華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
『みのりちゃん、ちょっといいかな?』
『どうしたの?ミクちゃん』
『あのね……雫ちゃんのこと、ちょっと気にかけてあげてほしいんだ』
◇
花里みのりにとって日野森雫というアイドルは桐谷遥と並ぶぐらいの憧れであった
勿論、最推しは遥ちゃんである事に間違いはないがそれと同じくらいにはテレビに出れば見ていたと言えるほどの憧れの人。大人びていて、どこか微笑んだ顔にドキリとさせられることがあるその姿にみのりも頬を赤らめるほどには
そんなアイドルオタクだからこそみのりは日野森雫というアイドルの微笑みがまるで鉄壁のようだと知っているからこそ驚いた。あの日のどこか消えて行ってしまいそうな儚げな笑みで応援する姿も、同じ姓をしているけどまさか姉妹だったとは思わなかった志歩ちゃんの背後に庇われて小さく息を整えている雫ちゃんの今にも泣いてしまいそうなくしゃくしゃの顔も
どれもみのりには今まで一度も見たことのない様な表情だった
知り得ることのないその顔に、みのりはひとつの行動を起こした
「……それで、話ってなに。みのり」
「うん……ごめんね、
その行動とは…おそらく最も雫ちゃんのことを知るであろう人に聞くことだ。
血縁関係でありおそらく見たところ仲も悪くない雫ちゃんの妹。そんな志歩ちゃんは驚くことにみのりのクラスメイトにして友人だった。だからみのりは殆ど飛び込むような速度で志歩の手を掴み、昼休みの時間。誰も来ないであろう屋上に連れ込んだ
勿論、そんなこと急にされた志歩の機嫌はいつもより悪いように見えるがこればかりは桃井先輩に許されて遥ちゃんにも認められた日野森先輩のことだからとツリ目になって半分睨んでいるようにも見える眼力に負けないようにとみのりは息を整えて声にする
「それでね。あのね……」
「…………」
「雫ちゃんのことなんだけど」
「何も」
殆どノータイム。いや、もうみのりの口から雫のしの文字が出てきたと同時ぐらいに志歩が声をかぶせる。その声色は今までみのりが聞いたことが無いぐらい固く完全に拒絶していることがよく分かる。むしろ地雷はそこなのだと分かりやすい怒気さえも滲ませて睨む志歩の姿にみのりの口の中が乾く。
「私は知らない。お姉ちゃんのことは、知ってても言わない」
「そこをお願いします!どうにか……!」
志歩にとって言うまでもなく雫の存在は聖域だ
確かに幼い頃はやっかみやらが色々と無かったわけではない…お姉ちゃんは異性以上に同性にモテる所がある。だけどそれでもお姉ちゃんは物心付いてから覚えている範囲では絶対に私を蔑ろにしたことはないしむしろ溺愛されている自覚はある
同じ血と肉を持ったたった2人だけの姉妹なのだ
シスコンと言われようが知った事か。むしろ上等だと入り込んでくる最近お姉ちゃんだけでなく桃井先輩や桐谷遥によく放課後一緒に居るみのりに志歩は内心嘆息を溢す。このため息は本当にどうしようかという目の前で頭をペコペコ下げるみのりに対して思っていることだ
(最近のお姉ちゃんは…あまり言いたくないけど少し変だし)
妹の志歩から見ても分かるほどの違和感。それが最近の雫の様子だった
なんというか。ずっと浮世離れている感覚と言うか、無意識に自分を下に見ている言動と言い志歩からするととても非常に心配しているのが現状であった。
とはいえ軽率に仕事を休めともいえない。少なくともアイドルと言う仕事に誇りを持っている様に見える雫に下手にそんな事を言ってしまえば生きる屍にでもなるんじゃないかと思うぐらいには今も志歩の脳裏に焼き付いて離れないあの日の雫の月下で涙を流す姿
「本当に。何も知らないから」
「そんなわけないよ!だって志歩ちゃんは雫ちゃんのこと大好きでしょ!?」
……何を知った顔で。と言いたくなるが志歩にとっては事実である事には間違いない
シスコンなのがバレているのはこの際いいとして、問題はみのりに大切な大切な姉である雫を任せられるのかどうかという話である。今のところ志歩のお眼鏡に適うのは桃井愛莉とあとは、朝比奈まふゆの二名だけ
