華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
魔境とは禅の修行者が中途半端に能力を覚醒した際に陥りやすい状態を指す
故に高名な僧侶は「仏見たなら
───まるで生まれ変わったかのような清々しい気分
一言で今の雫の心境を現すならこの一文が最もふさわしいだろう。全てがかみ合い、体も心も軽く目に見える全てが輝いて見える…まるでゲームでいうところのSUPER FEVERに近い状態。今日1日だけではなくこれからしばらくは成功が約束されているかのような幸福に胸を躍らせる。
鼻歌でも歌ってステップまで踏んでしまいそうだと足取り軽く私は遥ちゃんたちが待つ屋上へと進む。こけてしまったみのりちゃんもまだまだこれからだけど、光るものはあるのを遥ちゃんも分かっているのだろう。後ろから見守るのも今日こけてしまった時に真っ先に心配したのも全て遥ちゃんはみのりちゃんを心配しているからだ
「…ごめんなさい!待った?」
「ううん。…ありがとう雫」
とっても微笑ましい2人の仲。私が屋上に着いた時には2人と愛莉ちゃんは丁度出入り口の塔屋の物陰で涼んで休んでいた。まだ温暖だけど涼しい季節だけどこうしてダンスしたりとか激しい動きをすれば汗をかく位の暑さはある。キチンと水分も取ってほしい
「いいえ。私にできるのはこれぐらいだからもっと頼ってね。
「………え?」
……?どうしたんだろう。そんな驚いた顔をして
それも遥ちゃんだけじゃない。みのりちゃんもあんぐりと口を開けて驚くように目を丸くしてこちらを見ている。遥ちゃんに至ってはそんな顔もできるだというかのような狼狽という二文字が似合うような驚き方
ここ何年で初めて見た遥ちゃんの驚き顔。
いつも超然としているイメージがあるからある意味新鮮だ
「雫…っ、あなた。まさか……!」
「どうかしたの?
横から走る衝撃。どうやら愛莉ちゃんが両手で私の肩を掴んで見ている方向を強制的に動かしたらしい。
こちらも苦々しい顔というか慌てているかのような形相に赤い、兎のような瞳から見上げてくる愛莉ちゃんにはどこか愛くるしさと凛々しさがある。わなわなと震えながら開いた口からは小さな八重歯も見える
どうしてそんなに慌てているのだろうか
不思議なものを見下ろすかのように首を傾げる私の横で、唐突にスマホが輝きだす。どうやらみのりちゃんのスマホから何故だか見覚えのあるような虹色の輝きが人型の渦を巻きながらとある姿を象る。
『みのりちゃん、とみんな!』
「ミクちゃん!?どうしてまた……」
その姿はついこの前も同じ姿を見たことがある。そう、アイドル衣装を着た初音ミクの姿を
…そういえば前もこうして現れて不思議なことを言いながら消えて行った。『ライブ』だとか『セカイ』だとか愛莉ちゃんが言った様な広告とは少し違う姿
一応私もアイドルの末席を汚すものとしてミクちゃんについては知っていた。
けど今のように名前を名乗った覚えは無いし、こうして表情豊かなミクが話しかけてくれるようなサービスは聞いた事も見たことが無い。
『驚かせてごめんね。…本当はセカイで待とうと思ったんだけど、状況が変わったの』
「それは、今の状況に関係あるの?ミク」
……?ミクちゃんが私をチラリと一瞥したような感覚
どういうことなのだろうか。こうして2回もミクちゃんが現れた『みのりちゃん』とか最近アイドルを辞めてどこか燃え尽き症候群気味だった『遥ちゃん』を心配しているのなら分からなくはないけど、何故私なんだろうか
アイドル活動も順調で
家族も交友も順調で
『当たらずとも遠からずかな……とにかく!わたしたちのライブを見に来てほしいの!そしたらきっと何かが変わると思うから』
「……いいわ。行きましょう、どうやって行くの?ミク」
そんなミクちゃんはみのりちゃんのスマホに投影されるだけじゃなくて結構自由に動けるのだとまるでライブの中のように私たちの周りを漂い、ファンサをするかのように舞い踊りそしてまたスマホの中に帰っていく。あまりに非現実的な光景だけど愛莉ちゃんは変わらず動揺を見せずに相手の懐に入っていこうとする
『プレイリストを見てみて!…それじゃあセカイで待ってるから!』
電子の歌姫、だからか
ミクの舞台も0と1の空間の中で築かれているというのだろう。むしろそっちの方がなんか安心するというか、納得するというか。それにしても出入り口がプレイリストの中というのがなんともファンタジー感を誘って微笑ましい
「えーっと、これかな? 『Untitled(アンタイトル)』って曲が入ってる……?」
「見せて、みのり…やっぱりこれが鍵」
「再生して。行くわよ、雫」
すぐさまポチポチと画面にしがみ付くみのりちゃんの横で深く覗き込むように顔を近づけている遥ちゃん。行儀が悪いと言うのは簡単だけどみのりちゃんも楽しそう?…握手会で何度か見たことがあるような感極まった顔と平常心を維持しようとしている顔色がころころ変わるのは見ていて面白い
見た感じみのりちゃんは遥ちゃんのファンという事なのだろう
ひとりの夢見る未来のアイドルが憧れの人と同じ場所に立つために前へ進む物語。そうしてクローバーの葉が重なるように『アイドルを辞めた少女たちは集う』…あれ?
