「———皆さんは、神様って存在すると思いますか?」
小学五年のある道徳の授業、二十代後半の女性教員はそんなことを問いかけた。
「昔の人は、雷や火、太陽、死などの理由がわからない現象を見て、『これは見えない
何かが存在している』と、考えたのが始まりです。そして時代は進み———」
その後も女教師は「神様の存在」について、話をしている。
まだ十歳になったばかりの俺たちにとって、それは退屈以外の何物でもなかった。
「————このように、私たち人類の歴史は、神様の存在が大きくかかわっているのです。 ……ここまでで、なにか質問はありますか?」
そう言う女教師。すると、一人の気真面目そうな男が、手を挙げて言った。
「先生は、神様に会ったことがあるんですか?」
いかにも小学生が興味の持ちそうな質問だ。
女教師は、その質問を待ってました、と言わんばかりの表情で「えぇ、ありますよ」と答える。
「えぇ~それは本当ですかぁ?」
大人になっても遊んでそうな、リーダー格の女はそう言う。
「もちろんです。 ———あれは三年前、私が一人で山に登っている時でした———」
いかにも作り話のような雰囲気で、教師は話を続ける。
しかし、俺たちは生まれてまだ十年。教師の現実味の無い薄っぺらい話を、大半の生徒は信じていた。
「———そんなわけで、私は、この世に神様はいるのではないのかな、って思います。皆さんもそう思いませんか?」
そう問いかける女教師。
誰もが『神は存在する』と信じている中、一人のお利口さんが手を挙げて言った。
「———私は、神様なんてそもそも存在しないと思います。だって、先生の話も現実味が無さすぎるし……それに『神様が存在する』という科学的根拠が、私の知る限り、どこにも示されていないと思うからです」
とても十歳とは思えないお利口さんの言葉に、教室の半分は感心したような顔をし、もう半分はよく分からないような顔をした。
そのお利口さんはクラスで———いや、この学校全体でも一、二を争うレベルの、非凡なる才能の持ち主だった。
発言は正確で、感情の入り込む余地がない。間違いを許さず、遠慮もしないその性格は、クラスの連中にとって面白くなかった。
「……なるほど、確かにハナサトさんのおっしゃる通り、科学的根拠はどこにもありません。しかし———」
学級担任は苦笑いを浮かべ、お利口さんに食って掛かる。
二人のやり取りは、しばらく続いた。理屈と理屈がぶつかり合い、どちらも一歩も譲らない。教室は静まり返り、誰も口を挟めなくなっていた。
俺は心の中で「くだらな」と吐き捨て、教室の外をぼんやりと眺めていた。
話は常に平行線。こんなつまらない押し問答、聞くだけ時間の無駄だからだ。
景色を見ながら、先程の担任が問いかけた質問を思い返していた。
「神様は存在しますか?」
曖昧で、漠然とした問いかけ。
しかし、その言葉を聞いた途端、俺の中では、既に答えが出ていた。
———神様なんて存在するわけない。俺もお利口さんと同じ結論だった。
理由は単純。もし存在するなら、この世に不幸な人間なんて存在しないからだ。
何も悪いことをしていないのに奪われる人がいる。努力が報われず、理不尽に踏み潰される人間がいる。
もし神がいるのなら、どうしてそんな光景を許しているのか。見て見ぬふりをしているのか。それとも、最初から見ていないのか。
世の中には、不幸な人間が多い。
理不尽に奪われ、説明も与えられず、救われないまま置き去りにされる人間がいる。
もし神というものがいるのなら、それはあまりにも冷淡で、残酷で、無責任な存在だということになるのではないか。
そんな愚か者を信じるくらいなら、最初から信じないほうが良いに決まっている。
———結局、満足な結果を知ることも無く、その日の授業は終りを告げた。
その日の夜、俺たちの地域では、小さなお祭りが開かれていた。
両親に連れられて渋々ついていった俺は、少し離れた神社の石段に腰を下ろしていた。
「……で、なんで君は隣に居るんだ」
「———別にいいでしょ。空いていたから座っているだけ」
そう言って不機嫌そうに顔を膨らますお利口さん———ハナサトは、さっき屋台で買ったであろう、かき氷を食べている。
そんなハナサトの服装はいたってシンプルだった。薄いデニムのショートパンツに、風が通り抜ける白のノースリーブ。肩にかかる髪は、暑さのせいかゆるく結んでいて、首筋が少しだけ見える。足元は歩きやすいサンダルで、ウサギの髪留めを身に着けていた。
