華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
ふわふわ飛ぶのはきちんと大人になってから
「………大丈夫だよ。日野森さん、私と一緒に消えよう?」
背後から声が聞こえる。それは、あまりに魅力的な提案
今の『日野森雫』にさえ成りきれなかった私には抗えない朝比奈さんの手が視界を覆うように、目を隠す様に背後からまるで茨の棘のように私を取り囲み、抱きしめるように囁く。
綺麗な真白の指の隙間から虹色の極光が微かに見える。私はこの光を知っている…『プロジェクトセカイ』における設定のうちのひとつ『セカイ』へと移動するときに放たれる光の散らばり。どうやら私は『朝比奈まふゆ』のセカイである『誰もいないセカイ』へと転送されているのだろう
『日野森雫』が『ステージのセカイ』以外に侵入ることができるのか
……まあ、どうでもいいか。今の私は『日野森雫』にさえも成れなかったデキソコナイだ
「……静かな、場所ね」
「あまり、お気に召さない?」
光に包まれた視界が晴れると同時に朝比奈さんが私の目を覆い隠していた手を退けた。
私の視界にまず映ったのは、白色。一面のまるで灰のような白く濁りのない大地に突き刺さる鉄骨や突起がこのセカイの凹凸感を辛うじて醸し出している。…だけど私が秘かに驚いたのはそこではない
このセカイは思っていたよりも寒々しくはない
むしろ今までの中で一番しっかり感じるぐらいには穏やかな場所だった
「いいえ。居心地がいいぐらいよ」
「良かった。…私が、出来ることはこれぐらいしかないから」
地面はまるで鏡のようによく磨かれた大理石のように透き通り私たちの姿を映し出している。
もっとひどい顔をしているのかと思っていたけど、想像よりもずっとマトモそうな顔をしている。顔色にも問題はない、少し指で表情をなぞってやればまたいつも通りの『日野森雫』の微笑みが出来そうだ
間違えたと分かったがそれでも私には『日野森雫』しかない
今回、限界になったのは間違いなく■が大きく残りすぎたせいだ。もっと■を減らして『日野森雫』を増やさないとまた同じことを繰り返すことになる。それでは元の木阿弥だ
「……ここが何処か分からないけど、朝比奈さんが助けてくれたのは分かったわ。
仕方ない。もう少し記憶を、削ろう
それに追従する感情も郷愁も私を占める中で大きなモノだ。これも消した方がいいだろう…ああ、どうせならいっその事私ごと消した方が早いか。『日野森雫』に必要なのは『プロジェクトセカイ』における『日野森雫』の『記憶』だけだ
何も難しい事じゃない。前にもやったのだから
やり方としては簡単だ。何度も何度も読み直して再生した『メインストーリー』のように、何度も何度も読み直して再生した私という『ガラクタ』を『アンインストール』すればいい
「それ。ダメ」
「え?」
棄てたものも覚えていれば後で紙にでも、メモにでも書き起こしたらいい。
笑みを作り直す。もっと『日野森雫』らしく『『Cheerful*Days』のセンターらしく、『16歳』らしい笑みを…試行していたその時だった。私の思考を遮るように腕を掴み上げる感覚
……そうだった。ここは『日野森雫』の部屋じゃない。
そこに立つのは『朝比奈まふゆ』の姿。口数少ないながらも食い込むほどに強く腕を掴む姿に私は行動を止める。幾ら『シナリオ』を壊してしまったと理解しても、私の事情に『朝比奈まふゆ』は関係ない。取り乱してしまったとは言え、そこに立つ少女を無視することは『日野森雫』はしないだろう
「…今、なにしようとしたの?
「どうかしたの?朝比奈さん」
『朝比奈まふゆ』と『日野森雫』の間に名前呼びの関係はあっただろうか?
