二度目の初恋は神様でした。   作:怪盗エンペラー

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第2話

 

 

「おいおい……冗談はよしてくれ」

 

開口一番に俺はそう愚痴る。もしもからかっているのなら、質が悪い。

 

「冗談もなにも……ワシは立派な神じゃぞ」

「これは夢か? 神なんているわけないだろ。いい歳して変なこと言わないでくれ」

「おい、ワシに向かってよくそんな口が叩けるな」

 

女の目尻が、ほんのわずかに吊り上がる。

その後、女は小さくため息を吐き、手を挙げる。

 

「そんなに信じられないのなら……ほれ、私の手をよーくみてみ」

 

そう言い、女は小さく手を開く。そして祈るように両手を合わせた瞬間、小さな緑色の花がひとつ、零れ落ちた。

 

「……っ!」

 

そこにあるはずもない、見知らぬ花の登場に、俺は思わず息を呑む。

 

「これは『ペペロミア』といってな。ワシはこの花が大好きなのじゃ」

 

女は「これで分かっただろ?」とでも言いたげな眼差しでこちらを見る。

 

「……いや、これは夢だ。俺は……もうとっくに死んでいるんだ」

「まだ言っておるのか。まったく……ほれ」

 

そう言い、女は俺の手を握る。

 細く、しんなりとした指先。ひんやりとした感触であったが、不思議と穏やかな気持ちになった。

 

「これでも、まだ夢などほざくのか?」

「いや……………………悪い。気が動転していた」

「分かればよろしい」

 

そう言い、女は手を放す。

昔、俺は「神様なんて存在しない」と吐き捨てていた。しかし、この明らかに場違いな服装。透き通るような立ち振る舞い。そして、何よりも人間が不可能とされる『魔法』を使ったこと。

どうやら、こいつは本当に神様かもしれない。

 

「……悪い、神様。疑ってしまって、申し訳ありませんでした」

 

 そう言い、三度目の頭を下げる。

 

「よい、別にそこまで怒っとらんわ。 ……それに、今更敬語で話される方が、些か気分が悪い。もっと別の呼び方は無いのか」

「別の呼び方って……あんた名前は?」

 

「名前」と聞かれて、女はキョトンとした顔をする。

 

「———そう言えば、ワシに名などなかったな……」

 

 女はそう言い、視線をわずかに落とす。

 

「……………………そうだな。ワシのことは、ヒメノと呼ぶがいい」

 

女———ヒメノはそう言い、残りのコーヒーを全て飲み干した。

 

「……おいおい、いきなりすぎるぞ。神様」

「神様じゃない、ヒメノと呼べ。ヒ、メ、ノ」

 

 そう言い、不機嫌そうにこちらを睨む女———もといヒメノ。

 

「……分かったよ。ヒメノ」

「うむ」

 

ヒメノは納得したのか、少しだけ表情が柔らかくなった。

 

「……あ、そうだ。もう一つ。はぐれたもう一人の……ヒムロって奴なんだけど、今、どこにいる?」

「ん、貴様の友人か? ……少し待っとれ」

 

そう言い、ヒメノは目を閉じる。もしかしたら千里眼みたいな力を使っているのだろうか。

 

「………………お、見えたぞ。貴様の友人は真っすぐ下山をしておるな。おそらくもう少し先の山小屋で寝泊まりし、朝方には麓に着くだろう」

「———そっか……ありがとう」

 

外は先程よりも吹雪が激しく、そして日も落ちかけている。

 

「……まぁ、なんにせよ、今日はここで待機した方が良かろう。明日の夕刻には吹雪が止む故、ワシが下山まで送ってやろう」

「そいつは助かる。頼りにしているよ」

 

 

 

 

それから眠くなるまで、俺はヒメノと雑談———もとい、ヒメノの話を俺は聞いていた。

 

彼女は生前の記憶がないらしい。最近神様になったらしいが、神というより、どちらかというと幽霊に近い存在らしく、記憶を取り戻し、生前の未練が無くなったら、勝手に成仏すると語った。

 

さらに、ヒメノは人間と話すのも初めてと言った。どうやら普通の人間には見れないらしく、生死の体験をし、死後の世界に足を踏み入れかけた者だと見えるのだと言っていた。

 

そして自分以外の神を知らないらしい。こんな表現があるのかは定かでは無いが『野良神』といった方が正しいのだろうか。

不死身の身体を手に入れ、飲まず食わずでも、決して死ぬことはないと言った。

 