「それにウエハラ、『目を離した途端、すぐどっか行くから見張っていて』っておばさんに言われているもん」
「余計なお世話だ」
そう吐き捨て、夏祭りの会場を見下ろす俺。
狭い参道に屋台がぎっしり並び、行きかう人々は皆上機嫌に歩いている。
屋台の明かりが夕闇を押し返し、色とりどりの提灯が揺れていた。
遠くから聞こえる太鼓のリズムに億劫になりながらも、俺たちはただ時間が過ぎるのを待っていた。
ハナサトも、食べ終わったかき氷を、意味もなく持っている。
俺たちが人々の輪に入らない理由はただ一つ。自分たちがハブられものであるからだ。
俺たちは、地元でちょっとした神童とされていた。テストはいつも満点を取るし、中学生が受けるようなテストでも、常に上位に位置していた。
だからだろう、同じクラスの奴らからは少なからず妬まれ、物を隠されたり、机に落書きをされた回数はキリがなく、度々クラス問題になっていた。
ハナサトも同様だ。だから俺たちは、自分を『不幸な人間』と決めつけていた。
ハナサトの家は、俺の家のほぼ真向かいにあった。幼い頃から、俺たちは相当の時間を過ごしてきた。いわゆる『幼馴染』というものに当たるだろう。
親同士の仲も良かった。俺の親は、いつも仕事で多忙なため、どうしようもなく暇な時は、よくハナサトの家に遊びに行っていた。
だから必然的にハナサトと一緒にいることが当たり前となっていた。
俺たちは仲の良い関係だ———と両親は思っているだろうけど、実際俺はそう思わない。
理由はただ一つ。隣にいるこの女もまた、優秀な存在であるからだ。
テストで満点を取ることが出来るのは、俺一人だけではない。
ハナサトも同様だ。互いが互いを競争相手としか見ていない。
ハナサトのせいで、俺は本当の意味で一番になることも出来なかったし、俺のせいで、ハナサトは本当の一番になることが出来なかった。
互いを競争相手としか見なしていない俺たちだが、親の前では、仲良く振る舞うことが暗黙の了解だった。
いじめのことも両親に話していない。要らぬ心配をさせたくなかったからだ。
ハナサトも同じ考えなのだろう。だから俺たちは、親の前では『仲良しごっこ』を演じていた。
夏休みやクリスマスの日は、意味もなく二人で外をぶらぶらした。自宅に引きこもって、親に勘づかれることを危惧したからだ。
「友達と遊びに行く」と嘘を吐き、ハナサトと近くの公園で過ごすのが当たり前となっていた。
俺たちの家は、丘の上にあるので、クラスメイトと遭遇することはまずなく、ただ時間を潰していた。
———クラスメイト。そう言葉に表しただけで虫唾が走る。
小学校は、俺たちにとって、とても気の滅入る場所だった。たびたび、俺やハナサトに対する嫌がらせが問題になって、学級会議が開かれた。
そして、俺たちの小学校は、他の所より少々特殊だった。一年から三年で同じクラスと同じ担任。そしてクラスが入れ替わり、四年から六年まで同じクラスと同じ担任だった。
四年の時になった女性教員は、いじめ問題に理解のある人だった。よほどのことがない限り、親に報告するようなことはまずなかった。たった一か所だけでも、自分たちがいじめられっ子であるのを忘れさせてくれる場所が必要であることを、その女性教員は、よくわかっていた。
学校では俺とハナサトは、常に一人だった。話すとしても、せいぜい一言二言。
当然クラスの奴らに怪しまれることもなかったし、互いが互いを助け合おうとは微塵も思っていなかった。
自分のことは自分でやる。それが俺たちのやり方だった。
その影響もあって、俺とハナサトには一つの共通の考えを持っていた。
それは『不幸な人間は、自分である』ということだ。
生まれる場所を間違えたから、俺たちはこうしてハブられた。
天から授かった優秀な頭脳を持っているから、俺たちは一人になった。
ハナサトという存在がいるから、俺は一番にはなれなかった。
何か一つでもいい、何か一つ歯車が狂えば、俺たちはこうして地獄を生きることは無かったのではないのか、と。
ハナサトも当然同じ考えを持っていた。面と向かって言われたこともある。
しかし一方で、お互いが話の通じる相手であることも確かだった。俺の考えを理解し、適切に返してくれるのは、ハナサト以外いなかった。
