華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
『お医者さんになりたいって夢が、叶うといいわね。』
──うるさい
『ああ。まふゆがしたいことをすればいい』
──わからない
『『私達の、自慢の娘なんだから』』
──私は、何がしたかったのだろうか
◇
したいことも、勿論やりたいことなんて何もない。
もうどうしようもないから吐き出した私のもうひとつの『OWN』でさえも今となってはもう何も見つけ出せなかった。救われたような気がした『K』の曲も結局、何も見つける事なんてできなかった。…けど、それでも。まだ私と同じような人が足掻いているから少しだけ頑張ってみようと思っていた
構えた弓にからっぽの心を乗せて弦を引く。
一息吐いてそして息を少し貯めて…今その先にある的だけを眺めて手を放す。そして残心、思考も何もかも手放したこの感覚は確かに嫌じゃない、空気とひとつになって解けていく感覚。それはまるで水草しか入れていないアクアリウムを眺めた時と似た感じで
「凄いね!朝比奈さん、また当たりじゃん!」
「ありがとう!けど自分もまだまだだよ」
隣に立つのは誰だろうか。まあ誰でもいいか、日野森さんじゃない事は確かだし
基本的に日野森さんが練習に来るのは朝の時間だけだ。既にアイドルやモデルとして社会に出ている身として放課後だけでなく遅く来たり、昼には帰ったりする姿を見かけることがある。だからこの放課後の練習には私1人だ
…部活でも、クラスでも実は私と日野森さんが親密であるという話はどこにも聞かない
同じ部活に入っているだけの顔見知りという関係を周囲に見せる日野森さんの相手の立場と、自分の立ち位置。そしてそれに伴う面倒ごとを察知しうまく乗り切る日野森さんのお陰で今日この日まで私と日野森さんの関係は上手くやってきた。
(…だからこそ、私たちはまだ苗字呼びなんだけど)
けど、ちょっとだけ胸が苦しくなることはある
一年とちょっとの間も共に練習をしてまだ『友達』のような名前呼びが出来ていないから
「……ごめん、ちょっと汗吹いてくるね」
「あ、はーい。いってらっしゃい」
友達かと言われればそうだと言えるけど、友達じゃないと言われても多分そうだと納得できる距離感
それは偏に日野森さんが築いたある意味絶対的ともいえる線引きの上に成り立っている距離だ。心配はしても踏み込まない、話の中身は朝の練習の時間で忘れる。その2つの無言の掟があまりにも心地よくて私もそれに甘えてしまう
(……あれ?)
練習場から更衣室までは少し距離がある。
だからだろうか、そこには本来いない人の姿がよく見える…噂をすれば影というようにそこには制服姿の日野森さんが一瞬ぼんやりと立ち尽くした後に更衣室の扉を開けて入っていく姿。
練習でもするのだろうか、今日は用事があると聞いていたのだけど何の用があろうと日野森さんは弓道部員である以上、弓道部の更衣室に入ることはなんら間違いではないから何も気にすることもなく入ってしまえばいい。
「あれ?日野森さん?」
「あら、朝比奈さん!お疲れ様です」
扉を開けて中を見れば、そこでは何かを探す様に自分のロッカーを漁っている日野森さん
私もだけどロッカーの中に物はあまり入っていない。その中から何を探しに来たのだろうと近づけばどうやら救急箱を開けているみたいだった。…誰かケガしたのだろうか
「どうかしたの?珍しいね」
「ああ。ちょっとケガしちゃった子がいてね!救急箱取りに来たの」
今までで日野森さんがケガしたところは見たことが無い
だから別の誰かと思ったけど合ってたみたいだ。…その湿布の用意は誰のモノなんだろうか、日野森さんの親友を自称する桃井さんのためだろうか、それとも最近復学したと噂の桐谷さんだろうか。別に気にはしないけど少しだけ気になる
「そうなんだ。…連絡してくれたら私の貸せたのに」
同じように湿布や包帯を常備しているのは私もだ
そういう私のは同級生や後輩にあげたりしているから比較的使い込まれているのを日野森さんも知っているはずなのにどうして私を頼ってくれなかったのだろうか。電話でもかけてくれたら日野森さんだったらいつでも出れるようにしているのに
……別に他意はない。
そうした方が日野森さんだっていい筈だし、私も『あのトップモデルと親友なのだ』と言えばお母さんは喜んで許してくれる。だから驚いた、日野森さんが何気ない顔で手に取ったスマホが
「ごめんなさいね。今スマホ壊れてて」
「……高いところから落としたの?」
素人目だから偶然そう見えるだけかもしれない。まだ慌てる時じゃない、精密機械は壊れやすい…それに日野森さんは自称しているぐらいには機械に疎いアナログなタイプだ。だから何かの間違いで壊してしまったのかもしれないと私は自分の中で納得させようとした
『まふゆ、まふゆ……!』
その時だった。私のスマホから聞こえた空耳のようにか細いミクの声
セカイと呼ばれる私の想いからできたところに住むバーチャルシンガーがスマホを介してこちらを見ていることに気が付いた。それも今までに見たこともない様な噛み締めるような、痛みを堪える様な顔色で私と日野森さんを交互に見るミク
目の前で今も救急箱を触っている日野森さんはミクの姿は見えていないし、聞こえていないみたいだ
半透明の透けている姿でスマホから浮かび上がってきて日野森さんの顔を覗く。…そんな事も出来たんだ、あまりセカイについてもミクについても聞くことが無かったから
『苦しそう。あの子、今にもこわれてしまう…このままだと、』
ミクの手が日野森さんの前髪に触れようとした瞬間…まるで何かに拒絶されるかのようにミクの手が弾かれるのを見て私は怖気ついた。セカイは落ち着ける場所で、どうしようもなく真っ黒になりそうな時にセカイの中は静かで少しだけ落ち着けるはずの場所
ミクもセカイさえも拒む日野森さんの微笑みが今だけは少しゾッとする
私の『いい子』よりもずっとぶ厚く、ずっと色濃いその微笑みの裏
「いいえ?
