華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
絶望。その文字をみのりは知っていた
だがそれでも今この瞬間
(しずくちゃん……!)
雫の真意を知っても尚、振り返ることなく後を追いかけたみのりの道行はそう簡単なものではなかった。
それもこれもみのりの運が悪いでは到底言い切れないほど2人はすれ違い真反対の道や道路を挟んだ向こう側のすれ違いを何度も何度も…それこそみのりが雫を追うのが世界の間違いだと言わんばかりに
みのりが雫に追いついたころにはもう日は落ちて夜の帳に黒い不吉な雲がかかりしとしとと静かな雨が降り注ぐ始末。普段の運の悪さを自覚しているみのりは折り畳み傘を鞄の中に入れていたから濡れることはなかったが日野森先輩は間違いなく雨に濡れている、そんな確信がみのりにはあった
「…………っ!」
だからそう。みのりが雫の姿を見た時悲鳴を噛み締めたことは、間違いではなかった
ゴミ捨て場でただ丸く、雨にも耐え続ける雫ちゃんの姿はあまりにも痛々しかったから
それでもこんなところにいてもこの人はこれほどまでに美しいのかとみのりの心の中がごちゃごちゃになる。透き通った空色のような細く長いよく手入れされている髪が雨に打たれてまるで流れる川の水のようにキラキラと光を鈍く反射する。
もう何も見たくないのか、もう何も聞きたくないのか。その顔は下にむいたまま動かない
まるで電池の切れた人形のようにも、場所が場所だから棄てられているようにも見えてひどく気分が悪い
「そんなところにいたら、ダメだよ」
だからみのりは迷うことなく肩に置いていた折り畳み傘を雫の方に向ける
この人にはきっと雨も似合うのだろう。だけど似合うからと言って雨の中で1人蹲っていい筈がない。
見上げるように顔を上げた雫の顔はみのりが見たことが無い様な顔。だけどそれは泣きたいのに泣けない様な、どこかに行きたいけどどこにも行けない様な迷子の顔にも似ていて…だから、だろう。次のみのりの言葉はもう決まっていた
「帰ろう。雫ちゃん」
◇
それからの話。どうにか雫を立たせて傘の中に寄せたみのりは次にどうするかを考えた。
多分、日野森先輩は家に帰しても多分問題にはならないだろう。ひとりになるその時までは、けど。今のこうして体を冷たくして小さく縮こまる雫の姿を見てそのまま帰すわけにはいかなかったみのりは自分の家に足を進める
いわゆるお持ち帰りということになるし、推しの1人を自分の家にあげるというファンなら一度は想像するかもしれない妄想が現実になったが今はそんな事を考えている余裕はないとみのりは雫の腕と体を支えながら歩き始める。…分かっていたことだが雫は全くと言っていい程抵抗しない。もしもこの場にいるのがわたしじゃない悪い奴だとしても為されるがままにされてしまうだろうと思えばやっぱり帰すことはできないとみのりは雫を掴む手に力をこめる
「雫ちゃん、歩ける?」
「……歩けるわ」
殆ど会話はない。むしろする気にはなれなかった
聞く気が無いということじゃない。今聞いても多分愛莉ちゃんや志歩ちゃんの前の『日野森雫』としての雫ちゃんしか答えてくれない。そしてその雫ちゃんはきっといついかなる時でも大丈夫と答えるだろう。今のように全身ずぶぬれで小さく体が震えていても
雨の勢いは段々と強くなっていく。まるでその雨は今も泣けない雫の涙の代わりのようで
傘で跳ね返る雨音の中、2人きり世界に隔離されているようだからみのりはふとそんな雫の横顔を見た
────綺麗だった。恐ろしいぐらいに
「ただいまー!」
「……お邪魔します」
みのりが家に着く頃には決して逃がさないとばかりに雫の腕をがっしりと掴んで家の敷居を跨ぐ。こんなことになっても玄関の時点で居心地悪そうに体を捩る雫ちゃんは実はとても人見知りなんじゃないかとみのりが疑いをかけてもその腕の力に迷いはない。
雫はローファーの中まで雨でぐちゃぐちゃだ。むしろ全身ずぶ濡れだというのになぜ雫ちゃんは平気そうに立てているのだろうか。…ああ、いや。これもまた『日野森雫』の雫ちゃんが今まで頑張ってきたが故の弊害。どうあっても肩の力が抜けない雫にみのりの顔が歪む
「おかえり。…あらあら」
「お母さんごめん!先お風呂入っていい!!??」
そんないつになっても玄関から帰ってこない娘に心配したのだろうか
みのりの母親らしい女性が玄関までやってきて見る。両親特に母親からすれば口を開けばアイドルばかりだった娘がこの大雨の中、ずぶ濡れになっても顔が整っている美人のお嬢さんを肩に抱いてお持ち帰りして来たようなものだ。
自分の娘に限ってそういう事にはならないとは思うが、それでも何か物アリ気な子を連れて帰ってきたとは流石の母親でも予想できなかったらしい。頬に手を当ててどうしましょうかと考えている横でみのりが雫のローファーを脱がしてそのまま風呂場へと連れて行く。
