二度目の初恋は神様でした。   作:怪盗エンペラー

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第3話

深い眠りの底で、意識の片隅から、懐かしい声がかすかに響き始めた。

その声に呼ばれるように、ぼんやりした景色が少しずつ鮮明に映り、忘れていたはずの記憶がそっと開き始めた。

 

 

 

 

「……ねぇ、ウエハラ」

 

 小学校の卒業式の日。俺たちは少し学校から離れた河川敷で、時間をつぶしていた。理由は簡単。両親に、サボったことがバレないようにするためだ。

 

「お母さんに、卒業式出席しなかったこと、ばれないかな」

 

 どこか不安そうにそう呟くハナサト。

 

「一応朝のホームルームは受けたんだ。最後まであいつらと一緒に居てたまるか」

 

 切り刻まれた筆箱を川に投げ捨て、そう愚痴る。

 

「それもそうね」と、どこか自嘲気味に笑うハナサト。

そしてハナサトは、何か言いたそうに唇を開きかけたが、結局そのまま閉じた。

 

ここ最近感じていた、ちょっとした違和感。何か大事なことを俺に伝えたい、そんな表情であることは手に取るように分かった。

 

 

「……あのさ、ウエハラ」

 

 どのくらい時間が経ったのだろう、もしかしたら一瞬かもしれない。意を決したかのように、ハナサトの口が開いた。

 心地良い風が吹き、桜の花びらがハラハラと舞う。

 

「……………………私ね、来週引っ越すんだ」

 そう言い、ハナサトは肩をすくめるようにして、そっと頭を下げた。前髪の隙間から覗く透んだ目は、不安げで、どこか頼りなかった。

 

「————え」

 

 ハナサトの思いがけない言葉に、俺は言葉を失った。

 

「ごめんね、ウエハラにはもっと早く伝えるべきだったんだけど……どうしても言い出せなくて」

 

 そう言い、どこで摘んできたのか、見たことない緑の花を手のひらにのせ、差し出してくる。まるで、これで最後とでも言うように。

 

 

 ———その日、俺たちは小学校を卒業したが、俺の心は、いつまでもあの頃に残されたままだった。

 

 

 今にして思えば、俺の人生にハナサトの存在は、当たり前のことだと思っていたかもしれない。

唯一心を許せる存在、同類。

 心のどこかで、ハナサトはずっと俺の隣にいると思い込んでいた。

 なんとも思い上がりも甚だしい。それから彼女は、一度も顔を見せたことは無かったというのに。

 

 

 

 

 目が覚めると、見知った天井があった。どうやらあのまま眠っていたらしい。

 

 机の上には、空になった酒や、袋の残骸が散らばっていた。

 ———しかし、どこを見渡してもヒメノの姿は無かった。

 いつも通りの日常。それなのに、心はどうしようもなく切なかった。

 似たような思いを前にもしたことがある。しかし、前回と比べて、俺の心はどこかスッキリしていた。

 

 昨日の出来事は、神様の奇跡だったのだろう。いい夢が見られた、と心から思った。

 

 

 昼飯も食べず、意味もなくスマホをいじり、日中を家で過ごした。

 

 

 お腹が空き、夕飯はどうしようと考えていた矢先に、いつもとは違う変化が起きた。

 

それは、間もなく夜中になろうという時間帯だった。

 ピンポーンと、あまり聞きなれないドアのインターフォンが鳴る。

 こんな時間に宅配か? そう思い、玄関に向かう。

 ドアを開ける。そして真っ先に、俺の視界に映ったのは、長い黒髪と綺麗な瞳が特徴的な女だった。

 

 

「来たぞー、ウエハラ」

 

 そこには、今さっきまで共に過ごしていた女———ヒメノの姿があった。

 

 

「お邪魔します」

 

 そう丁寧に言い、ヒメノは中に入る。

 

「まったく……急にいなくなるから心配したよ」

 

 今日のヒメノは、大きめのスウェットを羽織っていた。肌白さは相変わらず、透き通るような瞳に、美しい黒髪が彼女をより際立たせている。

 

「すまんすまん、日中はどうにも忙しい故、中々顔を出せんのじゃ」

「それならそうと言ってくれ」

 

 そう言い、玄関の鍵を閉める。

 

「それはそうと、今日は少し寒かったぞ……とびっきりのご馳走を期待しているぞ」

「食べる気満々かよ」

 

 俺はそう言い、フライパンを取り出す。昨日の肉が余っていたので、焼肉にでもしようと思ったからだ。

 

「……ウエハラ、今日も酒を飲もうぞ」

 

 冷蔵庫から取り出したビールを片手に微笑むヒメノを見て、俺は「しょうがないな」と笑って返した。

 

 

 その日から、ヒメノは毎晩家に来るようになった。

 時にはテレビゲームをしたり、町中を散歩したりした。道行く人が俺を訝しげに見ていたが、全く気にすることはなかった。

 いつの間にか、ヒメノの存在が当たり前となっていた。あの時と同じ、俺の脳はいつも都合の良いハッピーエンドを求めていたし、この時間がいつまでも続くものだと思いあがっていた。

 

 

 ——————もうすぐ物語は、終わりを告げるというのに。

 

 

 

 

「……水族館じゃと?」

「あぁ、明日からオープンするらしいんだ。一緒に行かないか?」

 

 ある日の夜。いつも通りリビングでくつろいでいるヒメノに、俺はそう言い、チケットを見せる。

 

 きっかけは先週のことだった。買い出しを終えて家に帰って来た時に、一枚の封筒が入っていた。どうやら近くで新しい水族館ができたらしい。それを記念してなのか、初日だけ無料とのこと。

 

 普段は見もせずにゴミ箱に捨てるのだが、何故か俺はヒメノと見に行きたいと思った。

 

「……水族館か。せっかくなら行ってみたいのう」

「そうか。俺としてはありがたいけど……良いのか? 昼は何かしているんじゃないか?」

 

「昼」と聞かれてポカンと首をかしげるヒメノ。

 

「……日中は特になんもしとらんぞ? ぶらぶら歩きまわっとるぐらいじゃ」

「そうなのか。俺はてっきり、神様としての仕事をしているのだと」

「まぁ、一人の時間もワシは好きじゃからな。それに、ずっとこの家にいるのも申し訳ないからのう」

「別に気にしなくてもいいのに」

 