「?ええ。良いわよ」
……まるで朝目覚めて夢の内容が朧げになっていくかのように私は数秒前の考えが思い出せない。こういう時って大体は思い出せない事が引っかかって仕方ないのだけど今回は本当に夢のように何を考えていたかを考えることさえ忘れていくような感覚。
だけどまあ、思い出せないという事は今考えても仕方ない
私の手を握ったままの愛莉ちゃんに着いていくように近づいたところでみのりちゃんがそのファイルを開くようにタップした瞬間───溢れてくるその光
「わ!スマホが光って……っ!」
目が眩むほどのまばゆい光。
けど、その中で『日野森雫』が見たものはきっと
◇
「……ここ、どこ?」
ステージのセカイ。そこは無限にサイリウムの輝きが続いているのではないかと錯覚させるほど入り組んで、それでいて整然とまるで波のようにその色は揺れている。…私は、いいえ。■は、『日野森雫』は覚えている。この光景を、『ステージのセカイ』の輝きを知っている
分かっていたはずだ。『日野森雫』の役回りを
『日野森雫』である意味を
「どうなってるの……!?」
「何よ、ここ! 夢…じゃないわよね?」
目を背けても、夢に逃げても無駄だと追い立てるように
……『日野森雫』に帰り路は無いのだと目の前に広がる光景が教えてくれる
「あ!先輩達も!よかったぁ……ひとりじゃなくて!今から、ライブでも始まるのかな?」
「うん!そうだよ、みのりちゃん!」
「ミ、ミクちゃん……!」
そう…なると決まっていた。きっとこの先も
残り何話か分からないけど『物語』の中で『日野森雫』の道筋などひとつしかない
横から現れた『モモジャンミク』も何もかも全ては最初から決まっていた道筋をなぞるだけの『メインストーリー』その中でも山場と言えるだろう『キャラクター』と『セカイ』の接触。ここから『想い』を探す、『アイドル』を探す旅路が始まる
「ミクちゃーん!もうすぐ開演だよ!あっ!みんな来てくれてたんだ!」
「リ、リンちゃんも!?っていうか、わたし今リンちゃんと握手してる……?」
「どういうこと?どうしてバーチャルシンガーと喋って触れられているの?」
何もかも無意味だった
私も、■も、郷愁も、感情も、世界も、人生も
「それはね。ここが、みんなの想いでできたセカイだよ!」
「どういうこと?」
「ここはね。4人の、アイドルへの想いでできたセカイ!…わたし達はここでみんなが本当の想いを見つけられるようにお手伝いするためにいるの」
オマエは、お袋はオヤジはどう思った。
顔も、名前も、容姿も性別も何もかも失って未だ無様に『日野森雫』を受け入れられない私は潔く全部をめちゃくちゃにしてしまえばよかったんじゃないのか?デウスエクスマキナのように何もかも
「詳しい説明は後!…まずは私たちのステージを見てほしいな!」
それで誰彼が、何某がどうなろうと知った事か
『日野森雫』が消えてしまったとしても…どうせ世界は顔色ひとつ変えずに他の誰かを、新しい『日野森雫』の役割を埋めるだろう
でも…それが出来るのなら、『日野森雫』になんてならなかった
「それじゃあ…ライブスタート!みんな楽しんでいってね!」
目の前で広がる光景を、私は見たことがある
■がやったように何度も何度も画面をタップして『ストーリー/イベントストーリー』を開けばいい、『MOREMOREJUMP!』の『メインストーリー』を開いて何度でも読み直せばいい。何を思い上がって私は誰かに誇れる存在になれると思い上がったのか。自分さえも誇れない『日野森雫』が
「みんなに楽しんでもらえるように、精一杯歌うね!まずはこの曲から!聞いてください!」
「いっっくよお~~!せ~の!」
結局、分かった。私は、■は、『日野森雫』はどこまで行っても変われない
考えることを放棄して未だに■ぬ事も出来ない臆病でうす気味悪い出来損ないな私は
「……私も、こんなステージやってみたかったな……」
この世でどれほど、悍ましく汚らわしい生き物なのだと───
◇
セカイの輝きにアイドルのライブは今の『桐谷遥』にも『桃井愛莉』にも、そして『日野森雫』にもあまりにも眩しすぎたものなのだろう。ライブが終わると同時に立ち去った桐谷さんだけでなくどこか沈んだ様子と共に愛莉ちゃんも『Untitled』の再生を止めてこのセカイから立ち去った
「……雫ちゃん!ちょっとお話しない?」