「ぁ…あの」
「雫ちゃん、まずはお風呂へごー!」
有無も言わせぬみのりの強引さに雫はただ引きずられるがままに、洗面所へとたどり着く。
濡れた服はここに、タオルはこっちにあります。お風呂の用品は体に合わなかったらごめんなさい!けど温まってから上がってきてくださいねとマシンガントークでみのりがわざと雫の言葉を遮る
そうでもしないと、この人はこの雷鳴の中また飛び出していってしまう
「でも……」
「でもじゃないです!雫ちゃん、風邪ひいちゃうから先に入ってください」
その言葉の力強さに何がどうなっても逃げられないと雫も観念したのだろう。ピチャリ、ピチャリと水滴の音の後に衣服を脱ぐ重い音。そしてガラリと風呂場を開ける音の後にシャワーの水音が聞こえてきてようやくみのりは安心したように押し込んだ洗面所の扉から離れる
「みのりおかえり。あのお嬢さん好き嫌いとかあるかしら?」
「ただいま。多分無いと思う」
リビングに着いたみのりに晩御飯の用意をしている母が気が付いたのだろう。目線は手元の料理を見ながら重要なことについて聞く。食の好みは人それぞれだができるのなら美味しいものを食べて英気を養ってほしい。あんな萎びれた年頃のお嬢さんに元気になってもらおうと思うのは同じ年頃の娘を持つ親心としては至極当たり前のものだった
「そう。なら食べて行ってもらいなさい。なんならもう一枚布団敷こうか?」
「…お願いしてもいい?お母さん」
何年みのりの親をやっているのか。既にみのりの言いたい事を見抜いている母の姿にみのりが家族のリビングで小さくなる。先に家に連絡を入れなかったのは悪いが今日はそんな事を言ってられるほどの余裕が無かったのだ
「いいわよ。みのりのお友達だもの。お泊り会にしちゃいなさい」
「あれ、姉ちゃん友達来てんの?」
それも分かっていたのだろう。軽い感じで許可を出す母にみのりは小さく胸を撫で下ろす。これで第一関門突破、あとは本丸である雫ちゃんを口説き落とすだけなら何が何でも成功させるとまずはリビングに連れ込むためのシミュレーションを脳内で行うみのりの横に男の子が座る
小学生の弟だ。そんな弟から見た姉は一緒に遊びに行く友達やクラスメイトの友達の話は聞いた事あるけどまさか家に連れて帰るほどの仲の良い友達が出来ていたとは思わなかったという衝撃だ。
こんなアイドルオタクの姉と仲の良い友達…それだけで弟の興味を惹くのは十分だ
「うーん、友達というか無理矢理連れてきたというか…」
「??どゆこと?」
まさか:拉致…だとしたらまずいよ呑気に喋ってる場合じゃないよ。う、うちの姉が誘拐犯になっちゃうよ
とみのりの弟が出来た料理のつまみ食いをしながら最悪の展開を考える。自慢でもあるがうちの姉は重度のアイドルオタク、そしてそんな姉が連れて帰るほどの友となれば同類のアイドルオタクか、まさかと思うがアイドルをお持ち帰りしたのかと邪推する
そんな内心大慌ての弟の他所でみのりはどう説明するか思案する。
けどいい説明が見当たらないわけで
「…まあ、そんな感じ」
「どんな感じ?」
それで騙される弟じゃねえぜ!と冷静に突っ込む。
姉の連れて帰る人だから悪い人ではないとは分かっているがそれでも気になるものは気になる
「綺麗な人だよ…でも」
「でも?」
「多分、ずっと肩に力入ってる。頑張り屋さんの先輩」
そんな弟の顔にみのりの言葉が詰まる。どう説明したらいいか分からないという悩みではない
「……先輩?」
「うん。先輩…まあ気にしないであげて。多分そっちの方がいいから」
この姉にそんな先輩との交友関係が!?と思っている弟の横でみのりだけが耳を澄ませて聞こえた風呂を上がる扉の音に気が付いて立ち上がる。着替えは少し雫の背丈には小さいかも知れないのを見越して少し大きめのゆったりとした服を用意した
「お風呂、あがった?雫ちゃん」
「…え、ええ」
湯上りの火照った雫ちゃんの顔はどこか落ち着かなさそうに口ごもる。
髪を下ろして、ラフな格好をしているというのに雫ちゃんの立ち姿は昼間の雫ちゃんと何も変わらない。きっとこの人は自分の家の中でも、1人になった時も同じ姿をしているのだろうという確信
「そっか。それじゃあそのまま晩御飯食べちゃお!」
「え?…でも」
けど、その雫ちゃんを止める方法は分からない
止めて良いものかも分からない。だから私が出来るのは
「いいのです!雫ちゃんは今日は花里家の娘です!」
「それは……」
こうして雫ちゃんが少しでも肩の力を抜けるような時間を作ること
「行こ!今日の晩御飯は唐揚げだよ!」
「からあげ、…それはいい、わね」
有無も言わさずに雫ちゃんの肩を後ろから押していく。その背中は大きく見えたのに触れてみればとても華奢で今にも倒れてしまいそうなそんな印象を抱く儚さを美しさだというにはあまりにもみのりは雫の内側に触れてしまったから