「……不死身の割には、コーヒーを飲むんだな」

「別に良かろう。飲み食いしないでも良いとは言ったが、味覚はある故、美味い飲み物を飲みたいと思うのは良いだろ? ……それにご飯だと、ワシは料理が全くできない故、食べる気にはなれんのじゃ」だそうだ。

 

 

その後も、俺はヒメノと会話というものをしていた。

昔から、自分から話しかけるということは殆ど無かったというのに、何故か俺は、ついさっき知り合った、人では無い女と「話したい」と思っている。

どうしてだか分からない。しかし、俺は彼女が側にいることで、妙な安らぎを感じているのは確かだった。年齢不詳とはいえ、非常に整った顔立ちで、歳もそんなに変わらないこの女を、俺は好ましく思っているらしい。

異性に対して、こんな感情を抱いたのは初めてだった。

 

夢中で話しているうちに、俺の声は次第に小さくなり、そのまま眠りに落ちてしまった。

 

 

 

 

「……ん」

 

薄っすらと目を開ける。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。

 

「やっと起きたか。ばかもの」

 

その瞬間、頭部に少しの衝撃が走る。どうやらはたかれたらしい。

 

「……殴られて起こされたのは、生まれて初めてだ」

「そうか、初めてがワシで良かったな」

 

嫌味を言うと嫌味で返された。視線の先には、昨日会った神様———もといヒメノが、むすっとした顔で立っていた。

 

「一体いつまで寝ているんだ。もうとっくに吹雪は止んだぞ」

 

外を見ると、昨日の豪風が無かったかのように、ぽつぽつと雪が降っている。

 

「……っと、悪い。急いで下山の準備をするか」

 

荷造りをし、俺たちは洞窟の外へ出た。

 

 

 

 

「大丈夫か?」

 

昨日より幾分かマシになったとはいえ、足が思うように動かない。どうやら思っていたよりも、身体の至る所が折れているのかもしれない。

 

「まぁ……なんとかな」

「遠慮せずに言うのだぞ。なにかあってからでは遅いからな……えっと」

 

そう言って、長い黒髪を指先でいじりながら黙り込むヒメノ。

 

「どうした?」

「えっと……今更で悪いのだが、ワシはお前の名を知らぬぞ」

 

言われて、俺は思わず笑ってしまった。

 

「そういえばまだ名乗ってなかったな。 ……俺はウエハラだ。よろしく」

「おぉ、お前の名はウエハラか。 ……なんかしっくりくるぞ」

「よせよ」

 

今更ながらの自己紹介をする。普段の俺ならこんなこと忘れたりしないのに……この女といると、どうしてもペースが狂う。

 

「そうか、ウエハラという名か。 ……しかし、こうしてみるとなんだか少し寂しいな」

「ん? どうしてだ」

 

そう問いかけると、ヒメノは眉を寄せ、どこか不機嫌そうにこちらを見る。

 

「昨日言っただろう。お前はこの山を降りると、ワシの事が見えなくなると。 ……なんじゃ、お前はちっとも寂しくないのか?」

「あぁ、そういえばそうだったな。 ……まぁ、良い退屈しのぎだったよ」

 

冗談めかしてそう言う。

 

 関わった時間は、ほんのわずかだったのに、少しばかりの寂寥感を覚える。

いつかもう一度会いたい、そう伝えようと思ったが、やめた。

これは神様がくれた奇跡。奇跡は二度も起きないからこそ、奇跡なのだ。

 

「お前……昨日の約束を忘れたわけじゃあるまいな」

「もちろん覚えているよ。『ここで会ったことは誰にも話しちゃいけない』だろ?」

「忘れていないのなら良し。お前が誰かに話した時、ワシが化けて出てくるからな」

「ははっ、それも悪くないかもな」

 

お互いに軽口を交わす。この魔法の時間もそろそろ終わりか。

俺は改めてヒメノを見る。昨日と変わらない服装。そして、神だと知ってしまったからなのか、他の人よりも、どこか神秘的に見えた。

ポツポツと舞っていた雪が、次第に勢いを増してきた。

 

ヒメノは俺の手を握り、一歩一歩慎重に歩かせてくれた。俺も無理せず、休みを入れながら、山を下っていった。

 

 

 

 

そして歩くこと数十分。視界の先には無数の赤いランプが見えた。どうやら無事入口付近に到着したらしい。

 

「———やっと着いたよ。ありがとうヒメノ。お前のおかげで……」

 

そう言いながら隣を見る———が、さっきまで隣にいたはずのヒメノの姿が、いつの間にか消えていた。

 

 

「おーい!」

 

誰かが遠くから呼んでいる。振り返ると、四十代半ばと思われる警察官が二人、こちらに向かっていた。

 