 どうやら、ヒメノなりに俺のことを気遣ってくれていたらしい。

 

「———まぁそれはさておき、明日の水族館は楽しみじゃのう。朝一で行くのか?」

「あぁ。だから今日は酒飲むの禁止な」

「……しょうがないのう。その分、明日はワシを楽しませてくれよ?」

 

 口元がわずかに緩んだヒメノはそう言う。

 俺は「なんだそれ」と言いながら、明日の支度を始めた。

 

 

 

 

「おぉ~ここが例の水族館か」

 

 自宅から歩いて数分。白と青を基調にした新築の水族館が、遠くからでも目立っていた。

入口の前では、家族連れやカップルが写真を撮っていて、休日らしいざわめきが広がっている。

 

「なぁ、なぁ。ワシらも写真を撮ろうぞ」

「もう? まだ中入ってないけど」

「外観も大事じゃろ」

 

 そう言い、ヒメノは建物の背景に立って、適当に手を振る。

 

「ほれ、はよう撮って」

「まったく……動くなよ」

「動かん動かん」

 

スマホを取り、ヒメノに向けてシャッターを切る。しかし、シャッターを切った瞬間、ヒメノは変な顔をしていた。

 

「…………今の絶対ブレたじゃろ?」

「…………ブレてない。たぶん」

「信用ならんのう」

 

 少し不機嫌そうなヒメノだったが、今度はスマホを押しつけるように渡してくる。

 

「……じゃあ、今度はウエハラも一緒に」

「えっ、俺も?」

「当り前じゃろ」

 

 仕方なく、俺はヒメノと並んで立つ。

 

「笑っておるか? ウエハラ」

「笑ってる」

 

 そう言った途端、カウントもなしにシャッターが切られた。

 

「……ちょっとまって。今の絶対変な顔だった」

「それがいいんじゃろ」

 

 画面を覗き込むと、二人とも少しだけ変な顔で写っていた。

 でも———何故か俺は、悪くないなと思ってしまった。

 理由はうまく言葉にできなかった。ただ、消してしまうのは惜しい、そう直感的に思った。

 

ヒメノが入口の方へ歩き出すのを待って、指先をそっと動かす。

画面に表示された小さな『保存』の文字を、音を立てないように押した。

 

 

 

 

 入り口をくぐった瞬間、館内の暗さに、俺たちは目を細めた。

 

「思ったより暗くないかの?」

 

 そう言うヒメノ。

 

「……水族館って、大体こんな感じじゃない? ほら、夜行性に優しいし」

「ほう、物知りじゃの。ウエハラ」

「今考えたけどな」

 

 そう言い、俺たちは館内を進む。

右手いっぱいに広がる水槽では、青い光の中を、魚たちが忙しなく行き交っていた。

 

「……綺麗」

 

 思わず、言葉が漏れる。小さな魚の群れが、一つの生き物のように形を変えながら泳いでいるからだ。

 

「……まるで、別世界みたいじゃのう」

「そうだな」

 

 岩陰からは、色鮮やかな魚が顔を出し、またゆっくりと身を隠す。見たことない色とりどりの魚たちが、自由に泳ぎ回っているのを見ていると、俺は何故だか、『羨ましい』という気持ちになった。

 

ヒメノは、館内に入った時からずっと目を輝かせていた。

薄暗い通路に広がる青い光を見渡し、まるで一歩ごとに新しい景色を見つけるみたいに、視線を忙しなく動かしている。

 

「……凄いのう!」

 

 言葉は短いのに、声には抑えきれない弾みがあった。

ヒメノは振り返ってこちらを見ると、子どもみたいに嬉しそうに笑う。

通路を進むたび、ヒメノは立ち止まっては水槽を覗き込み、また少し歩く。

 

そのたびに、表情がくるくると変わった。驚いたように目を丸くし、感心したように眉を上げ、次の瞬間には満足そうに息を吐く。そんなヒメノを見ているだけで、俺はどこか温かい気持ちになった。

 

「ウエハラ、ウエハラ。ワシはこやつと写真を撮りたいぞ」

 

 よく知らない魚を指さしながら、そう言うヒメノ。

 言われるがままに、シャッターを切った。その一瞬、魚の鱗の輝きと、ヒメノの穏やかな表情が重なる。

 

先程とは打って変わり、どちらが主役か分からなくなるくらいに、ヒメノの姿は美しかった。

 

 

 

 

「———これより、イルカたちによるパフォーマンスを行います」

 

 昼食を終えた後、俺たちは今日の目玉となるイルカのショーを見に、屋上へ来た。

 

 屋外のスタンドに座ると、潮の匂いを含んだ風が頬を撫でた。

プールの水面は陽光を跳ね返し、青くきらめいている。観客のざわめきが少しずつ高まっており、どことなく期待感が湧いた。

 

隣に座っているヒメノは、前のめりになってプールを見つめている。

始まる前から楽しそうにしているのは見て取れた。目を輝かせて、落ち着きなく視線を泳がせている。

 

 その瞬間、ホイッスルの音が鳴った。

 すると水面が大きく盛り上がり、イルカが弧を描いて跳ねた。

 

「おぉっ……!」

 

 ヒメノの口から、思わず息がこぼれる。

水しぶきが太陽を受けて散り、白い飛沫が一瞬、光の粒になった。

 跳ねたイルカが水に戻った途端、すぐにもう一頭が続いた。

 

揃った動き、しなやかな体、無駄のない跳躍。歓声の中で、ヒメノは拍手を忘れて見入っていた。

 

ヒメノを見る。真剣にイルカを目で追っているその横顔が———やけに綺麗に見えた。

 

気づけば、俺はスマホを取り出していた。

まずは、空を切り裂くように跳ぶイルカにレンズを向け、タイミングを待って、シャッターを切る。

 

次に、少しだけ角度を変えて、イルカと———その横で見入っているヒメノを、同じフレームに収めようとする。

しかしその瞬間、レンズの先にいるヒメノと目が合った。

 

