無
期待することも無いから、裏切られることはない
……果たしてそれは健全な精神状態であると言えるのか。それさえも分からないから、口から出る言葉は自分でも吐き気がしそうなぐらい軽く空々しい
「けど挑戦は素晴らしい事よ。
顔の筋肉を意図的に動かす様に制御し笑みを形作る。いつも通り手慣れた『日野森雫』の微笑、ある種の私の仮面か何かかと言われればおそらくそうなのだろうという自信はある。…だってこの笑みは私が『日野森雫』であると理解した時に身に着けたものだから
ああ、そうか。何故か不意に思い出した
私は何もかもを覆い隠すために『日野森雫』になったことを
「……………え?」
「っ。雫、……アンタら本当に、っ話をややこしく……」
「それはこっちのセリフです……ッ!どうしてここまで…」
呆然と立ち尽くす『花里みのり』は置いておいて。その横でまた取っ組み合いの喧嘩を始めようかと言わんばかりの『桃井愛莉』と『桐谷遥』の姿を見ているとその実、二人はとてもウマが合うのではないか?と思う…けど、どうか。【シナリオ】によれば同じグループとしてアイドルになるらしいからさもありなんと言ったところだろうか
少し火照ってくるぐらいには長い事屋上にいすぎたかと時計を見る。そろそろ志歩との約束の時間になってしまうのを考えればそろそろ話を終えないといけないのかもしれないけど、どうやらまだ続くらしい。もしかしたら今回もまた志歩が迎えに来る方が早いのかなと殆どない姉の威厳が薄れゆくのに小さく息を吐いた。
「…………はぁ、まあいいわ。それでアンタ、本当にアイドルを目指すの?」
「っ、はい!もちろんです!」
空が眩しい。ふと何かを拭うように下を見た
「正直に言うなら、頑張ってもなんとかるわけじゃ……」
「私信じているんです!」
無機質な屋上のコンクリに伸びる黒い影。実体よりも大きくなるそれは私なのか、或いは『日野森雫』か
「………信じてる?」
「『今日がいい日じゃなくても、明日はいい日になれないかもしれない。だからみんなが、明日こそは大丈夫って信じてがんばれるようにこのステージから、「明日をがんばる希望」を届けたいんです!』 ……この言葉を!」
だから嫌いだ。夏は、暑いのは嫌いだ
『ふふふ♪』
─────浮ついた熱風が変なものを見せる、から