ひとりぼっちで泣いているあなたに
誰よりも頑張り続けている雫ちゃんに届けたいものがあるから
「いらっしゃい」
「おかえり」
「おー、これが姉ちゃんの」
どうやら入れ違いで帰ってきた父は既に食卓に着いており、母の声と父の声とそして弟の声が一斉に雫の方へ向く。やはり誰から見ても分かるのは雫ちゃんの整った顔立ちとその大人びた雰囲気だろうか。いつも私が着ている服を雫ちゃんに着てもらっているのに全く別の高級品でも身に着けているのかとみのりも思ってしまうほどには
それはそれとして雫ちゃんに見惚れている弟の頭は後で引っ叩きます
そう覚悟を決めたお姉ちゃんのみのりであった。
「ごほん!こちら私の友人の雫ちゃんです!」
「とも…日野森、雫です。あの、お邪魔します」
そんな殺気を感じた弟が察しよく頭を抱えたのを放置してみのりは家族に紹介するように雫の手を取って一歩前に立つ。先輩だとか、アイドルの師匠だとか色々とあったのかもしれない。けどみのりにとって雫はこの言葉で関係を作りたかった
「雫ちゃんね。いつもうちのみのりと仲良くしてくれてありがとう」
「お腹空いてるでしょう?いっぱいお食べ」
雫ちゃんはどう思っているのだろうか。そう横顔を覗いた顔にはどこか困惑のような、初めて見るかのような顔をしているものだから雫ちゃんもそんな顔が出来るんだとみのりは少しだけ驚いた。まるで触れがたいものような、どこかチクリと痛むようなそんな雫ちゃんの呆然とした顔
「……いえ、仲良くしていただいているのは私の方で……」
「そう謙遜しなくていいんだよ!自分の家にいるものだと思っていいからね」
「そうだな。ゆっくりしていきなさい」
こう見るとうちのお母さんとお父さんと押しようといったらと苦笑するみのりの隣で少し冷や汗をかきながら雫の茶碗にこんもりと盛られる炊き立ての白米。一汁一菜に主食は5人分にも揚げられたからあげはとても美味しそうな見た目と匂いをしている。………
「……ありがとう、ございます」
……いつから、だろうか。
もはや覚えていないが雫は自分が『日野森雫』だと気が付いて以降、食事に対する味覚の反応が薄くなっていた。味は分かる、甘いも辛いも苦いも自分の頭で処理できているのにその実感がどうにも薄かった…まるで近未来のVRMMOの中で食事をしているかのような
味覚の異常ではない。その味だけが分からないという事もないし■が見た中で味覚と想像上の味が違ったこともない。ただ食事を取っている実感だけが抜け落ちているかのような感覚。だけど確かに口から入った食事は確かに胃に入り栄養として分解されている…だから雫は今まで気にしなかった
これは『食事をメインにしたゲーム』ではないから雫の中から抜け落ちていた
一度でもヨモツヘグイだと思ってしまえば食べれなくなる予感がしたから
「…………あ、れ?」
だからここでも何も変わらないのだ。なにも
美味しい、不味いぐらいの区別はつく。だから雫はいつも通りに箸でからあげを掴んで…口の中に入れた。
「味が、……あれ?」
「雫ちゃん……」
咀嚼した瞬間。溢れる肉汁に醤油と生姜をベースに濃く味付けしたご飯によく合うからあげ。さっと揚げているだけではない、二度揚げまでした下味が乱れないようにそれでいて衣をかりッとするように手間暇かけているその家庭の一品がどうしてか鮮明に私の、■の、『日野森雫』の味覚を刺激する
「…………もっとお食べ。おかわりはあるよ」
「好きなだけ食べなさい」
食事中に涙を流すのはマナーに悪い事だと思うけれど
どうしてだろう。どうしてこんなにありふれた一品が美味しくて安心してしまう
「…………は、い」
往生際の悪い。もう■にも帰れないのに、それでもまだこの世界に縋ろうとする浅ましい私が嫌いになりそうなのにどうしてだろうか。こんな温かい家庭の唐揚げが一番美味しいと思ってしまうから
「いいんだ。疲れた時は、美味しいものを食べて休んでもいいんだ」
「…………」
目の前に座っているのはみのりのお父さんだろうか。その男性の顔に見覚えはない…それもそうだろう『プロジェクトセカイ』の中にその顔が出てきたことはない。精々吹き出しとその言葉が確認されるぐらい、みのりの雰囲気の面影が微かにあるかないかというほどの男性の顔
「そうだよ。雫ちゃん!いっぱい食べよ!」
「………みのりちゃん」
────こんなにも優しいから、どうしようにも逃げ出してしまいたくなる
だって私は知らないから。■は知っていてももう届かないものを思い出すことなんて無かったから
「いいんだよ。雫ちゃん」
「…………!」
だから、きっとそう。縋ってしまう
私は弱くて愚かだからその恐怖に抗えない
「今日の雫ちゃんは雫ちゃんだけのもの、ね?」
その温もりに、きっと私は────
どこか行きたい