「……今、ワシを撮ろうとしたじゃろ」

「……いや、イルカを」

「本当か?」

 

 そう言いながら、ヒメノは、イルカと俺を交互に見た。

 そして、何を思ったのか、さっと顔を前に戻し、肩越しにこちらを見る。

 

 次の跳躍に合わせて、ヒメノは小さくピースをした。ニコッと、いたずらっぽい笑顔で。

 

「どうせなら、ちゃんと撮っておくれ」

 

 イルカが空を舞い、ヒメノの横顔が、光に反射する。

俺は一拍遅れて、シャッターを切った。

水しぶきと歓声に紛れて、胸の奥が少しだけ高鳴る。画面の中には、跳ねるイルカと、楽しそうに笑うヒメノが並んでいた。

 

 

 ショーが終わり、拍手が響く中、ヒメノは満足そうに息を吐いた。

 

「素晴らしいショーだったのう」

「そうだな」

 

 観客が徐々に立ち上がる。潮の匂いを含んだ風が吹き抜け、ヒメノは満足そうに息を吐き、肩の力を抜いていた。

 初めての水族館。そして———初めて誰かと遊んだ今日。

 

「……楽しかったのう」

 

ヒメノのその一言が、この時間に区切りをつけてしまいそうで、胸の奥がざわついた。

まるで———『今日』という日の終わりを告げるかのように。

 

「……」

 

 ———終わってほしくない。その気持ちだけが、はっきりと形として残っていた。

 

「……なぁ、ヒメノ」

 そう呼びかけると、ヒメノが顔を上げる。

さっきまでの笑顔の名残を残したまま、きょとんとした表情をしていた。

「なんじゃ?」

 

 

「———今晩、時間あるか?」

 

 

 

 

「ウエハラ、お前、車を持っていたのか?」

 

 水族館を出て、家に帰りついた時には、夜に差し掛かろうとする時間帯だった。

 

「あぁ、去年買ったんだ。結構古いけど、とても良いよ」

 

 駐車場の片隅に停められた白いスポーツカーは、夜の光を受けて薄く輝きながらも、ところどころに年季の跡を残していた。

 フロントの低いノーズは鋭さを失っていないが、バンパーの端には小さな飛び石の痕がいくつか点のように残っている。真っ白な塗装も、新車のような艶こそ減っていたが、それがかえって落ち着いた深みをつくっていた。

 

「……星の湖じゃったか? 電車では行けないのじゃな」

「あぁ、ちょっと山奥にあるからな。今夜までらしいから、ぜひ行きたいと思って」

 

 先週から見頃とされている絶景スポット。

 イルカショーが終わった後、俺はヒメノに「一緒に見に行かないか」と言ったのが始まりだった。

 

「おぉ、これがまさにドライブデートというやつかの」

 

 嬉しそうにそう言うヒメノ。

 

「まったく……俺よりテンションが高いじゃないか」

 

 そう返し、運転席に腰を下ろす。

 

「楽しみじゃのう」

 

 そう言い、笑うヒメノを横目に、俺はエンジンをかけた。

 

 

 

 

 数十分運転すると、市街を抜け山道に入った。

 

 夜の街を抜ける道路を、車はゆっくりと登っていく。街灯が流れるたび、フロントガラスに淡い光が走り、車内に短い影を落としていた。

 

窓の外は、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かで、目的地へ向かうにつれて、空気もひんやりしてくる。背中を預けたシート越しに、エンジンの低い唸りだけが一定のリズムで続いていた。

 

「ウエハラ、ウエハラ」

 

 窓の外をずっと眺めていたヒメノが、少し上擦った声でそう聞いてくる。

 

 俺は速度を落とし、「どうした?」と聞く。

 

「なんだか懐かしい気配がする……もしかしたら昔来たことがあるかもしれん」

「本当か?」

 

 その言葉に少々驚く。以前、ヒメノは自分の記憶はないと言っていたからだ。

 

「もしかしたら、だけど……なんだか見覚えのある景色なのじゃ」

「そうか。もし本当にそうだったら、何か手掛かりが見つかるかもしれんな」

 

 ヒメノは「そうだと良いのじゃが」と言い、持ってきたコーヒーのふたを開け、それを飲んだ。

 

 

 車は林道に入った。左右から迫る木々がヘッドライトの光を受け、一本一本が白く浮かび上がる。道幅は心なしか狭くなり、アスファルトの継ぎ目がタイヤ越しに細かく伝わってくる。

 

「して、あとどれくらいで着くのじゃ?」

「そうだな……この森を抜けたらもうすぐのはずだ」

 

 カーナビに記された道筋を見てそう言うと、ヒメノは何か言いたそうな表情をしていた。

 気になったので、俺は「何かあった?」と尋ねる。

 

「……なぁ、ウエハラ。どうしてここに行こうと思ったのじゃ?」

 

 そう不思議そうに聞くヒメノ。

ヒメノの言っている意図があまり理解できなかった俺は、「どうして?」と聞き返す。

 

「うむ。夜景なんてどこでも見られるのに、どうしてここに行きたいと思ったのじゃ?」

「…………なるほど。どうして、か……」

 

 そう問われて、俺は少し言葉に詰まる。ヒメノと一緒に見に行きたい、それも一つの理由だ。しかし、もう一つ、俺には別の理由があった。

 

それと同時に、昔の嫌な思い出が蘇る。脳裏に今でもこびりついている———トラウマ。

 ヒメノは俺のことを笑わない。そう分かっているのに、どうしても———最初の一言が出せずにいた。

 

 

「……………………………………………………実は俺、星を見るのが好きなんだ」

 

 少し悩んだが、俺はヒメノに本当のことを打ち明けた。

 

 

 一瞬の静寂。俺は不安になり、おそるおそるヒメノの方を見た。

 

 

ヒメノは、笑っても怒ってもいなく、ただただ純粋に———驚いていた。

 

「そうなのか! ウエハラにぴったりの趣味じゃないか? それならそうと、早く言ってくれれば良かったのに」

 

 なんてことないように、そう言うヒメノ。

 その言葉を聞き、俺は少し申し訳ない気持ちになった。ヒメノは人の趣味を馬鹿にするような奴じゃないことぐらい分かっていたのに。

 過去の出来事を振り返る。

 

