華喰蟲よ、樒の葉を食め 作:夜雫の夢
『そして、そのとびきりの笑顔でお姫様は
たくさんの人に愛と勇気を与えたのでした─────』
昔、読んだことのある本の中身を何故かよく覚えている
それはきっとわたしの、桐谷遥というアイドルを語る上で決して欠かすことの出来ない原点。希望を届けるアイドルとして、今日よりも明日はもっといい日になるのだから
だからこそ、私はあなたと出会った日を忘れることは出来ない
『あなたが『桐谷』さん?よろしくね!』
飛び切りの笑顔を浮かべて、私たちの緊張を解すお姉さん
それが私と日野森雫…雫との出会いだった。正に天真爛漫が似合うと言えるような満面の笑みを浮かべて右手を差し出した貴女の姿、まだアイドルとして未熟だったころ初めて同じグループ以外のアイドルと共演した相手が雫だった。
この舞台に立つアイドルは私たちだけだからと真っ先に駆け寄って手を伸ばしてくれた雫の事を今も鮮明に思い出せる。今の雫のアイドル服よりももっと青色が強くてマリンブルーだとか、ネイビーブルーだとかに近しい色合いの服装で髪には大きく白百合の偽花の髪飾りが咲き誇っていた本当に初期の雫の姿
今の薄紫に金色の装飾が入った当時の髪飾りを腰に根付のように付けている姿も良いがやはり私にとって雫とは最初の姿のままだった。全てを抱きしめるような深い海を纏っているかのような包容力と、その衣装が舞台の光に当たればキラキラとまるで水面が揺れるような息を呑むような美しさ。
そしてその衣装に負けず、いやむしろ互いが互いを惹き立て合うように雫の美貌は私であっても惚れ惚れするほど完璧に整っていた。スルリと立った鼻筋、肉付きの柔らかくシュッとした頬に顎から首筋まで透き通るように白の肌の色。そして何よりもその不思議と覗き込んで手を伸ばしたくなるような薄水色の瞳
『ぁ……き、桐谷遥です!よろしくお願いします!』
『ご丁寧にありがとう。私は『日野森雫』よ、一緒に頑張りましょうね』
差し出されたその手は思いのほか冷たくて、けど不思議と温かくて嫌じゃなかった。
真っすぐと見上げてくるその瞳はブルームーンのように光を鈍く反射して優しく輝いていた。そんな優し気な雫の姿に私はとっても勇気づけられて、不安が軽くなったのを覚えている
年上の、それもまるでお姉ちゃんのような人。
実は私と年齢がひとつしか変わらないのに気が付いたとき、とっても驚いたのは内緒
『日野森さん、ここは─────』
『わかりました。では───』
握手の後、雫は直ぐにやってきた監督さん?と親しげに、周囲の大人たちと対等に話す雫の姿に当時の私はとても雫が大人びて、輝いて見えて憧れたものだ。勿論それは今も憧れは消えることは無いけどそれ以上に思う
当時の雫は何歳だったのだろうか?