「君、もしかしてウエハラ———くん?」

 

本名でそう呼ばれる。どうやらヒムロが警察に連絡してくれたらしい。

 

「……はい、ウエハラです」

そう答えると、警官の片方は安堵した表情をし、もう片方は、険しい表情で、腰に携帯していた無線機を取り出していた。

 

「いやねぇ、先程ご友人の……ヒムロ———さんから通報を受けて、たった今到着したところなのですよ」

「はぁ」

 

視界の先からもう三人———おそらく救急隊員と思われる人たちが、こっちに向かってきている。

 

「まぁ、なんにせよ無事で本当に良かった。一応今から救急搬送するから、それまで……」

「あ、その前に良いですか?」

 

警察官の言葉を無理やり遮り、俺は意を決して言葉を発する。

 

 

 

 

「俺——————ヒムロに崖から突き落とされました」

 

 

 

 

 あの後、俺は警察と共に、ヒムロがいる小屋へと向かった。

 扉を開け、ヒムロと目が合った瞬間、その顔から血の気が引いていくのが見て取れた。

 

 俺はもう一度指さし、「こいつに落とされた」という旨を伝えた。

 まさか生きているなんて思いもしなかったのだろう。ヒムロは反論できず、ただ茫然としていたのが目に映った。

 

結局俺は、身体の至る所を怪我していたらしく、全治二ヶ月の病院生活を送る羽目になった。

 二ヶ月間、俺はずっと病室にいた。治療と検査を受け、食事をして、眠る。退院の日まで、そのサイクルをずっと回し続けた。

 

 

 

 

「———やっと外に出られた」

 

俺は一人でそう愚痴りながら、病院の玄関を開ける。

生暖かい風が吹き、桜の花びらがハラハラと舞う。花びらは歩道に積もり、靴の裏で静かに潰れていく。

鬱陶しいほどの春の光に目を細めながら、俺は帰路に着いた。

 

歩きながら、俺は事故のことを思い返していた。

 俺が初めて『友達になれるかもしれない』と思ってしまった男———ヒムロ。

 結局、俺は人を見る目が無かったのだ。「この人は安全だ」「この人は裏切らない」全部全部、俺の都合のいい妄想だった。

 歩くたびに、靴底が地面を叩く音がする。その規則正しさに、考えを預けるようにして、俺は思った。

 

人間は信じるに値しない。近づけば、必ず何かを奪っていく。

あの出来事以来、他人の言葉はすべて、薄い膜越しに聞こえるようになった。俺を励まそうとしてくれた担当の看護師も。俺に事故の状況を聞こうとした警察の男も。

 

距離を取っていれば、傷つかずに済む。それだけが、確かな事実として残った。

 ヒムロのことについては、もうこれ以上考えないようにした。奴がどこで何をしようと、もう俺には関係のないことだった。

 

 

 

 

道沿いの桜は満開には少し早く、枝先に淡い色を残したまま、風に小さく揺れている。

 

 入院中、俺には一つ……いや二つか。退院したらやりたいことがあったのを思い出していた。

一つ目は———ハナサトに会うことだ。死ぬ間際、俺はハナサトとのくだらない思い出の数々を思い出していた。

中学に上がる前に、ハナサトは両親の都合で引っ越しており、それっきり会っていない。

しかし中二の夏ぐらいに、ハナサトから一通の手紙と、昔、ハナサトが身に着けていたウサギの髪留めが届いていたのを思い出した。

 

内容はあまり覚えていないが、「元気にしていますか? また会える日を楽しみにしています」みたいな、当たり障りのない内容だった気がする。

ただ一つ、その手紙の裏には住所らしきものが書いてあった。捨ててはいないはずだから、実家に戻ればあるかもしれない。

 

 そしてもう一つ。自分を神だと名乗った年齢不詳の女———ヒメノ。

 俺は初めてヒメノを見たあの日から、彼女の笑った顔が、脳裏に焼き付いていた。

屈託がなく、少し眩しいあの時の表情は、時間が経った今でも色褪せていなかった。

 

もう二度と、会うことは叶わないはずなのに、記憶の中の彼女は、今もこちらを向いている。

楽しそうに話し、何気ないことで笑っていたヒメノ。その明るさは、絶望に叩き落されていたあの時の自分を———救ってくれた。

 もし———叶うんだとしたら、彼女に恩返しをしたい。

 俺がこうして生き延びたのは、紛れもなくヒメノのおかげだと、もう一度彼女に伝えたい。

 

 どうしたものか。そう考えていた矢先、視界の先には見知らぬ駄菓子屋があった。

 