小学校時代、ハナサトを除いて皆が俺の趣味を罵倒し、嘲け笑っていた。いい子ぶるな、生意気、ありとあらゆる罵詈雑言を吐かれた。

 自分の好きなことも認めてくれない『ガッコウ』という名の監獄。

 あれから十年経っても、あの時の記憶は残ったままだった。

 

「……ありがとう」

 

 ヒメノに聞かれない声量で感謝を伝える。ヒメノはあいつらとは違う。

 十年にわたり俺の心を縛っていた鎖が、ヒメノのたった一言で消え失せた瞬間だった。

 

「ワシも綺麗な景色を見るのは大好きだからのう。もうそろそろ着くと聞いて待ちきれんぞ………………おぉ!」

 

そう言い終わると同時に、車は林道を抜けた。

その瞬間、視界がすっと開ける。フロントガラスの向こうには、夜空の海が広がっていた。

 

 

 

 

 目的地は林道を抜け、すぐの所にあった。

車をゆっくり減速させ、湖畔の駐車スペースに滑り込む。

ライトを落とすと、あたりは一気に闇に沈み、代わりに湖面の淡い光が浮かび上がった。

 

風もほとんどない夜で、水面は鏡のように滑らかだった。遠くにちいさく灯る建物の光が、その鏡に揺れながら映り込んでいる。

エンジンを切ると、辺りには夜の静けさだけが残っていった。

 

 

ドアを開けた瞬間、ひんやりした湿気が肌を撫でた。山の匂いと水の匂いが混ざった、夜の湖特有の静かな空気だ。足元の砂利を踏む音が、やけに大きく響く。

 

「綺麗……」

 

 湖のほとりに立つと、夜風がやわらかく頬を撫でた。水面は鏡のように滑らかで、空に浮かぶ満月がそのまま映し出されている。

 

「———ウエハラ、ウエハラ。せっかく来たのじゃから、一周しようぞ」

 

 まるで今思いついたかのように、そう言うヒメノ。拒む理由なんて、どこにもなかった。

 ヒメノは歩き出すなり、少しだけ歩幅を広げた。まるで、子どもが新しい場所に来たみたいに、あちこちに視線を走らせている。

 

「凄いのう。夜の湖って、こんなに綺麗なのじゃな」

「そうだな。俺も初めて来たけど、思ったよりこの湖広いな」

 

 そう答えると、ヒメノは「確かにじゃな」と頷き、満足そうに微笑んだ。その横顔が、月明かりを受けて、淡く浮かび上がる。頬の輪郭や、風に揺れる髪の先が、静かな水面と不思議なくらいよく似合っていた。

 

 歩くたびに、砂利が小さく音を立てる。そのリズムに合わせるように、俺たちの会話は途切れ途切れだった。しかし、沈黙が続いても、不思議と気まずさはなかった。

 

 ヒメノはときどき立ち止まり、湖を覗き込んでは、「星が映ってる!」と指をさす。水面に揺れる光は、触れれば壊れてしまいそうで、思わず息を詰めた。

 

「———それにしても、ウエハラの言う通り、思ったより長いのう」

「でも、のんびりでいいだろ」

 

 そう言うと、ヒメノは少し驚いたようにこちらを見て、それから嬉しそうに笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなる。何か特別なことをしているわけじゃない。ただ同じ景色を見て、同じ風を感じて、同じ時間を歩いているだけなのに、それだけで十分だった。

 

 湖を縁取る道を歩いていると、ヒメノがふと足を止めた。そこは、光が届かない、少しだけ開けた場所だった。

 

「ウエハラ、ここ降りれそうじゃないか?」

 

 ヒメノが指差した先には、緩やかな斜面があり、その先に湖のほとりが見える。水面は近く、夜の空気をまとって静かに息をしているようだった。

 

「気を付けろよ、足元」

「大丈夫じゃ」

 

 そう言いながらも、ヒメノは一歩一歩慎重に降りていく。長い黒髪が背中で揺れ、バランスを取るたびに、風にあおられて横へ流れた。

 

 湖のすぐそばまで来ると、風の匂いが変わった。湿った空気と、草の匂いが混ざり合い、肺の奥まで冷たさが届く。

 

「ここ……涼しいのう」

 

 ヒメノは小さく息を吐き、膝を折って腰を下ろした。俺も少し間を空けて、その隣に座る。肩が触れそうで触れない距離。意識すればするほど、近く感じる。

 水面はすぐそこにあり、わずかな動きで月の光が揺れた。

 

「座ると、音がよく聞こえるのう」

 

 ヒメノが囁くように言う。

 

「水の音?」

「うむ。それと風」

 

 ヒメノは膝を抱えるようにして座り、前を向いたまま黙って海を眺めていた。長い黒髪が背中を伝い、風が吹くたびに、ゆっくりと横へ流れる。闇の中で、その動きだけがやけに鮮明だった。

 

 水面には、美しい満月が映し出されている。

 

「———月が、綺麗だな」

 

 無意識に俺はそう呟く。

 

「……………………ウエハラ、そういうのは恋人に言うセリフだぞ」

 予想だにしていない、ヒメノの雰囲気をぶち壊すようなそのセリフに、俺は思わず笑ってしまった。

 

「…………なんだそれ。じゃぁ、間違ってないな」

 

 ヒメノは「えっ」と驚いた顔でこちらを見る。

 

「冗談だよ。驚きすぎ」

 

 俺は、笑いをこらえきれずにそう言う。

 

「~っ!」

 

 ヒメノは口をきゅっと結び、眉を少し寄せる。

怒りよりも、不満の可愛さが残っているその表情が、月のように美しかった。

 

 俺とヒメノの二人だけの時間。

 岸に立つ俺たちの影も、水に映り込み、そっと揺れる。空と湖の間に漂う光は、世界を静かに包み込み、日常の喧騒を忘れさせるようだった。

 

「……綺麗じゃのう、ウエハラ」

 

 その声は、夜の静寂に溶けるように柔らかく、少し照れたような響きを感じた。

 そしてヒメノはそっと手を差し出してきた。ゆっくりと俺の指に触れるその感触は、柔らかく、そしてひんやりと冷たい。

俺はその手を握り返す。握る力の加減もわからないまま、時間が少し止まったかのように感じた。

 