お姉ちゃんが家族以外で下の名前で呼んでいるほど親密感があるのは桃井先輩だけだし、お姉ちゃんが志歩以外にあそこまで憑き物が落ちたような笑みで笑い合っている姿を見たのは朝比奈先輩の時だけだった。…そういう意味ではおねえちゃんを任せられるかと言われると少し不安だが
「……それで、何が聞きたいの?」
「!ありがとう!志歩ちゃん!」
まあお姉ちゃんについて聞きたい事にもよるかととりあえずは志歩はその続きを促した。
これでいつかの志歩に聞いてきた何某のようなお姉ちゃんのプライベートを暴こうとする質問であったのならば例え良き友人であったとしても認めるわけにはいかない。そう決めて
「…あの雫ちゃんって
「………どうしてそう思うの?」
みのりの言いたいことはいくつかあった。
例えば雫ちゃんと志歩ちゃんの間にある
言うなら独りぼっちと言うところだろうか。まるで遊びに混ぜてもらえない子どもが遠くから遊んでいるところを見ている様なあの感覚…みのりは実体験として知っていた。だからこそふと雫ちゃんがぼんやりと私たちを見ているようでずっと遠くを見ているのに気が付いていた
「目だよ。」
「目?」
「うん。……時々、雫ちゃんってとっても遠い目でどこかを見てるでしょ?それが寂しそうで……」
授業で習った心ここにあらずと言う言葉を思い出す。
私の練習を見ているようで視ていなくて、雫ちゃんのソロ曲を聞いているようで聞いていなくて…口を付けた水筒を傾けどもまるで無味無臭の砂を食んでいるかのような乾いてぷかぷかと浮かんだままの雰囲気
この世にあってあの世にあるようなそんなどこか陰り満ちた月みたいな
そんな姿を見せるから雫ちゃんの異名に『妖精』があるのだろう。放っておけば妖精の国に独りで旅立ってしまいそうになる危なっかしさもまさにその通りだと思った。
「…みのり、の言いたいことは分かる」
「!志歩ちゃんも……」
だけどそれは志歩も昔から感じているものだった
姉妹だというのに姉妹喧嘩のひとつもしたことのない姉妹を果たして世の中で言うような普通の姉妹と言えるのだろうか。年齢もそう離れていない同じように育てられた姉妹が一度も言い争うようなこともなく喧嘩もしたこともない様な姉妹が
そういうことを言うと咲希にも羨ましがられるような仲の良さだとは誇れるかもしれないが
……それでも一度は他の兄弟姉妹がやるような喧嘩を一度はやってみたかった。こういう事があったねと笑い合えるようなそんな姉妹に、けど。実際は
「お姉ちゃんはいつもひとりで泣いているから」
「いつも……?」
志歩は一度だけ見たことがある。お姉ちゃんが今にも泣きだしてしまいそうな声でお父さんとお母さんに一か月の生活費としては過剰なまでのお金を渡そうとしているところを、そんなお姉ちゃんに苦しそうに悲しそうに顔を歪めて嫌々受け取る2人の姿とは対照的に受け取ってもらえて喜ぶように顔を綻ばせるお姉ちゃんの顔。
どうして、だとかなんでとか聞くのは簡単だ
だけどその後でお姉ちゃんがどうなるかは志歩には想像がつかなかった。ただでさえ自罰的でアンニュイで誰からも好かれるのに誰からも嫌われて当然だと思っているあの目が…志歩には自分も傷ついていくようで嫌いだ
たった一人だけの血の分けた姉妹だから
あなたの悩みひとつも聞かせてくれないこんな妹の私が、嫌いだ
「お姉ちゃんはね。心の中で笑うの、…ほんの少しだけ微笑むように」
なんでもできて美しいヒト、だけど本当は誰よりも儚くて泣いている姉
お姉ちゃんの弱さを泣き顔を私ひとりだけが知っていればいい。だって、誰もお姉ちゃんを泣き止まさせることなんてできなかったのだから誰にもお姉ちゃんの心を渡すつもりはない。触れられないお姉ちゃんの心の中を誰にも汚させない
だって、そうでもしないとお姉ちゃんは次こそぐちゃくちゃの粉々になって潰れてしまうから
そんな熟れて腐り落ちる果実のような文学的な結末は例え美しく見えたとしても、近くにいる人は饐えて見えたものじゃないだろう
「それじゃあやっぱりあの微笑みは……」
「多分、みのりの想像通りだと思う」
お姉ちゃんの、雫ちゃんの微笑みはいつだって不動だ