 その近くのベンチに、一人の女が座っていた。薄色のジーンズに、ゆったりとした白いシャツ。春の光を柔らかく受け止める、ベージュのハット。

 

「…………」

 

 俺は無言になりながら、その女を見る。

似ている、と思う。

それだけのはずなのに、目が離れない。気づけば、じっと見ていた。女が缶を傾け、持っていた缶コーヒーを一口飲む。

そして、こちらを見る。目が合う。

 

「———あ」

 

 できすぎた話だと、人はいうだろう。

 しかし、物事は本人も気付かないところで、こういったイレギュラーな形で繋がっているものだ。

 目の前の女———ヒメノは啞然とした顔でこちらを見ていた。

 

 

 

 

 ———ヒメノがいた。

 一言で表すと、それだけなのだが、あまりにも唐突すぎて、俺もヒメノも、互いに互いを見つめ合っているという奇妙な構図になっていた。

 

「……まさか、こんなところにいるとは———ヒメノ」

 

 ほんの一瞬の静寂を破り、俺は神様———もといヒメノにそう声をかける。

 ヒメノはその声の行き先を探すように周囲を見回す。誰にも見られていないことを悟ると、戸惑った笑みを浮かべ、そっと自分を指さした。

 

「……もしかして、私?」と言いたげに。

 

 俺は何も言わず、ただ一度、こくりと頷いた。

 次の瞬間、ヒメノは固まった。

 

「……えっ」

 

 一拍。

 

「———えっ⁉」

 

 二拍。

 

「————っ、ちょ、待て待て待て待て待て!」

 

 テンパっているのか、声が裏替えっており、若干悲鳴に近い声を出している。

 ヒメノは、ばたばたと両手を振り、きょろきょろと周囲を見回す。誰もいない。通行人も、犬も、鳩も、誰一人こちらを見ていない。

 そして、ヒメノは一度大きく息を吸い、ゆっくりと吐いた。どうやら落ち着きを取り戻そうとしたらしい。

 

 その後、もう一度深呼吸をしたヒメノは、じっと俺の方を見てきた。

 訝しげに俺の顔を見た途端、「あっ」と驚きの声をあげる。

 

「———お前、以前山で落っこちた……」

 

 その言葉を聞き、俺は小さく頷いた。

 

「あぁ、ウエハラだ。まさかこんなところにいるとは思わなかった———ヒメノ」

「…………い、いやいやいや、そうじゃなくて! お、お前ワシが見えているのか?」

「あぁ、ばっちりと」

 

改めてヒメノを見る。以前の艶やかな髪は後ろに束ねており、カジュアルな格好のせいか、どこからどう見ても普通の女性であった。

 

「……そ、そうか………………まぁ良い。しかし、よくワシがあの時の神だと分かったな」

「———まぁ、顔や姿格好は変わっていないからな。もしかしたらと思ったんだ」

 

そう言うと、ヒメノは帽子のツバを指先で抑えたまま、視線を逸らす。

 

「……お、おう。やはりワシの美しさは隠しきれぬのか」

「いや、強いて言うものではないよ」

「………………む、今からでもあの山にお前を放り投げようか」

「それは勘弁してくれ」

 

俺は、苦笑交じりに笑う。

 

「……それにしても、そっちもよく俺だと分かったな」

「阿呆か。お前のような人間、そう易々忘れてたまるか」

 

若干不機嫌のヒメノはそう言い、空になったコーヒーを見つめている。

 

———ヒメノとの突然の再会。これも神様のいたずらというものなのか。

 何はともあれ、この好機を見逃すわけにはいかなかった。俺は心の奥底に秘めていた言葉を口にする。

 

「……俺は、あの時の恩を十分に返せないことを気に病んでいた。大学も辞めて、今は自由の身なんだ」

 

そう言い、俺は近くの自販機で売っていた缶コーヒーを買う。

 

「金もそれなりにある。コーヒーぐらい何十本も買ってやれるし、ヒメノの好きなことを俺にできる範囲であれば叶えてやれる。 ……俺に恩返しの機会をくれないか?」

 

 ヒメノを正面に見据え、俺はそう言った。

 ヒメノは一瞬、目をパチクリさせたが、ためらうように視線を落とした。

 

「……別にこれを何十も要らないが、確かに一人も飽きてきたのう。 ………………お前、料理は出来るか?」

 

 料理? 唐突の言葉に、思わず疑問符を浮かべた。

 

「まぁ、それなりにはできると思うが……」

 

 その一言が決定打となったのか、ヒメノの顔がぱぁっと明るくなった。

 