だから俺は、親にも見せない素の状態を、ハナサトだけには見せた。罵倒も。嘲笑も。
思ったことは必ず伝えた。それが俺たちにとって一番楽であるからだ。
どのくらい経ったのだろう。祭りも終わったのか、屋台の撤去作業が始まりつつある中、ハナサトは不意に立ち上がり、スカートの汚れを手で払って、まっすぐ正面を見据えたまま言った。
「———私たちは、いつか幸せになれるよ」
彼女だけが持つ、あの透き通った声で。まるで、たった今確定したかのように。
「……いつかって、いつのこと」
「十年後」
俺は考える。十年後———つまり、俺もハナサトも、二十歳になっているということだ。
当時十歳の俺は、二十歳というものが想像もできなかった。大の大人を意味しているからだ。
「どうしてそう思うの」
気になったのでそう聞くと、ハナサトは「なんとなく」と返事した。
「———あのさ、ウエハラは十年後の自分って想像できる?」
「十年後?」
「うん、二十歳になった自分」
そう問われ、少し真面目に考える。
背も大きくなり、それなりに良い大学に進学しているだろう架空の自分。
「女の子は十六歳になったら結婚できるんだよ。男は十八」
「結婚ねぇ……」
正直、自分が誰かと一緒に居る姿が想像できない。結婚は幸せな人間同士が結ばれるものだ。ゴミみたいな人生を送っている俺が、誰かの幸せを共有する、ということに吐き気すら感じる。
「結婚はしないよ」
「どうして?」
「嫌なものが多すぎるんだ。世の中にあるもの全部。俺は幸せに興味がない」
「……そっか」
どこか寂しそうに笑う彼女は、いつもとは別人のように見えた。
より大人びているように見えたし、より傷つきやすそうにも見えた。
「だけど」
俺はそう言い、言葉を続ける。
「幸せに興味はないけど、幸せになりたいとは思うよ」
「何それ。言っていることが真逆じゃん」
「———そうだな」
屋台の撤去作業も終わりを迎えたのか、ポツポツと提灯の灯りが消え始めた。そろそろ親と合流しないとまずい。
「それで、君は幸せになりたいの?」
ふと気になったので、俺はそう問いかけた。
「うん。お酒も飲みたいし、結婚もしたい。生きていてよかったって、私って幸せ者だったんだって、思えるような人生を送りたい」
どこか覚悟を決めた表情で。前を見据えて———ハナサトはそう言った。
「学校はゴミだ。私たちの居場所なんてない。本当に間抜けな連中しかいない」
「そうだな。俺もそう思うよ」
「だけど十年後。こんな人生だけど、幸せだって思える日が必ず来る———気がする」
「そっか……そんな日が来ると良いね」
ハナサトの言葉に、俺は素直にそう答えた。
「……ウエハラ」
さっきとは打って変わり、声のトーンが少し下がるハナサト。
俺は「どうしたの」と聞き返す。
「一つ、私と約束をしない?」
「約束?」
俺はそう言い、ハナサトの方を見る。
「うん、約束」と言うハナサト。
「もしも十年後、お互い無事二十歳になって…………そして情けなくも、結婚するような相手がいなかったらさ……」
小さく咳ばらいをし、彼女は言う。
「その時は…………ハブられもの同士、一緒になりませんか?」
突然ハナサトの口調が変わる。彼女が恥じらっていることは、当時の俺でも分かった。
「…………なんだ、それ」
思いがけない彼女の言葉に、俺は言葉に詰まった。
ハナサトは少し困ったように眉を下げて、視線を逸らした。整った眉の動きひとつで、照れがそのまま表情に滲み出ており、柔らかな輪郭の顔は、照れによって、いつもと違った表情をしていた。
「…………なんてね、言ってみただけ。そもそも、私が結婚出来ないはずないからね」
茶化すようにそう言い、微笑むハナサト。
そいつは良かった、と俺も笑う。
まったくもって、馬鹿げた話だ。ハナサトと交わした約束ともいえない約束。
三日もたてば、忘れてしまうような、なんてことない会話。
———それから二年後、卒業の日、ハナサトは俺の前から姿を消した。
———あれから十年が過ぎた。ハナサトとは一度も会っていない。
それなのに、この何気ないやり取りが、俺の中ではずっと記憶に留まり続けていた。
「————なので、この問題を解くにはこの公式を——」
気が付くと、そこは大学の講義室だった。
黒板の前では白髪の老人が、教科書を見ながら何やらブツブツと———要するに普通の授業をしていた。