 俺はヒメノに嘘を吐いたことを心の中で謝る。

 星が好きだから見に行きたい、と言ったのは建前。俺はただ、ヒメノの喜ぶ顔が見たかっただけなのだ。

 

 その日、その夜。俺とヒメノはそれ以上喋らず、只々この美しい眺めを目に焼き付けた。

 

 

 

 

「……そろそろ帰ろうか」

 

 どのくらいの時間そうしていたのだろう。どちらからともなく手をそっと振りほどく。

 

「……また来たいのう、ウエハラ」

「そうだな、また二人で。来年も再来年も」

 

 次にこの景色を見れるのは一年後。それまでも、これからも———

 駐車場にヒメノと二人で戻っている時、俺はふとヒメノの顔を見た。

 すっと通った鼻筋と整った輪郭。長い睫毛の影が頬に落ち、涼やかな目元をいっそう際立たせていた。

 

 じっと見つめている俺に気付いたのか「……なんじゃ」と言い、口を小さく尖らせて、むすっとするヒメノ。

 

 その仕草が愛おしく、俺は「なんでもない」言い、車のドアを開けた。

 そして俺たちは車に乗り、星の湖を後にした。

 また来年も、ヒメノと共に来られることを神様に祈りながら。

 

 

 

 

 その後、俺たちは近くのコンビニに寄り、「コーヒーを買って来る」と言ったヒメノは、近くの自販機へと歩いて行った。

 

 車の中で待っていた俺だったが、次第に退屈になってきたので、空気を吸いに外に出る。

 

 

 車を降りると、道路の向かい側に一人の女が佇んているのに気付いた。

 黒く艶やかな髪が肩にかかったその女は、白いワンピースを着ていた。どことなくヒメノに似ている。すらりとした姿に、街灯の光が淡く反射して、透明感のある印象をつくっていた。

 

 

 

 

 俺は思わず息を呑んだ。その女は、あの頃と面影が変わっていなかったからだ。

 

 

 

 

「———ハナサト?」

 

 俺はそう問いかける。しかし、ハナサトらしき女は、こちらに気付いていないのか、背を向けて歩き出した。

 

「……っ、待って!」

 

 思わず叫び、ハナサトらしき少女の方へ走る。

 

 

 

 

「——————ウエハラ!」

 

 

 

 

 向かい側からヒメノの大きな声が聞こえる。

 

 

 その瞬間、横から強烈なクラクションが響き、夜の空気が震えた。

 

 

 

 

「———っ!」

 

 

 

 

視界の端で、大型トラックのライトが眩しく広がる。動こうとする前に、足がすくんだ。

 

トラックのタイヤがアスファルトを滑り、悲鳴のようなブレーキ音が響く。

 

 

 

 

 誰かが遠くで叫んでいる。その声を最後に——————俺の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 まぶたの裏が、暗闇で揺れ始め、意識が深い水の底へ沈んでいく。

先に聞こえてきたのは、もう二度と聞くことのできないはずの、君の声だった。

 

 

 

 

「……ハナサト、どうしたんだ? そんなに慌てて」

 

 ある日の放課後、落ち着きなく周りを見渡しているハナサトに俺は声をかけた。

 

「……無い」

「何がだ?」

「……私の、ウサギの髪留め」

「髪留め?」

「うん。さっきの体育の時間に外したんだけど、見当たらなくて……」

 

 そう言った途端、背後から同じクラスの———名前は忘れた。覚える価値もない三人組の、くすくすと笑う声が聞こえた。

 俺は、あぁなるほど、と頷く。ハナサトはその笑い声が聞こえていないようだった。

 

「まぁ、とりあえず今日は帰った方が良いんじゃない。この後、委員会がこの教室を使うんでしょ」

 

 まだ名残惜しそうにしている様子であったが、「……そうだね。ありがとう」と言い、ハナサトは教室を後にした。

 

「ねぇ見た~? あの女の顔」

「自分は頭良いからって調子乗りすぎ」

「あんな髪留めはゴミがお似合いよ」

 

 ギャハハと耳をつんざくような声で笑う三人組。

 俺は教室を出ようとするついでにゴミ箱を見た。さっきまでハナサトが身に着けていた綺麗なウサギの髪留めが、原形をとどめていない程、ぐちゃぐちゃにされていた。

 俺はそれを一瞥し、教室を出て行った。

 

 

 

 

 帰り道、俺は近所の雑貨屋に寄った。

 

「いらっしゃい」

 

 奥のレジから、いつもの老人が気前の良い表情で、顔をあげている。

 

「ん? なんだ、坊や一人か。いつもの嬢ちゃんはどうしたんだ?」

 

 そう言い、こちらを見る老人店主。いつも二人でここのベンチに座っていたから、不思議に思ったのだろう。

 

「いえ、今日はいません」と俺は言い、棚の隅にポツリとある品物を指さした。

 

 

「今日はこれを買いに来ました。いくらしますか?」

 

 

 

 

「ハナサト」

 

 ハナサト家の玄関前、呼び鈴を鳴らすとゆっくりとドアが開き、数十分前と同じ服装のハナサトが顔を出してきた。

 

「これ、見つけたよ」

 

 そう言い、ハナサトにウサギの髪留めを渡す。

 

「私の髪留め! ……どこにあったの?」

 

 心底驚いた顔をして、こちらを見るハナサト。

 俺は「机の引き出しにあったよ」と返す。

 

「……っ! ありがとうウエハラ!」

 

 嬉しさを隠しきれずに、微笑むハナサト。目が細くなって、頬がふわっとゆるんでいた。

 

「おう、次からは無くすなよ」

 

 そう言い、俺は「あぁ、それと」と言葉を続ける。

 

「もう明日からその髪留めはつけてくるなよ」

 

 忘れていた大事なことを伝える。

 

「……どうして?」

「また無くすかもしれないだろ。次は見つかるか分からないからな」

 

 そう言うと、「……それは確かに」と頷くハナサト。

 

「———じゃぁ、学校じゃない時には付けてもいいんだよね?」

 