「なら、是非ワシに手料理を振舞ってほしい! 色々なものを食べてみたいと思っていたんじゃ」

 

 その気軽な返事に、俺は思わず笑った。

 

「———そのくらい、お安い御用だ」

 

 こうして、俺は———俺たちは再び帰路に着いた。

 

 

 

 

 河川敷を歩く。川沿いの桜が宙を舞い、遠くでは子供たちの笑い声が響いている。

 

「……そういえば、以前も食事はしたことがないと言っていたが、神なら料理ぐらい魔法で何とか出来るんじゃないか?」

 

 ふと気になった疑問を投げかける。

 予想外の質問だったのか、ヒメノは一瞬怪訝そうな表情を浮かべた。

 

「……お前、神様をなんだと思っておるのじゃ。ワシは花を出す魔法とか、人を見つける力ぐらいしか使えん」

「ぺペロミア、だっけ。なんであの花だったの」

 

入院中、その花の事が気になり、調べたことがあった。

 どうやら亜熱帯地域に生息しており、白、緑、黄色など様々な色があったのを覚えている。

 

「分からん、ワシは前世の記憶がないのだが、唯一、あの花のことは覚えておった」

「……なるほど。前世では、その花のことが大好きだったのかもな」

「おそらく」

 

 記憶がほとんどないのか、何とも曖昧な返答だった。

 前も聞いてはいたが、ヒメノは生きていた頃の記憶がほとんどないらしい。

 自分が誰で、どこで育ったのか。家族は。友人は。何故死んでしまったのか。

 きっと不安で仕方ないはずだ。それなのに、こうして明るく、初めて会った時と同じように俺のことを扱ってくれる。

 いつか、ヒメノの記憶を戻す手伝いをしたいと思った。それが今思いつける、俺なりの恩返しだからだ。

 

「……それにしても、以前、ワシの顔が白いとか何とか言っていたが、お前もあまり顔色が優れておらんぞ。ちゃんと生活できておるのか?」

 

 沈黙に耐えられなかったのか、話題を変え、そう問いかけてくるヒメノ。

 

「今日まで病院飯だったからな。体調が悪くなるのも無理はない」

 

 そう自嘲気味に言ったが、ヒメノはあまり納得していない様子だった。

 まるで俺の本心が別にあるという眼差し。

 何か適当なことでも言って、この場を切り抜けようと思った———が、何も思いつけなかった。

 

「………………重めの人間不信かもしれないな」

 

 沈黙に耐えかねて、喉の奥につっかえていた言葉を吐き出した。

 

「中学まではいじめられ、高校になって遠くに引っ越したが、結局何も出来ず。大学生になって、唯一できた友達には殺されそうになった。 ……全く、笑っちゃうよな」

 

 俺は不幸だ、全員死んでしまえ。呪いのように何度も吐いていた。

 結局、他人なんて信頼するだけ無駄だと、改めて認識させられた。

 

「……それはすまなかった」

「なんでヒメノが謝るんだよ」

 

 冗談めかしてそう言ったが、「……それもそうじゃな」とヒメノは言い、帽子を深く下げ、押し黙ってしまった。

 

「……ただ、そんな赤字まみれの人生だったが、つい最近、この借金を帳消し……むしろ黒字になるような出来事が起こった」

 

 場を和ませるため、俺は遠くの川を見つめながらそう言う。

 俺は今の今まで、自分ほど不幸な人間は存在しないと決めつけていた。

今まで、自分が決めつけていたものは何もかも正しく、覆せるような根拠や、出来事に直面したことは一度もなかった。

 

『神様なんて存在しない』

 

 幼い頃に、そう結論付けていたこれもそうだった。

 ———しかし、突如俺の前に現れた神様———ヒメノ。

 あの瞬間、俺は初めて自分自身の解答に、バツがついた。

 何かが変わった瞬間だった。この唐突な再開も———神様のいたずらなのかもしれない。

 

「……ウエハラ」

 

ヒメノの視線が微かに上がる。その微かな変化だけで、驚きと戸惑いが見て取れた。

 何か言いたそうにしているヒメノ。重たい話の余韻が、まだ俺たちの間に残っていた。

俺は何か言おうとして———しかし、結局言葉を見つけられず、視線を前に戻す、その時だった。

 

「———っ!」

 

 思わず、歩道のわずかな段差につまずき、体が前に流れる。

大げさに転ぶほどではないが、思わず腕を振ってバランスを取るという情けない動きになってしまった。

 

「———ちょっ、ウエハラ」

 

