華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
「お姉ちゃんと喧嘩したい。手伝って」
「ちょ、ちょっと待って!?!?」
朝、学校に着いたみのりが志歩に壁ドンされて言われた第一声がこれである
壁に手を付け上目遣いでみのりの顔を見上げる志歩の顔を近くでまじまじと見つめれば長いまつげといい、すらっとした顔の輪郭といい確かに妖精と名高い雫ちゃんと姉妹であるとま…まあ志歩ちゃんほどの美人さんがそういうのなら…という気分になってくる
とはいえみのりにとっては昨日の今日だ。あのゴミ捨て場で独り打ち棄てられたように座り込む雫を見つけてお持ち帰りして先にお風呂入ってもらっている間に志歩宛に雫ちゃんを見つけたこと。今晩は家で預かることを連絡はしてある。…とはいえ、志歩とみのりは同じクラスメイトであるわけでみのりの異常アイドル愛者としての行動を志歩は知っているため流石に何か言ってくるかとは思ったけど、これは予想外だったとみのりは困惑する
志歩ちゃんってシスコンだから
ぶっきらぼうな物言いの中で絶対にお姉ちゃんである雫ちゃんの心配は隠さないから
「?分かんなかった?ならもう一回言う…お姉ちゃんと喧嘩したい。手伝って」
「うん。2、3個聞きたいところがあるかな」
だから志歩ちゃんから色々と言われることは覚悟していた。だけどまさか喧嘩したいから手伝ってとは予想してなかったなあとみのりがツッコミ役になるぐらいには色々とおかしな展開になってきた。泥棒猫と言われるぐらいは覚悟していたのにとはみのりの思いである
「聞きたいところ?」
「うん、まずどうしてそうな…」
首を傾げる志歩のあどけなさの中に天然感がある顔はみのりにとってデジャヴを強く実感させるには過ぎたもので、弟はいるが妹というのもいいものかもしれないとこのよく似ている姉妹の姿に何故か嬉しくなったところで教室内に響くチャイムの音
にぶく鳴り響くその音に流石に志歩もみのりも気がついたのだろう
他のクラスメイトはもう席についているのに教室の後ろで壁ドンまでして話し込んでいる2人が居たらそれはそれは目立たないわけがない。教室全てから、いや既に教壇に立っている先生までもが志歩とみのりを見ているのだ。そんなとても目立っている姿に2人も赤面するのはこれもまた予想できた未来である
◇
「……それで、どういうことなの?」
そんな朝の騒ぎの一幕は一年生の間では広まってしまったようで事実を確かめようと桐谷遥がやってきた背後では心配そうに見つめる咲希と一歌の顔まである。喧嘩別れというか…ほぼほぼ私が一方的に拒絶した手前、顔を合わせるのはかなり気まずいが今はそうも言ってられないと志歩は無言で首を揺らしこっちに来るように手招きする
昔からの合図。幼馴染だから今も通じるとはまあちょっとは思ってたけどキチンと通じ合ったことがこれほどまでに嬉しい事なのか。横に椅子を持ってきた咲希と一歌まで腰かけたのを見てようやくとばかりに桐谷さんが口を開いた。
「はいっ!えーっとまずですね…」
「うちのお姉ちゃんをお持ち帰りした」
桐谷さんに視線を向けられたからかみのりは今一度背筋を伸ばして何かを言いたそうにしている前でみのりに親指を向けて昨日貰った連絡を一言でまとめるとそういうことである。あのお姉ちゃんの連絡の後、ミクの話を聞いて啖呵切ったのはいいもののその直後にみのりから連絡が来たのだ
『雫ちゃんお持ち帰りぃ~! 今夜はうちの子です☆』
なんて連絡が来れば今から草の根一本をかき分ける覚悟さえ決めていた志歩の肩をいい意味でも悪い意味でも落とすには十分な威力を持っていた。心配したんだからという感情と、もうちょっと雰囲気考えて!?と言いたくなる文面に『そう、ありがとう』とだけ返して志歩はふて寝するしかなかった。