 視線を逸らし、意味もなく髪をいじりながらそう言うハナサト。

 最近になって分かったが、ハナサトは考え事をしている時、いつも自分の髪をいじっていた。きっと癖になっているのだろう。

 

「別に良いんじゃない。だけど、次無くしたらもう探さないからな」

 

 俺はそれだけ言い、ハナサトに背を向けた。

 

「……………………ありがとう、ウエハラ」

 

 ポツリと漏れたその声を聞き、俺は再び帰路に着いた。

 

 

 

 

 それからというもの、ハナサトは人目のつかない所で俺に構うようになってきた。

 最初は鬱陶しかったが、段々と慣れてしまい、いつの間にか二人でいる時間が当たり前になっていった。

 

 普段は無口なのに、俺と話すときは明るく、ハキハキと伝えてくる。

 幼馴染のよしみからだろう。俺はハナサトを競争相手としか見ていなかったのに、いつの間にか——————ハナサトを『友達』として見ていたのかもしれない。

 

 ハナサトも、もしかしたらそうだったかもしれない。いつだって俺たちは———似た者同士だったから。

 

 

 しかし、ハナサト。俺はもう一度君に会って、聞きたいことがあるんだ。

 

 どうしてあの日、君は俺を置いて行ったんだ。

 

 どうしてあの日、君は俺と意味のない約束をしたんだ。

 

 どうして、あれから俺と一度も会わなかったんだ。

 

 どうして—————————

 

 

 

 

 目が覚めると、そこは知らない天井だった。

 

「……っ、ここは……」

 

 酷くかすれた声でそう呟く。腕を動かそうとした途端、鈍い痛みが肩を走った。視線を向ければ、包帯がぐるぐると巻かれ、点滴の管が静かに揺れていた。

 

「———っ! ウエハラさん、起きましたか!」

 

 カーテンの向こうから気配がして、看護師らしき女が慌てて寄ってくる。

 

「ウエハラさん、無理に動かないでください。お身体は大丈夫ですか?」

「………………大丈夫、とは言えないかもしれません。 ……あの、俺どうしてここに?」

 

 そう言うと、看護師の女は驚いた顔でこちらを見る。

 

「…………覚えていませんか? あなた、道路で車にぶつかって……救急搬送されたんですよ?」

 

その言葉が、遠くでくぐもった鐘のように耳に届く。

途端に、フラッシュのように記憶が戻ってきた。

眩しいヘッドライト。ブレーキ音。体が宙に浮いた瞬間の、音のない衝撃———

 

「……っ!」

 

 胸の奥がざわりと波立ち、喉が締め付けられ、手のひらが汗ばむ。

 

「———大丈夫です。命に別状はありませんので、ゆっくり休んでください」

「…………はい、ありがとうございます」

 

 看護師の女の安心させるような声に、俺は徐々に落ち着きを取り戻した。

 

 

 

 

 その後、話を聞くと、どうやら俺は轢き逃げされたらしい。

 轢いた相手は現在も逃走していると看護師は言っていた。何とも胸糞悪い話だ。

 

「あの、俺を警察に電話してくれたのは……」

「コンビニの店員さんです。覚えていませんか?」

「……はい」

 

 どうして俺が夜遅くに、わざわざ家から遠く離れたコンビニにいたのかは不明だが、大体の状況は理解することが出来た。

 けれども俺は———何か大事なことを忘れている気がする。

 

「……気が動転しているのも無理はありません。しばらくは安静にしていてください」

「……分かりました。ありがとうございます」

 

 看護師の女は俺に一礼すると、部屋を後にした。恐らく医者に報告しに行ったのだろう。

 

「———っ!」

 

 すると、突然人の気配がしたので振り向く———が、そこには空になったゴミ箱と、誰もいないベッドだけが佇んであった。

 

 気のせいか。そう思い、スマホを開く。どうやら三日ほど意識不明であったらしい。両親から数十件の着信履歴があった。

 俺はすぐに電話をかけた。無事であること、心配かけて申し訳なかったことなどを告げる。両親は俺の言葉に安心し、後でこちらに伺うと言い、通話を切った。

 

 それにしても、と俺は思う。あんなことがあったというのに、心は意外と落ち着いていた。

 

「……馬鹿らしい」

 

 俺は一人でそう愚痴り、布団に身を被せた。することもないので両親が来るまで寝ようと思ったからだ。

 当然、両親を除いて俺のお見舞いに来る人はゼロだ。そのことに俺は何とも思わない。

むしろこんな無様な姿を、誰にも見られなくてホッとしているくらいだ。

 そう思い、俺はベッドに身を委ねた。

 

 

 数時間すると、両親がやってきた。俺は事情を説明し、改めて大丈夫の意を示すと、今度こそ安心したようだった。

 

 

 それから退院の日まで、俺は一人で時間を潰した。本を読んだり、意味もなくテレビを見たり、いつも通りの日常を過ごした。

 幸い、後遺症などは残ることなく、およそ二ヶ月で退院することが出来た。

 

 

 

 

「やっとか……」

 

 退院の日、俺はそう愚痴りながら病院を出た。

 何とも既視感のある光景だ。

 一つ違うのは、春がもうそろそろ終わりを告げようとしている時期であることぐらいか。

 

 初夏の光が眩しくて、思わず目を細める。

 川沿いの柳が淡い緑を揺らしている姿を一瞥し、俺は帰路に着いた。

 

 帰りながら、俺は十年前のハナサトとの約束を思い返していた。

 

 十年前、ハナサトは言った。「二十になっても、お互いハブられものでいたなら一緒になろう」と。

 

 当時の俺は、そのことを深く考えてはいなかった。自分は幸せになる価値は無いのだと。誰かと分かち合うことなど、ありえないことだと。

 ただ俺は——————何故かハナサトとの約束をずっと覚えていた。

 いや、思い出したといった方が正しいか。十年後———今年の夏祭り、俺は何故だかハナサトに会えるのではないかと思っていた。

 

 小学校の卒業式を最後に、ハナサトは姿を消した。

 当時、俺は裏切られたと思った。俺を置いてけぼりにして、何一人で勝手に逃げているんだよって。

 