 ヒメノが声を上げた次の瞬間、状況を理解したのか、目を見開いたまま一拍置いて———噴き出した。

 

「…………ふふ、なんじゃ、今のは」

 

 耐えきれなかったヒメノの笑いが、春の空に弾く。

 

「……笑うなよ」

 

 思わずぶっきらぼうに返す。

さっきまでの重い空気が、ヒメノの笑い声で消え失せ、俺は思いの外、羞恥心で落ち着いていられなかった。

 

「すまんすまん。しかし、今のウエハラは結構面白かったぞい」

 

ヒメノは肩を揺らしながら、涙が出るほどではないが、可笑しそうに笑い続ける。その様子を見ていると、俺の方も力が抜けていった。

 

「次は気を付けるんじゃぞ」

 

 そう言い、ヒメノは歩き出す。

 

「……まったく」

 

 一人そう愚痴り、俺もヒメノの後に続く。

 それに応えるかのように、小鳥のさえずりが、春の空気に包まれてどこからともなく響いていた。

 

 

 

 

「———して、ワシに振舞う初のメニューはなんじゃ?」

 

 あれから数十分後、俺とヒメノは近所のスーパーに到着していた。

 

「そうだな、今のところはすき焼きにでもしようと思うんだが」

「すき焼き!」

 

 声まで弾むような、明るい口調でヒメノはそう言う。

 ゆっくりと店内を回って、目当ての商品を探す。

ビールの六缶パックと長ネギ、豆腐や白菜等を、買い物かごに入れる。

 そして次に肉売り場に着いた。冷たいショーケース越しに鮮やかな赤が並んでいる。

 ヒメノは迷うように視線を動かし、一つ一つのパックを見比べている。

 

 それにしても……これじゃあまるで、同居中の恋人同士が二人で買い物をしているみたいだな、と俺はひそかに思った。それは実に馬鹿げた———けれども幸せな錯覚だった。

 

 正確には、ヒメノの存在は他者から見えていないのだが、女性と二人でスーパーで買い物をしているというのは、思いの外楽しかった。

 

「……そういえば」

 

 ふと気になったので、俺はヒメノに問いかける。

 

「なんじゃ?」と、片手にパックを持ちながら、そう言うヒメノ。

 

「前に、ヒメノの姿は他者から見えないと言っていたが、飲んでいる缶コーヒーやその手に持っている肉。その他諸々、他の人にはどう見えているんだ?」

 

 ヒメノの姿は俺しか見えていない。この手にしているパックは宙にでも浮いているのだろうか。

行きかう人々が、たまにこちらを訝しげに見てくる。もしかしたらそれが原因なのだろうか。もっと驚きがあってもいいのにと、俺は思った。

 

「なんじゃ、そんなことか。他の奴らからはワシの全てが見えておらんぞ」

「というと?」

「ワシの姿、声、音、匂い、触れた物から何もかも。他の奴らからは、元々存在していなかった物と認識されるそうなのじゃ」

 

「あぁ、なるほど」と俺は納得した。

 

 つまり、ヒメノが触れた物や、傷をつけた物などは、他者の記憶に『無かったもの』もしくは『存在していたもの』として知覚されるらしい。

 当然、ヒメノがその肉を俺の買い物かごに入れ、手を離した瞬間、他者からは『あるもの』として認識される。

 

 では、何故周りの客は、俺を気味悪そうに見ているのか———それは、俺が「独り言をブツブツ言っているやばいヤツ」と思われているからだろう。

 ヒメノは「全て見えなくなる」と言ったが、例外はあるらしい。それは———人間だ。

 

 試しにヒメノの肩に手を置いて喋ってみたが、視線が止むことは無かった。おそらく人間にはこの効力は無いらしい。

 しかし、だからといってヒメノとの会話を止める気はさらさら無かった。

 理由は単純。俺を介して、『ヒメノ』という神様の存在を、間接的に知ってくれているからだ。

 姿が見えない女と、共にいるという今のこの状況は、俺にとって思いの外心地よかった。

 

「……ウエハラ、ワシはこの肉を食いたいぞ」

 

 などと物思いに耽っていると、横からヒメノの声がした。手にしているのは国産牛の五百グラムパック。

 

「ん? あぁ、それで良いよ」

 

 そう言い、ヒメノの持っていた牛肉パックを受け取り、買い物かごに入れた。

 

 

 最後に調味料コーナに寄った。今まで一人で生活していたため、まともな調味料が家になかったからだ。

 砂糖、みりん、醤油……と、かごの中に入れていくたびに重みが増す。これから過ごす夜が少しずつ形になっていくと思うと、なんだか嬉しかった。

 