…どうでもいいか、今考えるべきことはどうやって『誰もいないセカイ』から出るかの一点だけだ。本来『セカイ』に入るためには音楽ファイルである『Untitled』を経由しなければならない
しかし生憎と私のスマホは壊れているため、必然と必要なのは朝比奈さんの持つスマホ頼りだ。とはいえ
「だめ、ダメだよ。雫」
「……痛いわ、朝比奈さん」
掴まれた腕から、私をまるで抱き枕にするかのように真正面から抱き着いてくる朝比奈さん。
……初めて感じる誰かの温もりという感覚。ああ、このゲームの中で『プロジェクトセカイ』という物語の中で確かに血と肉が通った同じ人なのだ
けどそんな事を今更理解したとてなんの意味があるのだろう
どれほど美辞麗句で象ったとしても私は独り善がりなのに
「これ以上、どこにもいかないで」
「?」
「痛いときは、苦しいときに抱え込まないで。言わないと、分かんないよ」
──可哀想にね
いつかの老婆の顔と言葉が朝比奈さんの顔と被る。憐れみにも、憐憫にも私は返せるものはどこにもない。痛くはない、もちろん苦しくもない。痛くはない、苦しくはない。なにも感じないのだから当然だけど
「どこも、痛くないわよ」
「うそつかないで。雫、ここは私と貴女しかいないから」
例えるなら、いつかのロールプレイと一緒だ
漫画の主人公が、ゲームのキャラクターがどれほど悲しき過去・・を持っていたとして読者は、プレイヤーはどれほどそれに心を痛めることができるだろうか。可哀想、痛そう、悲しそう…それはどこまで行こうとも感情移入でしかない
「嘘をついているつもりはないのだけど……そうね」
■を笑ってくれるような人も、■を止めてくれるような人も
いなかった。どこにも居なかった、だからきっと私はどこにもいけないのだろうとそう信じていた。ずっと、ずっと
「悲しいって、なんだったかしら」
「…………え?」
……輝きと、後悔だけしかもう残っていない
気が付けばこの手には『思い出』しか掴めなかった。未来も、希望も、過去も、夢も想いも捨てて…『日野森雫』なんて在りもしないキャラクターだけに溺れて何もかも絶ってしまった。
分かることはただひとつ。最初から間違えていたのだ
認めたくなかった、認める事なんてできるはずがなかった。■が『日野森雫』の身体を奪ってしまって生まれてしまったことになんの意味もないということが許せなかった。存在価値を全てたったひとつの解を、あるかどうかも分からない理由のために走り続けた全てが無意味だと、信じたくなかった
(ああ、だから…間違えたのね)
少し疲れてしまったと分かれば既に脚が限界だったようで
崩れ落ちるように膝からついたセカイの床は私が思っているよりも優しくて。ここが私の終着点だとしたら、多分私も、■も諦められるのだろうと言いたくなるような虚無を埋める薄明りに目を閉じようとしたその瞬間だった
「悲しいのは、こんなところで終わってしまう事でしょ?……ねえ」
「…………あぁ」
目の前からお出ましたその声に私は納得し、■は理解した
どこか嘲笑うように、諦めかけた『日野森雫』を嘲笑うように
「雫ちゃん」
その華奢な腕とは思えぬ力で私の顔を持ち上げたそのご尊顔、あの歌姫の姿を私は間違えるわけがない。髪の色は青緑色でツインテールが特徴なあの女の子…いつも私に諦めるよりも前に進めるようにと背中を押してくれた画面越しに見つめたその名前を呟く
「……ミク」
「ミク……?」
何故、どうして少し前の『日野森雫』の衣装を貴女が着ているのか、なんて野暮な謎はどうでもよかった。分かることはこのミクは知る『プロジェクトセカイ』に出てくるどの『バーチャルシンガー』にも合致しない新しいミクの姿でありこのミクが私の、『日野森雫』の想いから産まれたということ。
『セカイ』を介さずに『バーチャルシンガー』は存在しうるのか。
……いや、よくよく考えればここは『日野森雫』とは関係ないにしろ『セカイ』であることに間違いはない。ならどうして彼女は私の前に現れたのか、そんな歪んだ顔に肩で息をするような取り繕うことも忘れたような姿で
「…あなたは、私のミク?」
