華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
第九話 憑依刑
正しい『日野森雫』の姿一つも出来ないまま、
無様にこのセカイを呪っているだけだ。
くだらない哀愁を求めているだけだ。
もうどうしようもない、もう止まれない
どうしたって変わらない未来を恨んで、
どうしたって成れない■の人生を羨んでいる
◇
案外、夜はすぐに過ぎ去るものだと気が付いたのはいつだったか
微かに揺れるカーテンから見える朝焼けの空を仰ぎながら敷いたシーツから体を起こすと外の景色はじきに何かを恐れるように薄明るく、そして私たちの良く知る空の色へと変わっていく。夜と朝の境界には得も言われぬ不思議な魅力があった。
いつしか私の中でこの空は見慣れてしまったものになってしまった
『日野森雫』になってから早十年と少し…睡眠の効率が良いためか目覚めの朝が不快になったことはない。今もこうしてシーツを干し、布団をたたんでもまだ多くの時間がある
(………………)
私は私が思っている以上に眠りが浅くそしてショートスリーパーだ。おかげでこうしてと部屋に備え付けた電気ケトルに水を入れスイッチを押し上げる。次第に湯を沸かす独特な音を奏でるのを尻目に取り出したるは煎茶のパック…熱湯をそのままコップにぶち込むから風味もクソも無いけど
味が染みるぐらいには待ってそのまま口に付ける。
風味が飛んでるといえば気取ったようには聞こえるが家で飲むぐらいならこれぐらいの茶の渋みで喉を潤すのが一番満足できる。
ふと、そんな時だった
(………………?)
唐突に感じる背後からの気配。まるで何かが見ているかのようなそれに私は小さく後ろを振り返る
だけど勿論そこには何もないし、誰もいない。ただいつも通りに『日野森雫』を映す姿見と殆ど物が置かれていない化粧台がポツリと並ぶだけだ。
…一体何だったのだろうか。誰かが通るにしてもこの時間に起きているのは私ぐらいだ
勘違いか何かだろう。お風呂でシャンプーをしている時に背後から気配を感じるような、それぐらいの些細な違和感、こうして考えなければ次のタイミングにでも忘れそうなそれにわざわざ気取られてしまうほど現状に想うところがあるのだろうか
まあそれもさもありなんというべきだろう。
ついに始まったのだ。『日野森雫』のストーリーが『プロジェクトセカイ』の『メインストーリー』がようやく十年と少しの時を以ってようやく報われるのだ。
(えっと、ここからは愛莉ちゃんの話から進むのよね)
だからキチンと踊れるようにと何度も、何度も何度も読み直して再生した全20話をもう一度指でなぞって『日野森雫』という器を満たす。感覚としてはコピーアンドペーストに近い、そっくりそのまま『日野森雫』というキャラクターで形作る
『花里みのり』から始まった1人のアイドル志望と3人の一度は折れたアイドルたちが再起して立ち上がる物語。
その物語には欠けてはならない起承転結の『起』の部分…即ち、物語の導線が。例えるならそう、かの有名なクトゥルフ神話TRPGを知っているだろうか?あれの中で警察は無能でなくてはならないという法則がある。
では何故無能でなくてはらないのか、それは警察が有能であればあるほどプレイヤーの出る幕が無くなってしまうからだ。プレイヤーを『シナリオ』を引き立てるためには無能でなければならない存在がいる
それを必要悪とみるか
物語に歪められた存在と見るかにもよるけど
(『桃井愛莉』は事務所による影響、そして『桐谷遥』はアイドルという存在への失望)
……私はその談議に交ざる資格はない。
『日野森雫』の友人を、後輩を冷静に比較できてしまう私は間違いなく引き立て役を作ってしまう、どこまで行っても外から俯瞰するだけの舞台に上がりもしない……卑怯者だ
(そして『日野森雫』は……)
『プロジェクトセカイ』と違うのは『日野森雫』の中身だ
そしてその影響は『日野森雫』が本来感じていたはずの疎外感や、孤独を削ぎ落すには十分だった。直球で言うなら…ハブられている現状でも別に影響が出ないなら好きに言えばいいと思う、ところだった