「ウエハラ、早く早く」

 

 スーパーで買い物をしている間、ヒメノはずっと上機嫌だった。

 

「そんなに急がなくても、すき焼きは逃げないぞ」

 

 その姿が愛おしく、思わずからかう。

 

「そんなこと、分かっておるわ」と言いながらも、さらにヒメノの足取りは弾む。

 

 その俺たちの行動を、すれ違った見知らぬ老夫婦が、気味の悪い目で見てくる。他の人から見れば、俺が独り言を言っているように見えるのだろう。

 

 しかし、俺はこの視線を不快だとは思わなかった。寧ろもっと見られたい気さえした。

 人並みに、人恋しかった。今まで感じたことのない感情に自分自身でも驚く。

 

 楽し気に騒いでいる連中を見てきても「一体何がそんなに楽しいのだろう」くらいの感想しか抱かなかった俺が。

 何気ない幸せ。人では無い人に、そういう感情を持ってしまい、俺は思わず苦笑した。

 

 

 

 

 スーパーを出た後、俺とヒメノはまっすぐ帰路に着いた。

そして、自宅であるアパートのドアを開ける。

 

「……お邪魔します」

 

 少しぎこちないヒメノと共に、玄関に上がる。

 

「早速作ろうかな」

 

 買ってきた食材を台所に置き、そう言う。

 

「おぉ、もう作るのかの?」

「あぁ。 ……待っているのもなんだし、先に風呂でも入ってきたらどうだ? ……いや、神様って風呂とか入るのか?」

 

 そう言うと、微かにヒメノの眉が寄る。

 

「神様をなんだと思っているのじゃ。不死なだけで、人間とそう変わらんぞ」

「そうなのか」

「まったく……今日はすき焼きに免じて許してやろう」

「そうか、それは助かる」

 

 そう言い、買ってきたネギを取り出す。

そして、ネギをまな板の上に置き、包丁で丁寧にさばく。

 

「……ワシも何か手伝えることはあるか?」

 

 ヒメノは落ち着かない様子で指先をいじりながら、そわそわと周囲を見回していた。

 

「そうだな……そこにガスコンロがあるから、水を入れて火をつけてくれる?」

 

 待たせっぱなしにするのも申し訳なく思ったので、簡単な作業をヒメノに任す。

 

「了解なのじゃ。そこのガスコンロで良いかの?」

 

 そう言い、ヒメノは食器棚の方に移動した。

 豆腐のパックを開け、手に持ち、包丁でさばいている時に、お湯はりの終了を告げるアナウンスが鳴った。

 

「先入っていて良いよ。ヒメノ」

「ありがとう、ウエハラ………………覗くなよ」

「馬鹿か。覗かないよ」

「それもそうか」と笑いながら、ヒメノは浴室の方へと消えた。

 

 

 ガスコンロの火を保温にし、鍋の中に砂糖を落とし、醤油とみりんを加えていると、浴室からシャワーの音が漏れ出ていた。

 知り合ったばかりの女の子が、自分の家でシャワーを浴びている、と思うと妙な気分になったが、それ以上は何も考えないようにした。

 

 

 たっぷり煮込み、後は具材を入れたら終わりという所で、すき焼きとは違う、甘い香りが室内に漂う。

 

「上がったぞ」

 

 浴室から出たヒメノの髪はまだ湿っており、湯上りの影響でほんのりと頬が赤かった。

 

「おかえり。もう準備できているよ」

 

「本当か!」と言い、向かい側に座る。

 先程スーパーで買った肉を、何枚か広げて鍋に入れる。

 薄く、透けるような赤が、じわっと色を変えながら染まっていく。

 ヒメノが肉を箸で返すと、甘じょっぱい匂いが部屋いっぱいに広がった。

 そして最後にネギを入れる。白い部分がじゅっと泡立ち、甘みがジワリと染み出す。

 

「……ウエハラ。ワシは酒が飲みたいぞ」

「あぁ、そこにあるから二本持ってきてくれる?」

「うむ」

 

 そう言い、キンキンに冷えたビールを手にして、ヒメノは元の席に座った。

 

 

 

 

「よし、頃合いかな。食べよう」

「ウエハラ、乾杯しようぞ」

 

 俺は頷き、缶ビールを開ける。ぶしゅっと軽い音と共に泡が立ち、涼やかな匂いが立ち上る。

 

「では……乾杯!」

 

俺も「乾杯」と返し、ヒメノのグラスとぶつかる。

そして、全体の三割ほどを一気に飲んだ。久しぶりの酒ではあったが、存外に美味しく、悪くないな、と心の中で呟いた。

 