なんて志歩の八つ当たり交じりの恨み言に遥はみのりに程々にという視線を向けること以外に言えることはなかった。あの光景を見て追いかけられなかった私と違ってみのりは追いかけた…その差を痛いほど遥は理解してしまっているから
「……というか、そもそもなんで私のお姉ちゃん泣かせたの?」
「いやっ、それは誤解で…」
「私たちが知ってる雫の話と、日野森さんが知っている雫の話は多分違うと思う。そこのすり合わせからしていい?」
問題はそこではないと志歩はあくまで問題ごとの根本は【お姉ちゃんが泣かされた】ことにあると考えていた。
滅多に感情を荒げない姉の姿を志歩は良く知っている。だけどそれがよい事なのか悪い事なのか分からないから最近の姉の様子を見ていたらこれだ。声を荒げる姉の声は今も志歩の脳裏にこびりついて離れない
そんな鋭い疑惑の目を向ける志歩にみのりではなく遥が横から口を挟む。日野森さんにもみのりにも悪意が無いのは分かるが今の冷静さを無くしている2人の会話ではどこかで脱線する予感がした。…しかし問題は、この話を一切わからない一歌と咲希である。2人にとって雫とは昔よく遊んでくれたお姉さんであり、咲希にとっては何度かお見舞いに来てくれた人である。一歌からすれば確かに最近顔を見合わせた雫…先輩は愁いを帯びた顔をしていたがそこまでだとは思っていなかった
「…いいけど」
「ありがとう。まずはね───」
語る遥の証言。アイドルとして人前に立つことは慣れているからかその話は非常に分かりやすく簡潔にまとめられたものだった。私たちも全部を見ていたわけじゃないから経緯は分からないが雫の友人である愛莉と言い争いの形になっていたこと。そしてその時、衝動的に愛莉が口にしてしまった日野森雫に何が分かるのという怒号…それに
「雫はね、笑ったの。ありがとうって否定してくれてありがとうって」
「…っ!」
傷付けるつもりが無かったとしても、傷つける言葉になってしまったナイフに感謝する人間がどこにいるのだろうか。怒るのならよかった嫌われるのなら…それでもまだ感謝の言葉になるよりもずっとずっと人間らしい反応のはずだ
それを虚勢でも皮肉でもない感謝と感動で受け止められたとき私たちはどうすればよかったのか
幾千もの誉め言葉より幾万もの愛の言葉よりも深く刺さった言葉が否定の言葉だと言うのならそれほど物悲しいことはない
「それでね…」
だがこれはまだ序の口だと遥は気まずそうに志歩の横に座るクラスメイトである一歌と咲希を見る
どちらとも『桐谷遥』ではなくクラスメイトの友人として仲良くなってくれた貴重な友人だから今回の一件に巻き込むのは気が引けた。それもこれは雫のプライベートにも差し掛かるから暗に志歩に遥は視線で問いかける
「…いい。一歌も咲希も私の幼馴染でお姉ちゃんをよく知る人だから、いい」
「しほちゃん…」
「志歩…」
その気まずそうな顔に気がついたのだろう。志歩は一瞬考えるように瞬きして元から用意していた解を口にする。志歩にとって離れ離れになったとしても一歌も咲希も…そして今ここにはいない穂波も大切な幼馴染で親友。そして昔からお姉ちゃんを知る人だからこの話から排斥するほどではないと認めた
「…分かった。雫はこう言ったの」
その言葉を遥は覚えている
返し針が心に突き刺さって抜けなくなるような悪しき創が癒えぬまま放置されたようなあの苦みを
「『日野森雫』が怖かったと、否定の言葉が救いになったと」
口に手を当てて絶句する咲希の姿。その横で拳を握りしめる一歌と、目を閉じて深く考えている志歩の姿
この雫の言葉に遥の個人的な感想を述べるのなら【分からなくはない】が本音だった。どちらもグループの中心の顔として活動をしてその重責も、その負担も並のものではない。自分ではない名前が独り歩きする不安も恐怖も遥は一番、雫に共感していた