 結局、俺は中学校でも逃げることが出来なかった。苛められ、追い詰められ、いつの間にか心は擦切っていた。結局俺は誰にも助けを求めることが出来なかった。家族にも———ハナサトにも。

 

 俺はハナサトに手紙を送ったことはなかった。返事が来るのが怖かったからだ。幸せに生きていると———言葉で、筆跡で。気づきたくなかった。知りたくなかった。

 

 いつしかハナサトの記憶も、遠い昔のようになっていた。人間に期待しなくなったからだ。

 唯一友達になれるかもしれないと思った相手にも裏切られた今、俺は本当の意味で人間不信になっていた。

 しかし俺は何故だか———ハナサトと交わした、あの口約束を反故にできないと思っていた。

 

 

 ———何故だろう。そう思っていた矢先に、見知らぬ駄菓子屋があった。

 その近くのベンチを見る。 ———当然誰もいない。

 ただの何もない光景なのに、俺はどうしてか、胸がぽっかりと空いた気持ちになった。

ふと近くの自販機が目に入った。

ちょうど喉が渇いていたから何か買おうと思ったが、何故か俺は、普段飲まないコーヒーを買った。

 ふたを開け、中身を飲む。 ———当然苦いし、美味しくもない。

 

 

 河川敷を歩く。川の流れはゆるやかで、陽射しを細かく砕いてきらきらと散らしていた。

生暖かい風が吹くたびに、枝の先で何かがほどけるように音を立てた。

 綺麗だな。そう思い、写真を撮ろうとスマホを取り出した。

 画面に映るのは、青空と草の揺れ。シャッターを切って、特に意味もなく、写真フォルダを開く。

 

 ———そこに並んでいたのは、見覚えのない写真だった。

 知らない建物の外観。薄暗い館内。ガラス越しに泳ぐ魚の群れ。

 水族館?

 指先が止まる。そんな場所に行った記憶は———ない。

 保存されていた写真は、どれも綺麗だった。構図も、光の入り方も悪くない。

 

 けれど———胸の奥が、妙にざわつく。何枚かスクロールして、違和感がはっきりする。

 その写真の多くが———少しだけ、横に余白を残した構図になっていた。

 

「……どういうことだ」

 

 思わず独り言が漏れる。最後にイルカショーの写真らしきものもあった。

 跳ねるイルカ。水しぶき。

そして———画面の端に、不自然に空いたスペース。

 

「……」

 

 本来なら、そこに誰かの横顔があったのではないか。そんな考えが、理由もなく浮かぶ。

 ———誰と行ったんだ。俺は何をしている。

 問いかけても———記憶は何も返さない。

写真には、魚と水と光しか写っていない。

それなのに。

胸が、きゅっと締めつけられる。

喉の奥が熱くなって、視界が滲んだ。

 

「……えっ」

 

 涙が落ちる。一滴、また一滴。止めようとしても、意味がなかった。

 ———誰だよ、そこにいるのは。誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ、誰だ———

 

 

 

「———誰だ。お前は」

 

 

 

 声が、掠れる。名前も顔も思い出せない相手に———意味もなく。

 俺はその場で崩れ落ちた。すれ違う人々が皆、可哀想な目、鬱陶しそうな目で見てくる。

 

 スマホを持つ手が震えて、画面が勝手に揺れる。写真の中の水族館は、今にも誰かが隣に立ちそうなほど、静かで、やさしい。

 しかし———何度、何度見ても、そこには誰も写ってはいない。

 

「……ごめん」

 

 誰に向けた言葉かもわからないまま、ぽつりと零れる。

明るい季節なのに、木々はこんなにも揺れているのに、胸の奥だけは、どこかに置き去りにされた気分だった。

 

 誰の名前も思い出せない。声も、匂いも———触れた感触もない。

河川敷を吹き抜ける風が、頬の涙を冷やしていく。

 それでも———この胸の奥の痛みだけは、何一つ、薄れてはくれなかった。

 

 

 

 

 気が付くと、車を走らせていた。山道を抜け、視界が開けた瞬間、息を呑む。

 湖だった。

 

 鏡みたいに空を映す水面、風に揺れる木々、遠くの山影———

 知っている。初めて見るはずなのに、懐かしさが先に来る。

 車を降りると、冷たい空気が頬を撫でた。足音が砂利に沈むたび、胸の奥がざわつく。

 

 ———ここに、来たことがある。

 確信はあるのに、理由だけが思い出せない。

目を閉じると、断片が浮かぶ。月の光、湖面に揺れる反射、誰かの気配。

 ———隣に、誰かいた。

 それだけは分かるのに、顔も声も、名前すら掴めない。手を伸ばせば触れられそうなのに、そこには何もない。

 

「———誰だ。君は」

 

 喉からこぼれた声は、情けないほど震えていた。

風が吹き、水面がさざめく。それが返事みたいに聞こえて、胸が締めつけられる。

 

 思い出せない。大切だったはずなのに。ここへ連れてきたほど、忘れてはならない人だったのに。

 ———会いたかった。

 ———きっと、また一緒に来る約束をしていた。

 なのに、その相手だけが世界に消えている。

 

涙が止まらなかった。記憶を失ったことが、初めて本当に怖くなった。失ったのは、過去じゃない。誰かを思っていた自分自身だった。

 湖は何も語らず、ただ美しいままそこにあった。その静けさが、残酷なほどに俺の心に残った。

 

 

 

 

 自宅に帰って来た。実に久しぶりの帰宅だった。

 

「……ただいま」

 

 誰もいないのに、俺はそう呟き中に入った。

 リビングに入った途端、無性に腹が減った。

 時計を見ると、午後六時過ぎ。 ———今日は疲れた。少し早い気がするが、晩御飯にしようと思った。

 

 そう思い、冷蔵庫を開ける。その瞬間、俺は一つの違和感に気付いた。

大量の酒とビール、そして調味料の数々。全く身に覚えのないものがそこにあり、俺は奇妙な感覚になった。

 どういうことだ。そう思いながら辺りを見渡すと、ふと視界にあるものが映った。

 

 

 それは、洗い物と一緒に放り込まれた—————————鍋。

 

 

「……すき焼き?」

 