「生まれ持ってるものだけ、ね」
酷い言われようだ、まあ事実だから仕方ないけど
だけどひとつ間違いがあるとするなら悪いのは『日野森雫』ではない事ぐらいだろうか。とは言え、そんな事誰も分からないからやっぱりそうなるのだろう。
…不思議と、なんの感慨も浮かばない。
(『花里みのり』、か)
皮肉なものだ。夢に焦がれるものだけにセカイが開かれるのだとしたら
きっと間違いなく『花里みのり』は『主人公』だ。それもどうしようもないほどに誰からも好かれるような主人公になれるだろう。…あの、桃色の髪の彩の名前を持つあのアイドルのように、バンドのように
『やっほー!おはよう!雫ちゃん!』
「あら?ミクちゃん?おはよう!早いわね」
立ち上る湯気に視界を占領されてぽっかり空いた穴に居座るバケモノみたいなその思考を遮るように畳に放置されたままのスマホから何かを映す様に光輝いたかと思ったら、その中から昨日見たミクの姿が大きく伸びをするかのように浮かび上がってきた
『うん!雫ちゃんに合わせてみたの!どうかな?』
「もっとちゃんと寝ないと…お肌に悪いわよ?」
時間を見れば少し朝と言うにはまだ早い様な時間
己の事を棚に上げてさも賢げによく言えたものだが寝れないことは仕方ない、こればかりは眠りが浅く誰かが近づいてきても去って行っても物音ひとつで目を覚ますこの身体の特性だ。しかもそれほどの浅さでありながら疲労を感じることも滅多にない
『他のみんなはまだお眠だよ!』
「そう。それで何か話でも?」
利便性だけを上げるのなら間違いなく今の『日野森雫』の肉体の方が■の時よりも上位互換だ。
ひとつひとつの動きがまるで適応するかのように肉体が出力し何もかもを塗り潰して『日野森雫』という存在の形を模る。…そうすると決めたのは私自身だったはずなのに未だに精神だけは■に縋りついて、依存して離れられない
それは、■の自己同一性は捨てたはずだ
『日野森雫』にはもう関わりのない話だ、苦難の果てに■の存在は完結した。
『うん。雫ちゃん、お話しようか』
「いいわよ!なにから話をしましょうか!」
切り捨てる、削ぎ落す、振り捨てる、省略する、排除する…ふるい落とす
そうして小さくなったこの『ひとつ』だけを胸の奥に閉まって鍵を掛ける。そうでもしないと動けない自分がなんとも惨めで弱い、まだ『日野森雫』になり切れていない。と強く自覚する
『日野森雫』を維持しろ
それ以外に、さほど価値はない
『……雫ちゃんは、無理してない?』
「あら?どうして?」
目の前のミクの姿はやはり私が知るところの『モアジャンミク』と呼ぶのに相応しい存在。
アイドルと言う夢から生まれたそのセカイはサイリウムが輝くあのどこまでも続くステージのセカイなのだろう。…思い出すのはいつかのライブ。確かにあの光景は、まるで宙に無数の星が輝くようなあの感動は確かにアイドルの原動力たり得るのだろう。
『雫ちゃんはずっと怖がっているから』
「私が怖がってる……?」
生憎と、恐れることはなにもないとそう胸を張れたらよかったのだけど
こうして何もしていない、考える時間があれば無駄に考えだけが延々と空回るこの感覚
『うん。雫ちゃんは見えないモノばかり見て怖がってる。…ちゃんと愛莉ちゃんや遥ちゃん、そしてみのりちゃんの事見てあげている?』
「…………ええ、」
だから返す言葉はひとつだけ。
いつものように笑みを浮かべて『日野森雫』は微笑んだ
「勿論、見ているわよ」
『逃げちゃだめだよ』
それでも、とミクの緑色の瞳が私を空っぽの『日野森雫』を見透かすかのように見つめている
VOCALOID。このセカイだけではない■の世界であっても多くの夢を託された、最も新しき神話の織り手。電子の歌姫である彼女には全てお見通しなのだろう、無駄な抵抗だと小さくため息を手に持った温いコップに吐いた
せめて口には出すまいと、言霊になる事だけは避けたかった
出してしまえばきっと私はもう立っていられない気がしたから
「……逃げてなんかないわ」
『雫ちゃん』
むしろ。どう逃げろというのか、どこに逃げろというのか