だけど、だからと言って否定の言葉が救いになるなら話は変わってくる
今の自分を受け入れられないではなく、自分を完全に否定するしか許せないのならそれはもう善悪の瑕疵では問えない雫の悪創になっている。
「…はあ、本当に勝手」
「日野森さん?」
話を聞いて呆れかえったかのような志歩の姿。
志歩にとっては昨日のミクとの会話で気がついたお姉ちゃんの自尊心が地面にめり込んでいる説を補強する材料にしかならなかった。ミジンコ以下の自尊心がモグラのように地中から出てこないとなると最早呆れよりも感心が先に来る
本当にうちのお姉ちゃんはキチンと目を見開いてみるべきなのだ
もちろん見るべき先はお姉ちゃん自身ではない。ここまで心配してくれる人たちがいるのをお姉ちゃんは双眸見開いて知るべきなのだ
「…なんでもない。ここからはそれからの話だね」
「うん。わたしはゴミ捨て場で座り込む雫ちゃんからしか知らないから」
おい、ゴミ捨て場の件は聞いてないぞと志歩が半目でみのりを見る前で遥も聞いてないけど?という顔でみのりの顔を見る。あ、やべっという顔をしたみのりは後で問い詰めるとして志歩はおそらくそこからお姉ちゃんがみのりたちと別れた後の話をする。
お姉ちゃんが私に公衆電話から電話を掛けてきたのは夕方と夜の境目のような時間だった
私が電話を出て相手がお姉ちゃんだと分かった時にお姉ちゃんは…ただひたすらに笑い飛ばした。何もかもがおかしいというかのようなそこ抜けた笑い方は妹である志歩も聞いた事のない声
「…私は異物で、ワインに混ざった泥水。だから私は日野森雫になれなかった。産まれてきちゃダメだったって…お姉ちゃんは謝ったの」
それにかけられる言葉を遥も一歌も咲希も…そしてみのりでさえも誰も持ち合わせていなかった
むしろ絶句したという方が正しいだろうか。何故なら雫がそれほどまでに自分自身を嫌って呪っていたとは誰も知らなかったから
「泥水…雫は、もう終わりたかったのかな」
「分かんない。分かんないよ…雫ちゃん」
ワインと泥水の逸話を遥は知っていた。
ワインの中に一滴でも泥水が混じればそれは泥水であるという誰かの言葉。それに則って雫の言葉を当てはめるのなら【日野森雫】という名前をワインにして雫という一個人を泥水に振り分けてしまったのだろう。…そしてその雫の選択は舞台という場から逃げるのではなく、自分という一個人を排することにした。してしまった
思い当たることがあるのだろう。憂いを帯びた遥に比べてみのりはその決断を受け入れられなかった
きっとそれは何でもない夕食の席でぽろぽろと大粒の涙を流す雫の姿を見ているから。月を眺めて泣けない様なそんなか細い声で裏切られたような、どこか安心するような顔で目を閉じた雫の姿を知っているから
遥も、みのりも思い浮かんだ考えは違う。けど考えることは一緒だった
────それでも一緒にいたいのは雫なのだと
◇
「…本当に上手くいくのかな。桃井先輩」
「分からない。でも愛莉に任せるしかない」
放課後になった時間。颯爽と教室を飛び出し2人は雫を連れてくる愛莉の指定した屋上に繋がる階段の死角に身を隠しながら互いに顔を近づけていた。場所が場所なだけに2人ともほぼほぼ抱き着くような形で密着しないと簡単に見つかってしまう。
「ねえ…みのり」
「?どうしたの?遥ちゃん」
話し声も吐息も掛かるような距離。近すぎる推しである遥の顔にみのりのオタク心が暴走しそうになるが今回ばかりは抑えろ私と鋼の精神力で耐える…耐えている。花里みのりは"推しとのゼロ距離"には慣れようとしている
そんなみのりの葛藤に遥が耳元で小さく呟く。
顔が丁度互いの肩に当たるような姿勢だからその顔は見ることは出来なかったけどその声色から真剣な話だとみのりは邪な考えを捨てて遥の次の言葉を待つ