「ええ、良いわよ。どうかしたの?リンちゃん」
『日野森雫』もそれに合わせて立ち去ろうとしたその時だった
背後から、あの金色の髪を揺らしたアイドル姿のリンが私に声をかけてきたのは
彼女の事も私は良く知っていた
鏡音リン。バーチャルシンガーのひとりで鏡に映ったような対の姿、声を持つ一対の少女。ここでは『モモジャンリン』と呼ばれる彼女は白を基調としたアイドル服に身を包み立つ姿はあの日見た輝きと同じ姿に私も顔をほころばせる
「あのね……今日、楽しくなかった?」
「いいえ?……ああ、けど面白くは無いのかもしれないわね」
『桃井愛莉』は自分の理想だったアイドル像と現実の乖離が
『桐谷遥』は自分の言葉が軽率になってしまったという過去から
……さっきのようにキラキラと見た人すべての胸を躍らせるような希望溢れるアイドルという姿はあまりにも劇薬で酷だろう。だってそれは自分の成れなかった姿だから
「…なら、雫ちゃんはどうなの?」
「私?……さあ」
なら私は?とその問いに言葉は出てこなくなってしまう。
答えは簡単。私が『日野森雫』だから…最初から、期待も希望も抱いていない様な未来に一体どんな感情を持てばいいのか、終ぞ理解するまでもなく私はここに来てしまった。
「
吐き出す言葉と吐息は私がびっくりするぐらいに無責任なもので
風船のように軽くどこまでも飛んでいきそうな力の抜けるような、そこ抜けた声色に私はどうしようもなく苦笑が顔に出てしまう。
今の私はなんなのだろうか?■なのか、私なのか、『日野森雫』なのか。
それさえもあやふやの中でどう想いが見つかるなんて言うのか
「…………うん!ありがとう。雫ちゃん、次はもーっと笑顔にできるステージにするね!」
「ええ、楽しみにしてるわね!リンちゃん」
「だから…………」
けど目の前の少女はまるで花里さんのように愚直にアイドルへの憧れを瞳に宿したまま、次のステージへの意欲を燃やす。勝って兜の緒を締めよとは言うけれどそうストイックな姿にはやはり憧れを抱いてしまいそうになる。もう一歩と歩き続ける人が弱いわけないのだから
だから、とそうつなげられた言葉に私は反応できなかった
「全部が雫ちゃんの敵じゃないってこと、覚えていてほしいな」
「…………ええ!約束するわ」
◇
セカイを出れば既に桐谷さんは去っていたようで、私と愛莉ちゃんはその後少ししてからセカイから出てきた花里さんが校門を出るのを見送ってから校舎にある自販機の近くでベンチに腰を下ろして、今日あったあまりにも夢みたいな話を思い返す。
「すごく、良いライブだったわね。あれ」
「ええ。そうね、びっくりしたけど」
言えてる。なんて言いながら互いに顔を見合わせて苦笑する
『セカイ』、『バーチャルシンガー』そして『Untitled』なんて人に話せば精神病院を進められそうな話ばかりに秘密にしないといけないことが出来てしまった。
一体どうなってるのかわからない以上、話題はすぐさまその『セカイ』の中で見たあのライブの話になる。出演者は『初音ミク』と『鏡音リン』という小規模ながらも2人の抜群のコンビネーションで本職も息を呑むほどの迫力とクオリティがあった。
「……けど、愛莉ちゃんは楽しかったんじゃない?」
「…………そうね」
「目がキラキラしてたわ。愛莉ちゃん……本当は、さ」
だからこそ『桃井愛莉』だって同じこと思っているのだろう
この感情にあえて言葉を付けるのなら血が騒ぐというような感覚。目の前の憧れの輝きは、まるで両ひざを折り両手を組み拝みたくなるようなそんな神聖さにも似ている
「…………やめて。雫、やりたいって気持ちだけでどうにもならないって知ってるでしょ」
「そんなことない。愛莉ちゃんは
『日野森雫』にとって『桃井愛莉』とは憧れにも似た感情を抱いていたのだろう。
アイドルとしてだけでなく、人として愛莉ちゃんは眩しかった。あなたみたいになりたかった…なれるはずなんてなかった。憧れを直視するにはあまりにも眩しすぎて、その煌めきはまるで首切り刃のようで
「雫、わたしだってもう納得しているの」
「けど……」
きっと、そうだ。今の私を言葉にするなら
もう何も怖くない…………だって
「やめてよ!……雫に、華があって、才能があって、何もかもがあるあなたに」
ひとつ輝く、ヒカリが私を救ってくれたから
「『日野森雫』に、何が分かるの!!」