幾ら大人びていると言っても大人と、同じ目線で喋れるものなのだろうか
確かにこの世界は必然的に年上と関わることの方が多く精神的な成熟が早まる自覚はある。だからこそ分かる、あの日の雫の大人と一切の遜色なくコミュニケーションを取る異質な姿。私も今のグループのセンターに立つというところから見ても雫は、やっぱり凄いと思う
『えーっと、それじゃ頑張りましょうね!桐谷さん!』
『は、はい。ひ、日野森さん』
けどまあ当時の私にはそこまで考える余裕もなくて頼れるお姉さんである雫の後ろを雛鳥のようにちょこちょことついて歩くことしか出来なかったけど今思えばあの日の雫がずっと私の希望で、夢で、光だったのだと気が付くのはまだすこし先の話
それはそれとしてやっぱりこの頃から変わらず雫の距離感は独特だ
握手もそうだが特に雫は肌と肌の触れ合う距離を苦手にしている節がある。近いところで潔癖症の人に似ているというべきだろうか、だけどその割には飲み物を同じように口を付けることを嫌がる様子は無い。さらに言うなら自分の持っていたものを簡単にシェアできるのを見ても極端にパーソナルスペースが狭いわけではなさそうだ
ただ本当に極端に自分から他人に触れ合うことが苦手、みたいな。逆に他人…私から近寄ったら少し逡巡しながらもハイタッチし返してくれたりとノリが悪い人ではないのだ。ただ本当に自分から絡みにいかない奥手なところと、あの雫の目立つ容姿のせいで『妖精』だとか、『精霊』なんて二つ名が付くだけで
『君ら、もう仲良くなったの!?凄いねぇ!』
『やっぱり年が近いと話が弾んじゃって~。ね?遥ちゃん』
『は!はい!そうですね。雫、せんぱい…………』
本当にいつ、いかなる時でも雫はずっとアイドルとしての姿勢を崩さない。
完璧で鉄壁、その言葉が脳裏に浮かび上がるぐらいにはカメラが向けられていない時もまるでずっとカメラが向けられている時のようにその姿には一本の線がピッシリと立っていた
私にアイドルが笑顔を希望を届けるものだと教えてくれたのはあのお姉さんだとするのなら
私にアイドルという生き方と姿を指し示してくれたのは雫だった
ならそんな雫は私にとっての【先輩】だ
そうして仲良さげにするために軽やかな足取りで近づいてくる雫から香る、その良い匂いは今も忘れぬままだ。実は今も似たような匂いの香水を吟味したりすることもあるし、遠回りしてしまったが雫の使っている香水のブランドを調べたがあの日の雫と同じ匂いのはまだ見つかっていなかったりする。
『あ、さっきはごめんなさいね。』
まさかと思い悶々とする日々に眠れぬこともあったが…と、その話は置いておいて。
私が絶句したのはその後のことだ。収録が終わり、解散というところになって雫が申し訳なさそうに近づいてきた。その時の私はまだ雫先輩がどうかしたのかな?なんて純粋にも考えていたところだった
『
私はその後の、雫の一言に絶句してしまうことになる
『…………ぇ?』
名前を呼ぶのが、なんだ。下の名前で呼ぶことを謝られるなんて思いもしてなかったから
…もしかして、何か私は知らず知らずのうちに雫先輩に酷い事をしてしまったのだろうか。私は、雫に嫌われてしまったのか。なんて、酷く取り乱してしまったのだ
『あ、の…しず、…日野森先輩に私、なにか失礼なことを…………?』
だって私にとって先輩でお姉さんみたいな人だったから
憧れになって、そして私の目指す先のような人に嫌われてしまうなんて初めてで私もどうしようもない程怖かったのを覚えている。目の前の景色が急に白黒になってグルグルと世界が壊れてしまうような感覚。恐ろしいほど、怖くて。けど目の前の雫だけが美しく輝いていて
『あっ!えーっと、別にそういうわけではないのよ!…けど、あの実は私、名前を呼ぶのが慣れてなくて…』
『…………えっと、それって』
けどそんな私に雫は驚いたように声を上げた後に恥ずかし気に頬を掻く姿。
話を聞くと、どうやら私の思い込み過ぎだったと言わんばかりの雫の小さくつぶやく言葉に私の目が点になっているような気がした。だって、それはつまり………
『恥ずかしいって、こと………』
『………………えへへ』
あの、誰が想像できただろうか。
まさかこの目の前で恥ずかしそうにはにかむお姉ちゃんのように優しく、そしてまるで天使のように奇麗な人が友達が少ないから下の名前で親し気に呼んでいいのか分からないから後で謝ってきてしまうなんて誰が想像できるのだろうか