姿隠しでも、ルーラでも。この世界にそんなお伽噺のような魔法があれば私は、本物の『日野森雫』を取り戻せたのだろうか。こんな私じゃなくて、本物の『日野森雫』が生きていたのだろうか
『辛かったら、泣いてもいいんだよ。苦しかったら、立ち止まってもいいの』
「……そう、ありがとうね。ミクちゃん」
だから、もう『たられば』に価値は無いのだ。
正解も間違いも
『待って!ねえ雫ちゃん!何を……っ!』
────ピシリ、そう亀裂が走る音が響く
嫌な音だと私は少しだけそう思った。本当に少しだけ
「……お姉ちゃん?」
「あら?おはよう!しぃちゃん!今日も早いわね!」
「うん。なんか目が覚めちゃって…それでお姉ちゃん、その手は?」
「手?…ああ、いけない
◇
いつも通り何も変わらない日常。
志歩ちゃんと朝ご飯を作って、朝比奈さんと練習をして、愛莉ちゃんと肩を並べて授業を受ければ既に時間は放課後へとなっていた。ここ最近は雑誌やラジオの仕事だけでなく一席設けることが多かったから、こうしてオフの日は貴重だ。
何処まで行っても庶民感が抜けない私は今の危ないものを孕みながらも煌びやかに輝くこの業界に眩しいと目を細める事が殆どだ。確かに学生では決して手が届かないような懐石料理や饗膳は言葉には表せないような感動があるがやはり実家で炊いた白米にふりかけや、ジャンキーなモノが恋しくなる
「はぁ…はぁ、つ、疲れた~!」
そんな事を考えながらも今集中することは目の前で踊る一人の少女。この物語の『主人公』である『花里みのり』の成長は圧倒的…というわけではないが確かに少しずつでも成長している。これを見るに『花里みのり』の不屈性が彼女を『主人公』足らしめているのだろう。
折れず、立ち上がる。その姿に人は応援したいと夢を抱く
それは決して私たちのようなアイドルが持たない、持ってはならない輝きだ。…だが確かに、それは『花里みのり』の美徳だろう。素直に尊敬したくなる
「お疲れ様みのりちゃん、今日も頑張ったわね」
前後から見ている私と愛莉ちゃんの他に近くで桐谷さんも気にしていないふりをしながら見ている。
近くで見たらいいのには思うけど理由があるのだろう。とは言えそこまで熱視線を向けられると困ってしまう
手渡したスポーツドリンクを一息で半分ほど飲み干す花里さんの姿を見れば余程暑かったのだろう。確かに日差しは強くないが、この陽気な中でひたすらに踊り続ければさもありなんというべきだろうかと屋上を象るコンクリートに残ったシミを眺めながらタオルを手渡す
「あ、ありがとうございます!!どうでした…?」
「正直言ってまだまだね…けどちょっとマシになってきてる」
本当にちょっとだけね!と声を荒げる愛莉ちゃん
その姿に少しだけ懐かしく思ってしまう…それは、かつて私が練習していた時に見ていた愛莉ちゃんの感想が一語一句変わらず同じそれだったから。
「私?…私からはそうね。
「そ、そうですか……」
「まあとにかく!今日できなかったとこ、ちゃんと確認しておくように!」
別に『花里みのり』に興味がないとか、言葉にする必要がないと思っているわけではなく単純に私の実力では彼女に指導できるほどの腕前ではないからだ。歌もダンスも間違いなく他のメンバーの方が上手いだろう、だから指導するならメリハリが付く愛莉ちゃんの方が向いているというわけだ
「はい!…うっ、痛たたた……」
「ちょっと!大丈夫!?」
そんな誰に弁解するのか分からない御託をダラダラと並べていれば目の前で花里さんが滑ったのか足首を挫いたのだろう。結構派手に転がったようにも見える、身体を解していたからそこまで変な力が掛かっていないようにも思えるけど
「見せて、みのり」
「見せてちょうだいな、花里さん」
いつの間にか近づいてきていた桐谷さんと2人でその捻ったであろう患部を見る。
良かった。どうやら目に見える範囲では赤くもなっていない。幾ら『花里みのり』と言え、ケガをしないわけではないだろう。多分…
「よかった…腫れてはないみたい。雫、湿布持っている?」
「ええ、ちょっと待ってね。取りに行ってくるわ」
声をかけて立ち上がる。向かう先は部室、あそこならそういうセットもあるだろう
生憎と今は