何処で見ても変わらないその表情は雫の仮面にして絶対にその裏側に寄り付かせない様な明確な線引きを感じる。…だけどその笑みは雫の恐怖の証でもある。恐れているから表情を隠すのだ、それはどこか張り詰めた一本の線にも似たもの
私たちはそれを良く知っている
常に一本の芯が通ったかのような雫の立ち姿にも似た
「……なんというか、雫ちゃんって怖がり?」
「妹の前で良く言ったね。みのり…けど当たらずとも遠からずだと思う」
怖がり…確かに、最近強く感じるお姉ちゃんの違和感を言語化するのなら一番近いものがそれだと志歩も頷く。言い方を変えればお姉ちゃんの様子も常に周囲を過剰に警戒をしているような姿だ。…猫が毛を逆立たせてしゃーと鳴いているのとおんなじ感じだと志歩は雫の姿を勝手に猫に当て嵌め考える
「けどその怖がってるものは……」
「……」
「知らない、よね」
それが分かっていたらこれら一連の流れは要らなかっただろう。
どれほど雫の心理を、隠しているモノを暴こうとしてもその恐怖心が一体何に向いているかを知らない事には雫の胸に抱えて誰にも明かさない何かを開いて雫を笑顔にすることは出来ないのだから
「…任せる気はない。けど、お姉ちゃんをよろしく」
「……うんっ!」
消極的だけど認める志歩の姿にみのりは一瞬目を丸くしてその後に笑う
志歩ちゃんがここまでシスコンだったとは意外だが、それでもそんな志歩ちゃんに少しは認められたのだと必ず、雫ちゃんと仲良くなってみせると今一度意気込んでみるのだった
だから、その日がそう早く来るとは誰も思わなかった
「『日野森雫』に、何が分かるの!!」
放課後の学園に響く怒号。それは悲鳴にも聞こえた言葉だった
既に多くの生徒は下校をしていてその大声を聞く人がその場にいる雫と愛莉…その後ろで隠れていたみのりだけが聞いていた。
何も知らなければそれがすわ喧嘩か、それも痴話喧嘩かなんて思うかもしれないが生憎と今のみのりはその言葉が喧嘩では済まない事になりかねない事態を引き起こす引き金だと理解していた
(桃井先輩……早まらないでよ~!?)
アイドルだけではない限りなく素に近しい顔の2人もとても仲良さそうに見えたと同時にこうも感じていた。
2人の関係は外からだけでは見えない絆で深く結ばれていることを普段の様子からも見て取れる。だからそんな2人がもしも仲違いなんてしたら、何が起きるか分からない
只でさえ今の日野森先輩は限界そうに見えるから
このまま桃井先輩が勢いのまま口にすればすぐに折れてしまうような脆さがある
……だけど、現実は私の想像するよりももっと残酷で酷かった。
みのりがたどり着いた先は、学校の中でも特に死角になりやすい自販機が立ち並ぶ休み時間や放課後などではここに集まる人も多い様なスポット。だから帰宅するつもりだったみのりが急いできても隠れるぐらいの場所はあった
「ありがとう、愛莉ちゃん。私を…『日野森雫』を否定してくれて、ありがとう。素敵な、なんてすてきで、なんて幸せな『おわり』をありがとう」
みのりが見えたのは、雫の大粒の涙だった
まるで真珠のような大粒の涙を流して微笑むのだから今ここで見ているものが現実ではなくアニメやドラマの世界の中だと息を呑んでしまいそうになるほどそんな雫の笑みは澄んでいて美しかった
でもこれはそんなキラキラしたお芝居の舞台ではなく、今確かにみのりの前で広げられている恐ろしい現実だ。
雫が泣いているのは決して愛莉に自分を拒絶された悲しみから来る涙でなく、自分を否定された
「……おねがい雫。私の言葉を忘れて、そんな悲しいこと言わないで……っ!」
「愛莉ちゃんは自分の言葉を否定するの?」
この時、ようやくみのりは悟った。
雫の微笑みの理由を今にも壊れてしまいそうな笑いさえも雫を傷つける鋭い刃になっている理由がこれほどまでも残酷な話があってたまるものか。最も信じられないのは自分の中で、己こそが最も醜いと信じるかのようなどん底の自暴自棄
ミクの言っていたことは間違いではなかった。
ああ、合っていたのだと思う。
この孤独な人に、1人ではない事を教えるために
(……ごめん。桃井先輩!)