「私は雫ちゃんの想いから産まれたミクだよ」
目の前のミクからは敵意も害意も見当たらない。あるのは微かな憐憫、そして申し訳なさ
ああ。きっと『日野森雫』の両親は
そんなミクに警戒するかのように抱き着いた朝比奈さんはまるで雛鳥を守るような親鳥のように私を胸元に抱き寄せる。彼女が守りたいのは『日野森雫』なのだろうか?それとも日野森さんなのだろうか、生憎とどちらも『朝比奈まふゆ』とは会ったことが無いから分からないけど
「私の……ミク」
「そうだよ。はじめまして」
この子は間違いなく私のミクだ。どの想いとも交じり合わない私と■と『日野森雫』の想いから産まれて、産まれてしまった子。…『プロジェクトセカイ』において『バーチャルシンガー』は想いの持ち主を導き、サポートする存在
…なら、こんな私を導くための方法は
「………………」
「さあ、立って雫ちゃん。まだカーテンコールじゃないよ」
分かっている。こんなところが『日野森雫』の終着点ではないと、『日野森雫』のメインストーリーはまだ始まったばかりで『桃井愛莉』の問題も『桐谷遥』の問題も解決していない。そんな最中に私だけ、『日野森雫』だけ勝手に救われたような気がして、ここで脚を止めていいわけじゃない
「……それとも、立ち上がるための言葉が欲しい?」
心で分かっていても、足は動かなくて。
今までも有ったはずだ。体が自分のいう事をきかないなんて特に珍しくない…けどどうやら今日は体の方が強情らしくて何故か早くなる息のせいで上手く口にできない言葉をミクに目で訴える
「分かった。よく聞いてね」
すぅと目の前のミクが息を吸う音が聞こえる。
そしてそっと耳元に近づき、まるで囁くかのように私に耳打ちする
「
「…………!」
私に振り返れる場所なんて、どこにも残っていない
仲が良かったオマエの名前も、■を生んで育ててくれた両親の顔も、そして自分だったはずの顔もなにもかも『日野森雫』を偽り続けるために削ったから何も残っていないのは当たり前だ。誰も覚えていないのだから、…そして誰も覚えていないのなら、存在しないと同義だ
「忘れたの?私たちは何者か。何のためにここにいるのか」
自分の存在証明を、自分の手で壊してしまった
…分かっていた。もう私に戻る道なんてどこにも残ってないって
「全部は『日野森雫』に報いるためでしょ。悲しませるの?『日野森志歩』を、『日野森雫の両親』を」
「あ、……あぁ。それは、それは駄目ね」
何もかも覆い隠した。その始まりを思い出す
それは『日野森雫』よりもずっと前、まだ■の意識が色濃く残っていた頃。私の心に有ったのは憐れみ…幸せそうな家庭の写真に写ってしまった一滴の泥水。それが私だった、例え親だと胸を張って言えなくても立派な子だと思ってくれるのなら、例え妹だと姉として胸を張って慈しめなくても立派な姉でいられたら
『日野森雫』だと自覚してからは、殆ど忘れてしまったけど…それでも私は怖かったのだ、ああ。恐ろしかったのだこのセカイが。誰も何もかもが違う■の知らない場所、人、世界が心底恐ろしかった
本当は泣き叫んでしまうぐらいに私は独りだと分かってしまった夜から、ずっと
「良かった。それじゃあやることはひとつだよね。『私』
「ええ。……『日野森雫』にならないと、もっと。もーっと『日野森雫』にならないと」
……だからいつものように耳を塞げ、目を閉ざせ、心を均せ。
『日野森雫』以外に価値はない。私は『日野森雫』なんだから
「なにを、雫ちゃん。あなたは何を見……っ!」
「本当にありがとう朝比奈さん!…私、もう行かないと!」
ああ!私はなんて馬鹿なことに悩んでいたんだろう。
私は『日野森雫』。『日野森志歩』の『姉』で『Cheerful*Days』のセンター、そしていつか『MORE MORE JUMP!』に成る。『機械音痴』で『刺繡』が得意で、『辛い物』が苦手で『お味噌汁』を水筒に入れる『宮益坂女子学園』の『2-D』の『美化委員』で『弓道部員』の『16歳』
「さあ、行こう。笑顔を見せて、『幸せ』でしょう?」
──────私は、『日野森雫』だ
「……えぇ!そうね!ありがとう、ミク!」