これがあざといっていう事か。と私はこの時、心や文字ではなく魂で理解した
なるほど。これは確かに…なんというか年上なのに護ってあげたくなるような庇護欲と、そしてこれほどまでに純粋な雫を自分の色に染めたくなるような背徳感に当時の私は背筋に走った変なゾクゾクに混乱していたのは内緒
『………雫先輩、私の名前を呼んでもらっていいですか?』
『…………いいの?』
きっと、雫は私たちが思っているよりもミステリアスではないのだろう。
みんな、みんな本当の雫はもっと可愛くてフレンドリーな人なのだから
『はい!……だって、雫先輩は私の────!!』
だから、きっと私はこの時もうひとつの誓いを立てた
この人の、雫先輩の笑顔をいつでも引き出せるようなアイドルになると
◇
────けど、今では
「遥ちゃんの嘘つき!!」
それさえも遠くて────
◇
成長と共に雫はもっと奇麗になった。スラリと真っすぐ伸びた身長は確かにモデル体型と、理想の姿と言われるのに納得なほどしなやかに躍動する雫の姿を見れば分かる。これで特に食事制限とかしていなくて、アイドルの練習だけであの姿なんだから、やっぱりなんだ。それはぶっちゃけ羨ましいを超えた羨ましい
……ゴホン。そんなことは置いておいて、今日は久々の雫との共演だと車の中で揺られる思考でゆっくりと考える。撮影はファッション誌の表紙、今までも何度か撮ったことのあるところだから変な緊張はしないけどやはり思い出してしまうほどには雫の印象が濃い
「雫……」
雫なら、私の希望なら、憧れなら【これ】に答えてくれるのだろうか
希望なんて不確かなものを掲げてきた私に雫は、先輩は答えをくれるのだろうか
そんな私の暗雲をおいて衣装係がやってくる。今日はどうやら中性的な服装と言うべきだろうか
これはまるで中世の騎士服のようなおとぎ話の王子様を予感させるような服に着替えていく。果たして今日の撮影は……そう考えていると、一際大きな騒めきと共にお姫様がやってくる
「…………っ!」
誰かの息を呑む声。そして視界だけではなく五感の全てを引き寄せられるような、強い引力を身に纏ってその少女はこの場所へと現れた。頭にかぶされたベールからは微かなあの微笑みだけが浮かんでいてその表情を察することは出来ない、出来ないが分かる。その恐ろしいまでの美しさ
黒のドレス、そして不可能の代名詞であったはずの青いバラを胸に刺して雫はこの舞台に現れた
いつか雫の二つ名であった『妖精』の意味が嘘偽りのモノではないことがよくわかる。上品な姿の中にどこか無邪気さが見え隠れしている様な、美しいものの中に、どこか人ではない何かを孕んでいるかのようなまるで妖精の女王かのように雫が立っていた。
「…………遅かったね。雫」
「待たせてしまったかしら。遥ちゃん」
いつものように声をかけると、ソッと持ち上げたベールの中から雫が顔を出す。あの日見た薄水色の瞳は変わらないまま、いや。更に彩度が増して雫の中でまるで宝石のようにキラキラと輝いている。フニャっと笑みを崩すのは雫の親愛の証という事に気が付いたのはいつだったか
あの日から変わらず、雫は私にとってずっと目指す先だった。
キラキラと輝いてそして私にも希望を届けるアイドル。ずっと、ずぅっと雫は、雫だけが───
「…やっぱり雫は、凄いね」
もしも、あの子の憧れが雫だったのならあんな結末にならずに済んだのだろうか
希望という笑顔が誰かを追い詰める事もなく、嘘にもならなかったとしたら…………?
「希望は、あなたよ。私たちアイドルの希望、目指す先。あなたの姿こそが希望なの」
その言葉を、私を否定するように雫の瞳が私を視る。ただ視ている
…………怖い。こわい、こわい!なんで、雫。貴方はそれを、希望を私だと言うの!?
だからこそ、その後の言葉を覚えている
「遥、私たちは嘘という魔法で輝くの、なら…」
いつもののように微笑んだままの雫が答える。私の殆ど吐き出したようなそれに雫は只、笑みを浮かべたままいつものように、それが自然体の言葉だというように雫は何気ないようにその言葉を吐いた
「嘘こそ、とびっきりの希望なんじゃないかしら」
全ては虚飾で無意味なのだと
雫は、私の希望は嘘なのだと貴方は笑った
『第一章 マーフィーの法則』終了
───第二章を、再生しますか?