今、すぐにでもそうしないと日野森先輩は消えてしまうだろう
話を横から盗み聞きしていた事は悪かったと思う。でも今ここで雫の手を取らなければ、何か声をかけなければきっとこの2人は致命的になにか間違ったまま本当の事を言えずに終わってしまう
ここで悪役になってもいい。だけど愛する先輩を、今まで助けてくれた先輩の不和を止めるために飛び出そうとしたその時だった。…みのりの背後から口を覆うように手が伸びてきたのは
「………っ──!?」
「しっ。静かに…みのり、ちょっと待って」
背後の温もりが女性である事…そしてその後小さくみのりの耳元で囁かれた声に覚えがあったからすぐに抵抗の手を止めて背後を見る。そこに立っていたのは先に帰ったはずの遥の姿だった。いつからそこにいたのか、そして今までの雫と愛莉の口論を聞いていたのかみのりは聞きたくなったが今はそこではないと自分の口を押さえながら頷く
「ありがとう。このまま隠れるね」
「う、うん……っ!」
丁度、自販機と自販機の間の陰に隠れているから2人の間の隙間はそう大きくない。
いわば密着していると言い換えてもいいだろう。…そんな唐突な最推しとのガチ恋距離にドキドキしながらも2人の話を聞き続ける。今まで愛莉も、遥も踏み込めなかった雫の内側それに触れられるチャンスはきっと二度は無いから
「私はね。本当はずっと怖かったの、『日野森雫』が」
「みんな誰もが私を、『日野森雫』を見る。…けど愛莉ちゃんあなただけが私を否定してくれた」
進む、進む雫の独白。まるでタガが外れたかのように一周回って落ち着いてまるで語り聞かせるかのように口を開く雫の姿はそれだけに異質だった。自分が言ったことに後悔して泣いている愛莉の姿を気にもかけずただ寄り添っている姿がまるで本物の人ではないもののようにも見えて
「だからありがとう。愛莉ちゃん、あなたのこれからが奇跡に溢れたものになりますように」
そうして語り終わったと同時に立ち去っていく雫の姿もらしく見えて
それだけにもう今まで私たちが見ていた日野森雫の姿はそこには無いのだと
「……怖かった、か。雫そっか、あの言葉は……」
「遥ちゃん。…私、行ってくるね」
でも、今まで見た日野森先輩全てがウソであるものか
……今のみのりの内心を一言でまとめるなら、きっとこの一文だ
志歩ちゃんがシスコンになるほどのいいお姉ちゃんである事も、私のドジで脚をひねった時も湿布を取りに行ってくれた優しさもその全てがなにもかも嘘になるなんておかしい。だって…今までの雫ちゃんの姿に希望を貰ったのは私だけではないはずだからと、目の前で顔を歪める遥に微笑み走り出す。
「……っ!待って、ねえ!みのり、どうして……?」
「私は………」
まるで翼が生えたかのように、今のみのりの身体は軽かった。
いつか遥から貰った希望がみのりの中で確かに想いとして結びついたかのようにその言葉には力があった
「────信じているから!!」