俺はいつの間にか眠っていたらしい。同じ姿勢で固まっていたせいだろう。肩が石みたいに固くなって、首を回すと、筋がぎしりと軋んだ。
「———ということで、今日の講義を終わります」
時計を見ると、授業の終わりの時間になっていた。どうやら、相当寝ていたらしい。
「———なぁ、ウエハラ。今から学食に行こうぜ」
ふと名前を呼ばれたので、顔を上げる。
話しかけてきたのは、ヒムロという名の男———俺が大学生になって、初めて知り合った人間だ。
小学校、中学校と苛められ続けて辟易した俺は、両親に無理を言って、遠くの有名私立高校を受験することを決めた。
もともと勉強は出来ていたので、なんなく受かり、苛めは無くなったものの、クラスでは孤立していた。
そしてそのまま三年間、俺は誰とも関わることなく、高校を卒業をした。
迎えた大学生活。当然、友人と呼べる友人は一人もいなかったため、俺はずっと一人だった。
それでいい。俺は過去のトラウマから、いつしか『人に期待する』ということを諦めていた。結局俺を知ろうとしてくれる人間なんて一人もいない。
期待しなければ、裏切られもしない。深く関わらなければ、傷も浅くて済む。
そうやって、感情を薄く引き伸ばしながら、どうにか人の輪の外側に立っていた。
———しかし、大学生になってすぐの頃、ある授業でグループワークの課題があった。
そこで一緒になったのが、目の前の男———ヒムロだった。
今思い返せば、最初の俺は、ヒムロに対し冷たく接しすぎていた。
当たり障りのない挨拶だけ交わして、必要以上に目を合わせない。役割分担の話も、感情を挟まず、要点だけを短く、簡潔に。
そんな俺の行動に対して、ヒムロは嫌な顔をせず、接してくれた。
それからグループワークも終わり、ヒムロとは一時期疎遠になったが、二年の冬、たまたま同じ授業でヒムロと再会した。
ヒムロは俺のことを覚えていたらしく、気さくに話しかけてきた。
最初は警戒していた俺だったが、ヒムロと接する内に、徐々にその警戒心も薄れていった。
俺は今まで、他人に心を開くことはなかった。しかし———俺は初めて『友達』と呼べる存在に会えたかもしれない、と思い始めたところだった。
「どうした? ウエハラ」
「———あぁ、悪い。ボーっとしてた」
「おう、それで学食どうする?」
そう言うヒムロ。特に断る理由も無かったので、俺は二つ返事で頷いた。
「なぁ、来週の登山の計画を立てようぜ」
いつものカレーライスを食べていると、ヒムロがそう言ってきた。
「……そうか、もうそんな日だったか」
冬の名残が色濃く残る二月上旬。大学は今週で終わりなので、ヒムロから登山しよう、と提案されていたことをすっかり忘れていた。
「なんだよ、やっぱり忘れていたか。 ……まぁいいや。それで、どうする?」
ささみフライをかじりながら、ヒムロはそう言う。
ヒムロは自分のことをアウトドアな人間だと言っていた。暇があれば、よく体を動かしているらしい。
かくいう俺も、体を動かすことは嫌いじゃない。なので、この雪山登山の提案をされた時は、特に断りもせず了承した。
俺も今年で二十になった。いつまでも過去に引きずられてないで、何か変わらなければいけないと常々思っていた。
ヒムロを友達として認め、過去の———何も変われていない自分に、さよならを言う。
そういう意味で、この登山は、俺にとって重要な出来事だった。
「朝早くに出発したいな。途中で買い物もしたいし。あとは———」
学生たちの喧騒に飲まれながら、俺とヒムロは計画を立てる。
結局、その日は長時間に及ぶ話し合いだった。ひと段落した時には、もう日の光が落ちきっている頃だった。
———しかし、この時の俺は、夢にも思わなかった。
———登山当日、俺は崖から滑り落ち、行方不明になってしまった。
地面に叩きつけられた衝撃のあと、意識はぷつりと途切れた。暗闇の中、俺の脳裏には昔の光景が胸に浮かんでいた。あれは———小学校の、卒業式前日の思い出だった。
「———ねぇ、ウエハラ。明日は卒業式だけど、どうするの?」
卒業式前日の夕暮れ時、隣で座っているハナサトはそう聞いてきた。
「どうするも、こうするも……出席するしかないでしょ」
「……」
日もすっかり沈み、夜に差し掛かろうとしている時間帯。俺たちは『秘密基地』と称している場所で、何もせず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