「……ぷはぁ、やっぱり酒は美味しいのう!」

 

 ヒメノはそう言い、ぐびぐびと飲んでいる。

 箸を伸ばし、柔らかく火が通った肉をそっとすくい上げる。

 とろりと溶けそうなその一枚を、溶き卵に膨らませ、一気に頬張る。

 甘い脂が、口の中で程よく広がり、味覚をこれでもかと刺激する。

 

「うまいか?」

「うん……めっちゃ美味しいこれ。ヒメノも食べなよ」

「当り前じゃ」

 

 そう言い、ヒメノも溶き卵に溶かせた肉を頬張る。

 

「……っ!」

 

 声にならない声をあげ、見たことない程に、とろけた表情をしていた。

 

「どうだ、最高だろ」

「ウエハラ、ワシはこんな料理を知らんぞ。最高じゃ」

 

 そう言うヒメノに、俺は恩返しができて良かったと、率直に思った。

誰かと食べる料理がこんなにも楽しいなんて知らなかった。俺の両親はいつも働いていたので、夜ご飯はいつも一人だった。昔はハナサトと食べる機会もあったが、それでもこのような感情になったことはなかった。

 

「おい、ウエハラ。その肉はワシのじゃ」

「なんでだよ。お前もう三枚食べてるだろ。こっちはまだ二枚目」

「……そんなこと関係ない」

 

 なんて神様だ。

 

「……まったく。いつか罰が当たっても知らないぞ」と言いながら肉を食らう。

 

 鍋の中の具材が少しずつ減っていくたびに、この幸せが終わってしまうのじゃないかという錯覚を抱く。

『奇跡は二度も起こらない』何時ぞやの言葉が蘇る。それでも、この時間がもっと続きますようにと、神様じゃない神様に祈った。

 

 

 

 

 具材はあっという間に無くなり、そこには空の鍋だけがあった。

「なんと素晴らしい料理か。美味しかったぞい」

 

 見るまでもなくご満悦なヒメノはそう言う。

 

「良かったよ。俺も美味しかった」

 

 そう言い、鍋を台所に運ぶ。ヒメノは、お笑いのテレビを見ながら酒を飲んでいる。

 

「ウエハラ。日本の酒は存外に美味いのう」

 

 そう言い、こちらを見るヒメノの頬はほんのり赤く染まり、目元が緩んでいた。

 

「飲みすぎだぞ」

 

 リビングに戻りながらそう言うと、ヒメノは、スーパーで買ってきた酒にとどまらず、冷蔵庫に置いていた酒も粗方飲み始めた。

 

「ビールも美味しいが、日本酒はもっと美味しいのう。特にこの東洋美人が一番ぞ」

 

 テーブルに肘をつきながら、色々な酒の感想を語っている。

 

 

 その後、俺はつまみを食べながら、テレビを見ていると「ウエハラ~」と、どことなく語尾が柔らかくなったヒメノが、とろんとした顔で俺の名前を呼んできた。

 

「……なぁ、ずっと入院していて、溜まっておるのであろう? ……良ければ、ワシが夜の相手もしてやるぞ?」

 

 胸元のボタンを一つだけ外し、そう誘惑してくる。

 

「………………神様の貞操観念はどうなっているんだ」

 

 俺は呆れてため息を吐く。

 ヒメノと違い、俺はあまり酒を飲まなかったので、冷静な判断が出来ている。

 

「———今の俺は死人も同然だ。 ……それに、俺はヒメノの相手をしてやれるような男じゃないよ」

 

 ヒメノは酔っている。目が覚めて、取り返しのつかないことになってしまっては、俺はヒメノに本当の意味で恩返しができない。それだけは避けねばならなかった。

 

「なんじゃ、つれないのう」

 

 髪を指に巻き付け、ヒメノの表情がほんのわずかに曇る。

 仕方なく、俺は「ちょっとまって」と言い、食器棚にあったカップラーメンを取り出し、ヒメノに見せた。

 

「だけど、今寝るのも勿体ないから……どうせなら二次会といこうか」

 

 しゅんと肩を落としていたヒメノだったが、その言葉を聞いた瞬間、ぱっと顔が明るくなった。

テレビを切り替え、寝るまで俺は水を、ヒメノは酒を飲み続けた。

 

「今のシーンは中々に面白いぞ」

 

 テレビの音と、ヒメノの笑い声を交互に聞き、麵をすする。

 

 

 結局意識が飛んだのは、外が明るくなってからであった。

 

 

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