 そう呟いた瞬間、俺は今まで忘れていた光景を思い出した。

 部屋に漂う、甘い醤油の匂い。湯気の向こうで、ぐつぐつと音を立てるすき焼きの鍋。

 笑い声。テーブル越しの彼女の手。

肉を掬い、「ちょっと味見して」と差し出す声。

彼女がそれを受け取って、熱くて噛みながら笑っていたこと。そして、鍋の湯気の向こうで、ほんの少し恥ずかしそうに微笑む顔。

 息が詰まった。忘れていた記憶が一気に呼び起こされる。

 

 あの日。

 ヒムロに突き落とされた時、俺は確かに死んだと思った。

 しかし、次に目を開けた時には———知らない女が佇んでいた。

 その女は自分のことを「神」と名乗った。得体のしれない女。俺は最初、この女のことを全く信用してなかった。

 

 しかし———「神」と名乗ったその女は———実に普通の人間だった。

 その女の声には、不思議なまやかしがあった。楽しそうに話すその女に、いつの間にか俺も警戒心が薄れていった。

 

 そして退院して間もなく。どういう巡りあわせなのか、俺は再びその女と再会した。

 コーヒーを優雅に飲んでいたその姿は、あの時と———まるで変わってなかった。

 止まっていた時間が、再び動き始めた瞬間だった。

 

 そして月日は過ぎ、なんとなく行きたいと思った———水族館。

 ゆっくりと漂う魚たち。照明に反射する鱗。人のざわめき。

 そして———俺の隣で笑うその人。

目が合うと、気まずそうに———でも嬉しそうに。

 ———あぁ、この笑顔を俺は知っている。

 

 その日の夜。

 夜の湖畔に映る、俺の影と、もう一つの———少しだけ小さな影。

 湖を見つめる横顔。肩までの髪が、風に揺れる。服が、月明かりを受けて淡く光る。

 そっと手を握る感触。握り返す手触り。

 ———あぁ、この温もりを俺は知っている。

 

 

 

 

「……っ、ヒメノ!」

 

 

 

 

 彼女の名を叫び、リビングを見る。

 

 

すると、今まで誰もいなかったはずのリビングに———一人の女が立っていた。

 肩までかかった艶やかな髪。肌はやや白く、透き通るような綺麗な瞳。大きめの白い羽織しか着ていないのに、どこか美しく、見惚れてしまいそうな雰囲気を醸し出していた。

 そんな女———ヒメノは泣きそうな顔でこちらを見ている。

 

「悪い、ヒメノ。俺、お前のこと……」

 

 どう説明しようと言い淀んでいる中、ヒメノは勢いのまま胸に飛び込んできた。

 

「……よかった……ほんとうに……! もうウエハラと会えないって……!」

 

 細い腕が強く、苦しいほどに回される。肩口に顔を埋める彼女の震えが、服越しに伝わってきた。

———その温もりが、忘れていた記憶の最後の断片を、確かに繋ぎ直した。

 

「すまなかった……ヒメノ」

 

 そう言い、ヒメノの頭を撫でる。

 

「……馬鹿だな、俺は」

 

 ヒメノは俺のことを決して忘れなかったというのに。

 

それに応えるかのように「ばかぁ、ばかぁ」と泣きじゃくるヒメノ。

 そんなヒメノを俺は強く抱きしめた。伝わってくるヒメノの確かな体温が、胸の奥でほどけていくようだった。

 

 

 

 

「……ウエハラ。ワシは腹が減ったぞ」

 

 ひとしきり泣いた後、開口一番にヒメノはそう言った。

 

「そうだな……今日はすき焼きにでもするか」

 

 その言葉を待っていたかのように、顔を上げるヒメノ。

 

「そう、すき焼きじゃ。今夜は寝かせないからな」

 

そう決意するヒメノを見て、「勘弁してくれ」と思わず苦笑した。

 

 

 冷蔵庫に余り物の肉があったので、準備は至ってすぐに出来た。

 俺たちはリビングに、向かい合わせに座り、鍋に水を入れ、具材を投入した。

 鍋に入った具材を掬いながら、俺たちは二ヶ月の空白期間を埋めるように、少しずつ言葉を紡ぎ始めた。

 

「———なら、俺が病院にいる間もずっといたのか」

「そうなのじゃ。お前ときたらまったく気づきもせんから……って、おい。その肉はワシのじゃ」

 

 そう言い、鍋に入っている肉を掬い一口で頬張るヒメノ。

 

「それは悪かった。まさか、ヒメノがずっといるとは思わなかったよ」

「まったくじゃ。夜とかお前はすぐ寝るから……ずっと暇だったのだぞ」

「テレビでもつければよかったのに」

「……一人で見てもつまらんじゃろう」

 

「それもそうか」と言い、テレビのリモコンを取る。

 

 電源を押すと、何やらクイズ番組をやっていた。司会らしき二人の笑い声が聞こえる。

 

「お、クイズ番組をやっておるのか。 ……どうじゃ、勝ったら一つ食べられるという勝負をせんか?」

「……別にいいけど、一個も食べられないかもしれんぞ?」

 

 そう挑発的に返す。昔から本は読んでいたので、雑学の知識はそれなりにあったからだ。

 

 その挑発に怯むどころか、ヒメノは「お前の方が一個も食べられんかもしれんぞ」と好戦的な笑みで返す。

 

 

 しばらく待った後、司会の人が問題文を読み上げ始めた。

問題文が読み終わる前に回答する———が、ヒメノも同じタイミングで答えを言った。

 

「……今のは俺が早かったと思うが?」

「———いいや、ワシじゃ。だからその肉をよこせ」

 

 子供同士のような会話。あまり食にうるさくない俺だが、どうにもヒメノに負けるのが癪だったので、全力で挑んだ。

 しかし、最後の最後で凡ミスをしてしまい、ヒメノが一勝を飾ることになった。まさかヒメノに負けるなんて夢にも思わなかった。

 

 酒を飲み、勝ち誇った表情のヒメノを見て、俺は思わず笑ってしまった。

 こんなにも、楽しいなと思える夜は久しぶりだった。

 誰かと盃を交わす夜。それは俺にとって、かけがえのないものとなっていった。

 

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