「っ!そ、そっか…ちなみにそれは今朝の話?」
「?そうよ。だからこの後買い替えないといけないの…」
今見たのが幻覚であってほしかった。
だけど残酷にもいつも通りの口調で伝える日野森さんの否定の言葉が何故か安寧の場所である筈のセカイさえも拒絶したように聞こえて私の危機感はより一層強まった。…考えたくない最悪の想定だけど
多分、日野森さんにも私と同じ消えたい想いからできたセカイがあったのだ
だけどそのセカイに入る鍵である【Untitled】はすぐには見つけてもらえなかった。だから今回のミクのように現実世界へと干渉して日野森さんの眼前に現れた…多分、それが今朝の事。でも
──『日野森雫には、必要のないものよ。』
いつか日野森さんが語ったそれ。自分の名前と共に吐き捨てたその無関心さ
無理矢理、自分の形を捻じ曲げて汚したような饐えたおと。自分なんて最初からどこにも居ないのだと氷のように固く薄い瞳は鈍い反射の光がそれを雄弁に伝えている気がして
…だからきっと、そうなのだろう。
何も見つからない事さえも拒絶して日野森さんは無自覚のうちにスマホを叩き割った。必要のないものだと言ってまるで全部を削ぎ落していくような、生きることにすら頓着しない様なサイコロを振るかのような無関心が『日野森雫』、ないし日野森さんの根底にあるものだとしたら
「大変だね……私も、手伝おうか?」
同じように消えてしまいたかった。
だけど日野森さんのそれは消えてしまいたい事さえも『消えてしまう』ぐらいのモノ
「えっ?…有難いけれど、朝比奈さんも忙しいでしょう?」
「別に、もう何でもないよ」
やっぱり私は何にも見つからなかった。
本当の想いは最初から分かっていた…分かっていて、目を逸らしていた。日野森さんと一緒だったらまだ頑張れるなんて思い上がりだった。日野森さんは私よりもずっと消えたくてけど『日野森雫』のために、それ以外の全部を諦めて捨ててしまった人
「……朝比奈さん?」
「ねえ。日野森さん、貴女はどうして頑張れるの?」
そんな人に、どうやって手を伸ばせばよかったのだろう
消えたい想いを見つけて楽になったと思う私が、どうやって
「……私が『日野森雫』だからよ」
「それは呪いと何が違うの」
それでもと言うように、或いは自分を納得させるように吐いた言葉はあの日と同じ自分に言い聞かせるような、自分を無理矢理納得させるような…心が冷え切ってしまって、自分で自分を忘れてしまいそうになったあの日の味を噛み締めて、飲み込んで理解した時の、こえ
そうなるのも当たり前だ。だって日野森さんは、ううん。『日野森雫』は生まれてから今まで数えるのも億劫になるぐらい沢山のモノを捨て去って自分で踏みつけて無価値だと言い聞かせて、それでも立たなければならなかった人なんだ
「ええ、呪いよ」
まるで雁字搦めになった鎖が『日野森雫』を強く縛り付けているかのようだ
それを分かっているのに、その先に有るモノが何もないと分かっているのに『日野森雫』だからという一点だけで、何の躊躇もなく大切なモノを差し出し続けた人
何が、誰が日野森さんをそうさせたのだろうか
そう歩ませるしかなかったのだろうか。何もかも磨り潰した先に日野森さんの中に誰かが、私はいるのかと思ったら自分が驚くぐらいの声色で日野森さんを羽織い締めにするかのように掴みかかっていた
「っ!なら、どうして!」
独りにしてはならないと思った。
この人は間違いなく『日野森雫』は今までで一度も自分の生き死ににさえも諦めてすててしまった人だ。どんな生き方をすればそうなってしまうのか。自分が存在しない方が都合がいいのではないかなんて言ってそのまま足を踏み外してしまいそうな笑み
「なら消えたいと言えば、私は救われるの?」
……ぁ、ああ。
そんなつもりじゃなかった。そんなつもりなんて無かった
ほんとうに、そんなつもりじゃなかったのだ。ただ少しでも私は日野森さんを知りたいと思ってしまったから、笑ってしまう。今までずっと踏み込まないように、忘れるようにと距離感に甘えていたのは
「『日野森雫』を壊してぐちゃぐちゃにして消してしまえば私は救われるのかしら?」
私じゃないか
『まふゆ!…セカイに、きて』
そこから先の事は私はほとんど覚えていない
……忘れてしまいたいと、思ってしまったから
だから聞こえてきたミクの慌てる声に、それ幸いと私は何かを番えるかのように指を伸ばした
何を番えたのだろう。もうよく分からないはずの私でも分かることがある。それは私はさいごの寄る辺さえも失ってしまったこと。あの日の胸がポカポカしたぬくもりさえも私が、私が……わたし、が
「………大丈夫だよ。日野森さん、私と一緒に消えよう?」
救えなかった。救われたかった
……誰か私を、日野森さんを見つけて