「…あのね。私ね」
一瞬迷うかのような隙の後、遥はこう口にした
まるでその言葉を言うこと自体がいけない事だと言わんばかりに
「雫を止められる自信が、無いの」
「…それは、どうして?」
遥の中にある雫への感情は尊敬や同情などといった簡単な言葉で片付けられるようなものではなかった。雫の言葉に見透かされるようで恐怖したことだってある。でもここまでに志歩やみのりからの話を聞いて遥が真っ先に思ったことは
「私ね。もう何も届けられない…ステージに向かおうとすると足が動かないの」
言葉に出来ない、親近感
「そんな…!」
「だから、雫の話を聞いたときね。こうも思ったんだ」
あの美しい『妖精』が、私の憧れの【先輩】が
私によく似たそれを抱えて美しいままこの空から堕ちてくる。
「頑張っても、どうにもならないんだって」
…そうだよ。頑張ったってどうにもならない
舞台に立てない私が、どれほど頑張っても藻掻いても足掻いても変わらないそれが同じように雫にもあるのなら
「私の言葉がね。誰かを追い詰めるように雫は自分の言葉で自分を追い詰めた」
「ねえ…そんな私が、どう雫に言葉をかけたらいいの?」
みのりには悪いけどどうにか諦めてほしかった
諦めて、それでも同じ疵を負ってそれでも一緒に生きてほしかったから雫を追いかけた。だから諦めてほしい、諦めて救って…諦めて、許して
「ううん。違うよ」
「…ぇ?」
そんな自覚している浅ましい劣等感を吹き飛ばす様に目の前のみのりは微笑んだ
花が蕾が開くかのように、小さな輝きが瞬きと共に頭上で輝くような──
「遥ちゃんはね。私にたくさんのものをくれたんだよ」
「…みのり」
敢えて言うのならば、それはどこかで澱み積もっていた何かが流れ出していくような
風向きが変わるようなそんな
「昔ね。遥ちゃんみたいになりたくてダンスを始めたの、そしたらね。ダンスが大好きになった」
「遥ちゃんのライブでね。友達も出来たの、それにね。遥ちゃんがファンサしてくれた時とても嬉しくて…泣いちゃって」
その感覚を肌で感じているのは遥だけだ。みのりには分からない
何も分からない。そう何も分からないからこそ愚直に手を伸ばす。あの時傘を差し出したように
「だからね、ありがとう遥ちゃん」
「私にアイドルになりたいという夢をくれて…希望をくれてありがとう!明日を信じさせてくれてありがとう!」
ただ感謝を。いつか遥が掲げて、そして裏切られたその言葉を
今度は信じさせてくれてありがとうと目の前で誰よりも真っすぐの目で遥を見るものだから
「…ぁ」
それだけで救われるぐらい、簡単な話であってもいい筈だ
「ね、遥ちゃん。多分雫ちゃんには届いていると思うよ」
「…どうして?」
涙を噛み締める遥の顔はみのりには見えなかった。
…見られなくて良かったと思う。だって
そんな遥が肩を震わせるのを抱きしめたままみのりは語る
思い出すのは昨日の夜の事。空を見上げたまま月に焦がれるように見つめる雫ちゃんは確かに覚えていた。遥ちゃんのキャッチコピーのその言葉を
「だって、雫ちゃんは覚えていたから…明日はいい日になるかもしれないって」
「……」
だからみのりは信じている。雫の言葉を聞いても、それでも
「だから遥ちゃん。一緒に行こう!明日の希望を、私たちで形にするの」
「うん…うん!」
階段を上ったみのりが遥へと手を伸ばす。その手を迷いなく遥は掴んで顔を綻ばせる
…隠さずに言うのなら今だってまだ怖い。ステージに立とうとすれば足が震えて動けなくなるかもしれない。あの日の私の言葉で壊れてしまった人の声を思い出す。でも、それでも
「ねえ、みのり」
「?どうしたの。遥ちゃん」
みのりを信じてみたいから
だから、今日までの私は私のまま飛んでみる
「私に…希望を、ううん。