「君は出席しないの」
「……迷っている。どうせ行ったって、何にも変わらないし」
「確かに」
「……」
それから数分が経過した。そろそろ帰らないと、親が仕事から戻ってくる。そう言おうとした時に、今まで無言だったハナサトが、聞き取れない声量で何かを呟き始めた。
いつもと違う雰囲気を感じ、俺は「どうしたの」と聞く。
「……今日は、もう少しここにいたいな」
俯きがちに、そう言うハナサト。
「どうして?」
「もう今日で、この場所とおさらばかって思うと……なんだか悲しくて」
言われて「あぁ、なるほど」と頷く。
「まぁ、確かにここに来られることは無くなるけど、別に良いんじゃない?」
ここはハブられものが集まる場所。中学校でも俺たちの居場所はどうせ無い。何もかもが嫌になった時にまたくればいい。
「そうかもしれないけど……」
ハナサトは「でも」と返す。
「それでも帰りたくない」
なんともハナサトらしくない、感情に任せた返しだなと思った。
「母さんに怒られるかもしれないよ」
「……別に良いじゃん。一緒に悪い子になろうよ」
「バカ言うな」
しかし、この時の俺は何をとち狂ったのか、それから一時間弱、ハナサトとただひたすらに空を眺めていた。
意味もなく。理由もなく。
空の端に残っていた橙色が、徐々に紫色に溶けていった。街の影は長く伸び、灯りがポツポツと現れ始めた。
「……いつか」
春の風にかき消えそうな声で、ハナサトは言う。
「……いつか、私たちが心から幸せだと思える日が来ると良いね」
俺は今までを振り返り「そうだな」と呟く。
星が一つ瞬く。不幸だと、地獄だと思っていた日常を覆すような、そんなありもしない幸せを星に願った。
「……………………か」
暗闇の中、誰かが俺を呼んでいる。
「おい、生きているか?」
はっと目を覚まし、我に返る。
そこは、今まで見てきた綺麗な夜空と打って変わり———一面が白銀の、猛吹雪の世界だった。
「………………っ、ここは……」
「———おぉ、気が付いたか」
目の前には一人の女が立っていた。白の長袖のワンピースが猛吹雪で揺れている。
年は俺と同じぐらいだろうか。背が高く、長い黒髪が、風でなびいている。
しかし、その姿は、まるで生と死の境に立っているように妖しく、目が離せなかった。
「………………痛っ」
脳が状況整理を終えた途端、全身に猛烈な痛みが走った。
「ほれ、あまり動くでない。お前は頭を強打して、今血まみれなのだからな」
「……っ、あんたは……」
「まぁまぁ、話は後で。とりあえず近くの洞窟に避難しようかのう。 ……ほれ、立てるか?」
俺は、その見知らぬ女に手を引かれるまま、近くの洞穴に移動した。
「……ほれ、これでひとまずは安心じゃ」
「……助かった。礼を言う」
深々と頭を下げる。
「まったく……ワシがたまたま通りかかってなければ、お前は本当に死んでいたぞ。一体何があったのだ?」
こちらを訝しげに見る女。
「……あぁ、実は大学の奴と、二人で登山していたんだ」
女に貰った水を一気に飲み、そう口にする。
「……それで、落っこちてしまったと?」
「………………」
俺は無言で頷く。崖から落ちたと気づいた時には、もう遅かった。体が宙を舞い、直後に鈍い音が響き、意識が飛んでしまっていた。
どのくらいの時間、気絶していたか分からないが、あのまま、あの場所に留まり続けていたら、俺はもうこの世にいなかっただろう。
「———本当に助かった。改めてありがとう」
俺はもう一度、頭を下げる。
「気にするでない。あのまま放置して死なれでもしたら、それこそ目覚めが悪かろう」
どこから持ってきたのか、手に持っている缶コーヒーを一気飲みし、女はさも当然のことのように言う。
俺は改めて女を見る。どう見ても、雪山登山に来たと思えない服装。肩までかかった艶やかな黒髪。肌はやや白く、綺麗な瞳には、まるで全てを見透かされているような、そんな気さえする。座っている姿勢もどこか美しく、それだけで一枚の絵になるような、独特な雰囲気を醸し出していた。
「……なぁ、あんたは一体何者なんだ? 見るからに観光客じゃあるまいし」
俺は意を決してそう問いかける。すると女はこちらを見つめ、穏やかな笑みで一言。
「ワシ? ———ワシはこの世界の神様じゃ」